時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

風前の灯:「第3イタリア」そして日本は?

2009年05月20日 | グローバル化の断面

  イタリア、トスカーナ地方プラートは、ながらくイタリアを代表する繊維産業の産地として知られてきた。1980年代に「第3イタリア」の名で呼ばれ、新たな「産業活性化地域」のひとつとして、世界の注目を集めてきた。「第3イタリア」という意味は、イタリア国内の工業地帯で生活水準も高い「北部」、あるいは農業地帯で発展が遅れている「南部」とも異なった、小企業の集積をベースとする競争力ある「第3の産業地域」という位置づけによるものだった。地理的には、イタリアの中北部ミラノ、トリノなどの周辺で、さまざまな産地が分布している。

 ここには、繊維、木工、金属など、産業ごとに多数の小企業が同じ地域に集積し、ひとつひとつの企業の力は弱小だが、地域全体として集結して、他の地域の企業と競争するという仕組みが形成されてきた。新たな時代の産業モデルのあり方を示すものとして、世界の注目を集めた。1980年代当時、産業論や労働の領域で大きな話題となった制度派経済学者ピオーレ、セーブルの著作『第二の産業分水嶺』The Second Industrial Divide のモデルとして想定された地域としてもよく知られている。このモデル化には先行して、イタリア経済学者の地道な貢献があった。

 1980~90年代に調査団などで、2、3
度訪れたことがあった。その印象は大変強く、今日まで鮮明に残っている。最初の時は企業・産業論の分野での大先輩O先生、S先生などをご案内?しての旅だったが、お二人ともこれこそ探し求めていたモデルと大変感動されたご様子だった。しかし、グローバル化の衝撃は、すでにこの産業立地にも及んでおり、一抹の不安も感じられ、もう少し行方を見極めたいと思っていた。

活性化のための原理
 これらの産業地域としての編成原理、思想は、基本的に同じと考えられる。個々の企業は、数人から10人程度の小さな企業で、ほとんどが家族経営である。訪れたどの企業でも、規模拡大によるスケール・メリットは考えていないという答が戻ってきた。日本の企業と比較して強い印象を受けたのは、それぞれの企業が他の企業とは異なった製品や工程
に特化することで、独自性を発揮するという考えだった。同じ地域内でも、他の企業からどれだけ「距離をおけるか」が目標と答えてくれた若い家具製造経営者の言葉が印象的だった。ユニークさこそが企業の生命という考えに感銘した。

 こうして同一地域内では企業間で互いに競争しながらも、地域の外部に対しては、ひとつの地域集積体として競争に当たるという構造が作られた。集積の規模はかなり大きくなるが、フレキシブルな態様が特徴だ。一つの地域に存在する企業数も数百から千を越える。

 ミラノの北郊、コモ湖との間にあるプリアンツを訪れたことがあった。ここは木工家具の産地として世界的に著名な地域である。ここも同一地域に多数の企業が存在しながらも、地域内ではそれぞれの特徴、斬新さを競い合い、独自性を保っている。総じて大規模市場を目指すことなく、当初からニッチな市場を目指している。ほとんどの企業は、自社で椅子、テーブルなどユニークなデザインの家具を生産している。それでいて、ある企業はテーブルに
、別の企業は椅子の脚の部分にというように、得意とする領域に専門化している。日本の経営者グループが見学にくると、翌年すぐに同じようなデザインの家具が市場に出てくるといわれ、返答に詰まった。

独創性に生きる
 「第3イタリア」の強みのひとつは、家族経営形態に基礎を置く点にあった。家族というまとまりのよさを志向したのだろう。最終的には、個々の企業の開発する製品の斬新さ、そして地域の集団としての総合力が目標に設定されていた。地域内の経営者たちの結束も強い。一本の矢では弱いが、数十本、数百本を束ねれば強力になるという考えに近い。そして、地域内部の企業家たちのネットワークが情報の交換、連携に大きな役割を果たしている。

 こうした産業活性化地域が、中国、インドなど労働コストが数十分の一といわれるような国々と、果たして競争してゆけるか、80年代当時から大きな課題となっていた。すでにグローバル化の波は怒濤のごとく、この地域へも押し寄せていた。対応の選択肢として考えられたのは、できうるかぎり基本路線を維持するが、世界の先端ファッションを取り込むデザインなど創造性を必要とする製品企画・開発段階は、他の地域へ譲り渡すことなく、イタリアの産地が担うことが想定されていた。他方、生産や販売は、臨機応変、中国など低コストの地域、最終市場に近い地域へ移転も考えるという方向であった。

