時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家を生んだパン屋の仕事場

2010年03月14日 | ロレーヌ探訪

18世紀フランスのパン屋、仕事場光景:Une boulangerie au XVIIIe siècle

  前回に続きパン屋の話題を。17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ヴィック=シュル=セイユの町で、パン屋の息子として生まれた。彼が家業を継ぐことなく、なぜ画家への道を選んだかについては、謎のままに残されてきた。その後の史料調査で判明したかぎりでは、両親を含めて彼の家系には画家や彫刻家などの芸術家は見出されていない。その並外れた画才がいかなる環境で芽生え、育てられたかについては、ほとんど不明なままである。遺伝的関連?という点からみても、母親シビル・メリアンの家系に、貴族がいたかもしれないといった程度の情報しかない。しかし、貴族が画業の才を保証するものではないことは、貴族にはなったが画家としては、父親ジョルジュのようにはとてもなれなかった息子エティエンヌの例をみても明らかだ。

 ジョルジュが家業である父親ジャンのパン屋を選ばず、画業を選択する背景を探索する過程で、当時のパン屋の仕事の実態、社会的位置などについて関心を抱くようになった。その一端は、このブログにも記している。

 17世紀のパン屋の実態を推定することは、画家の制作実態を推定する以上に難しい。しかし、18世紀末頃からその様子は断片的ではあるが、かなり推測ができるようになってきた。たとえば、パリ市内のパン屋などについては、かなりの程度輪郭が描けるような史料が発掘されてきた。

 20世紀になっても、パリなどの大都市でもパン屋の仕事は17世紀と基本的にはあまり変わっていなかった。小ぎれいなパン屋の店頭の裏側には、過酷で厳しい仕事の世界が展開していた。あのジョルジュ・サンドも「暗い牢獄」と表現するしか適切な言葉がなかったようだ。18世紀末パリ市内のパン屋の光景をざっとイメージしてみよう

 徒弟制度が柱になっていたパン屋では、多くの仕事を親方の指示、監督の下で、徒弟や職人が担っていた。イメージと異なり、パン屋の仕事のほとんどは夜間の作業だ。それも暗い蝋燭の灯火の下の厳しい仕事だった。蝋燭はかなり高価でもあり、親方や親方の女房はしばしば蝋燭を最小限に節約していた。

 残る記録のいくつかによると、たとえば、18世紀半ば、パリ市内のあるパン屋に雇われていた職人は、夜も遅い11時30分に仕事を始めていた。別の親方のところでは真夜中、それも翌日になって仕事が始まっていた。またあるパン屋で働いていた遍歴職人の場合、夜の8時から翌朝7時まで休みなしに働いていた。疲れきった職人たちは、自室の寝床へ戻る元気もなく、しばしば仕事場で寝ていた。朝の7時に仕事を終えた職人は時に窯の上で眠った。

 パン職人の仕事は、窯に火をつけるため薪を組み上げ、くべることから始まる。それと合わせて、必要な水の桶などを運び入れ、150キロ近い粉の袋を運搬する。そして一度に100キロ以上の粉に水、塩などを加えながらこね桶の中でこねあげる。暗く、粉が飛び散り、湿っぽい空気の漂う部屋で、親方に叱られながら、粘着力のあるパン生地を扱う大変な力仕事だった。ふつうは手でこねたようだが、時には足で踏んでもいたらしい。そのつらさにパン屋の小僧がうめき声をあげながらこねることから、パン職人は時に、le geindre(うめく人) とまでいわれた。

 本来休息の時である夜が、パン職人にとっては、強制労働のような過酷な仕事の時間だった。18世紀初め、「休息の時である夜がわれわれには拷問の時」と嘆いた職人がいたが、遍歴職人にとっては「夜の奴隷制」とも言われるきつい労働だった。精神的、肉体的にも苛酷な仕事で、その圧迫と束縛感は19世紀までほとんど変わることなく続いた。

 仕事場の空気は粉塵と湿気でいつも重く淀んでいた。徒弟や職人たちは粗末な衣服、しなしば粉袋で作った衣服で働いていた。窯の火の熱さに加えて、きつい仕事で汗まみれになり、汗がパン生地に飛び散った。冬場の窯へ装填する前は凍える寒さだった。仕事はきつく、環境は劣悪そのものだった。昼間見る職人たちは、痩せて不健康な青白い顔で、粉まみれの案山子のような姿だった。過労で50歳で真夜中に仕事場で死亡したパン屋の親方もいたほどだ。部屋には小麦粉やさまざまな材料、水、塩などを入れた桶、作業台、パンづくりの道具などがいたるところに散乱していた。仕事場は窓のない小さな部屋で、天井は低く直立しては歩けないほどだった。パン生地をこねるのがやっとのほどの狭苦しい空間だった。これが1730年頃のパリ、サンマルタン通りのパン屋の仕事場の光景だった。

 ヴィックのような町では、仕事の厳しさはパリのパン屋ほどではなかったかもしれない。しかし、仕事を取り巻く環境に大きな違いはなかっただろう。パン作りは決して楽な仕事ではなかった。ジョルジュは家業のパン屋を手伝いながら、窯の前でなにを考えていたのだろうか。

 今日では機械化などによってパン屋の環境は顕著に改善はされているが、それでもかなりの仕事場は粉まみれのままだ。多くの仕事場は店の裏側か、地下室にあり、あまり人の目に触れない。もっとも、通りに面する店頭は、こぎれいに飾られている。透明さと劇場効果を持たせるため仕事場の一部が見えるようにしている店もある。

 大きな店では原材料をこねたり、パン種の発酵、成型、加工などの過程はかなり機械化はされてはいるが、商品の多様化や高級化に伴い、手仕事部分はかなり残っている。確かにパン生地の切り分け、パン種を加え、発酵させ、形を整える装置、冷房換気装置などは、古い時代とは大きく異なる。しかし、桶、パンを入れる枝編みのかご、カッター、ナイフ、刷毛などは依然として使われている。こね桶と窯なしではパン屋はやっていけない。これらは時代を通してパン屋の象徴的仕事道具として残っている。そして、ひとりの画家の人生を決めたパン窯の火も。

 


George Sand, Questions [politiques et sociales] Paris: Calmann-Levy, 1879 30-34、quoted in * S.Lawrence Kaplan, Good Bread is Back. London: Duke University Press, 2004.Translated from French version by Catherine Porter.

コメント (2)
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