「所在不明高齢者」というおぞましい言葉が、今年の流行語になりそうだ。この国の荒廃ぶりは日々実感しているが、ここまで進行していることに改めて言葉を失う。厚生労働省は年金を受給している所在不明の100歳以上の高齢者に確認の手紙を送り、返信のない人には年金の支払いを停止する措置をとるとしている。大きな違和感を覚える。確かに所在不明者の発見には必要な手段ではあろう。しかし、この問題、単なる所在不明の高齢者の確認や年金支払い中止の問題にとどまるものではないはずだ。国家として、これまでこの国にかくも長く生きて、それぞれに貢献してきた人々の最後をいかに遇するかという問題ではないか。
こんなことを考えている時、「死の質」The Quality of Death*という見出しに出会った。いったいなんのことかと一瞬考えた。「生活の質」The Quality of Life あるいは「労働の質」The Quality of Work などの概念は、これまでさまざまに議論もされてきた。さらに、全国的あるいは国際的次元でも検討されてきた。かなりなじみのある言葉となっている。
しかしこれまで「死の質」という問題を正面から考えたことはなかった。このThe Quality of Death(QOD) という聞き慣れない言葉は、シンガポールのあるフィランソロピックな研究機関が、その概念と具体的充実をイギリスの著名な研究機関に依頼し生まれたものであった。(以下では理解を助けるために「死にかかわる質」と呼ぶことにする。)
経済的には大変繁栄している国でも、すべての人がその人生の最後を過ごす時、苦痛なく平穏に残された日々を送ることができるとは限らない。最後を看取る人もいない孤独死、幸い入院していても多数のチューブや機械でがんじがらめになって、人生の最後を迎えるのは、望ましい人生の最後といえるだろうか。それでも、医療施設でその時に可能なかぎりの治療を受けられれば、有り難いと思うべきかもしれない。しかし、人間らしい最後の迎え方とはいかなる形が望ましいか。それがどれだけ国民の間で共有されているかというのが、この聞き慣れない概念の本質だ。
病気によっては病状の進行とともに厳しい苦痛が避けがたいものもある。緩和ケアといわれる特別の配慮も必要だ。ある統計では、世界で一億人を越える患者とその家族たちが緩和ケアの充実を求めているが、そのうちわずか8%がそれを受けることができるにすぎないといわれる。
高齢化社会となってから、人生の終末段階における個人レベルでの心の持ち方などを主題とする議論は多い。死は多くの人にとって最大の不安でもあり恐怖の源でもあるからそれも必要ではある。しかし、国として国民全体のレベルで見るならば、なすべき議論は別のところにあるように思う。
もっと多くの人々が、家族や愛する人たちと、平穏に来し方を語らい、次の世での再会を約し、この世に別れを告げることはできないだろうか。大事なことは、一部の富める人たちだけが、こうした緩和ケア、終末期ケアといわれる看護・介護の機会を持てることではなく、国家が国民にどれだけ分け隔てなく、そうした環境を準備できているいるかということがポイントなのだ。 在宅終末医療の勧めにも共感する点は多い。しかし、国民の間にそれを可能とする条件・基盤がどれだけ準備されているか。「所在不明高齢者」の問題は、図らずもその不在を示したのだ。
「死に関わる質」指標 The Quality of Death Index という観点から、国際比較調査を行った結果を見て、深く考えさせられた。指標の内容は今後、さらに改善・充実される可能性はあるが、今回の調査では4つのカテゴリについて、24の計測可能、質的評価を含めた指標が適用された。対象とされた国々は40カ国である。
参考までに上位5カ国は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、ベルギーであり、下位5カ国は下からインド、ウガンダ、ブラジル、中国、メキシコであった。アメリカ、カナダは同率の9位、シンガポールは18位である。ちなみに、日本のランクは23位である。世界第三位の経済大国というイメージとは、あまりに落差が大きすぎるのではないか。それも「所在不明高齢者」が社会問題化する以前に評価された結果がこれである。
これからの日本が「生きるに値する未来のある国」であるためには、いかなることがなされねばならないか。死は人間が誕生した時から始まっている。「人生の質」の維持・向上のために、政治はなにをなさねばならないか。これこそ超党派で考えねばならない問題ではないかと思う。国家の行く末をしっかり考え直さないかぎり、日本の後退はさらに進む。
* The Quality of Death index の詳細については、下記ウェッブサイトを参照。
www.qualityofdeath.org