 しかし、生産もイタリアで行われないかぎり、 Made in Italy (イタリア製)ではなくなり、ブランド力も維持できないとの危惧が強まっていた。事実、その危惧は現実のものとなり、ブランド力にかげりが出てきた。もうひとつの選択肢として考えられたのは、イタリアの産地へ安い外国人労働力を受け入れるという方向だった。

破壊的な中国労働コスト
 その後、労働コストの急速な上昇に耐えられなくなった地域が生まれた。ファッション性、デザイン力などが勝負どころで、しかも家族経営の小企業では、コスト吸収の余地が少ないのだ。トスカーナ州の繊維のプラートがその例である。プラートは700年近い歴史を誇る繊維の産地である。

 中国へ生産拠点を移動した企業もあったが、ブランド・タグだけをプラートでつけるのでは、イタリアン・ブランドを維持するのは難しくなってきた。1990年代に入ると、外国人労働者、とりわけ中国人労働者が、この地の繊維業で働くために多数流入してきた。ほとんどすべてが海外出稼ぎ者が多い温州などからの不法就労者であり、身分証明書すら確認できない者も多いという。彼らは一日10数時間も働き、月数百ユーロ、10万円程度の低賃金で働いている。イタリア語を話せる者は、数人程度にすぎないようだ。町の西部には中国人の集落が生まれ、彼らが経営する企業も多数増えた。

 今日では織物生地も中国から輸入され、プラートで「イタリア製」Made in Italy のラベルがつけられて輸出されるまでになっている。しかし、その産業基盤はきわめて脆弱化し、グローバル化の強風で文字通り風前の灯だ。

 グローバル化が進んだ結果、本丸まで攻め込まれ、見ようによっては、イタリアに中国の飛び地が出来たような様相になってしまった。かつてインタビューに応じてくれた経営者は、3年先までの製品デザインは開発済みで、ワードローブにしまってあるよと言って自信のほどを示していたのだが。最後の砦としていたデザイン力も、中国が急速に追いついている。

 イタリアのこうした伝統的産地のすべてがプラートのような状況に追い込まれているわけでは必ずしもない。デザイン力、技術力、専門化など、さまざまな工夫をこらしてグローバル化の荒波を緩和し、活力を維持している所もある。しかし、いずれもかなり苦しい状況だ。外国人労働者についても低賃金労働者への需要ばかりでなく、革新的アイディアを導入してくれるイノヴェーターへの期待もある。中国のような大市場へ浸透するには、急速に力をつけた中国人技術者・専門家の助けが欠かせなくなっている。

「他山の石」として
 グローバル化に伴って資本、労働力などの生産要素の流動化は、著しく進んだ。しかし、労働力の移動は、人間の属性のあらゆるものを持ち込んでくる。プラートの数百年にわたる伝統を持つ繊維産業は、顕著に競争力を失い、荒廃が進んだ。外国人労働力の受け入れに制限的になれば、安い労働力を求める企業・産業は海外へ移転してしまう。グローバル危機の下で、外国人労働者に制限的対策に転換している国は増えているが、それで解決になるわけではない。労働力不足は深刻の度を加え、労務費の上昇を来す。新しいアイディアの源も枯渇する。競争力を失った企業は、撤退も難しい。
とりわけ、製造業の場合は工場・設備などの固定資産の重みが、再編の大きな足かせとなる。

 イタリアはグローバル化の大波の中で、政治経済上の舵取りもままならず、国としても大きな危機に直面している。産業立地の衰退もそれと無縁ではない。他方、日本の地域の衰退を見るとき、こちらも劣らず重症だ。地方都市を訪れてみると、その衰退ぶりに愕然とする。かつては輝いていたあの都市が、どうしてこれほど寂れてしまうのかと思うことも一度や二度ではない。雇用機会は次々と大都市へと移転してしまう。地域に雇用機会を創出し、留めるためにはなにが必要か。再生・活性化の源をなにに求めるか。地方都市活性化を目指す「コンパクト・シティ」の構想なども、実態は厳しく揺らいでいる。この大不況の底から、いかなる産業集積・再生のイメージが描けるだろうか。日本は今後どこを目指すべきか。地域の衰退、高齢化の実態などをみると、今は構想再検討に残された最後の時かもしれない。

 

*  Michael J. Piore Charles F. Sabel The Second Industrial Divide. 1984 (マイケル・J. ピオリ、チャールズ・F. セーブル 『第二の産業分水嶺』筑摩書房、 1993年)

アレクサンダー・スティル「イタリアが難破の危機」『アスティオン』70号、2009年



 

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