フィリップ・ド・シャンパーニュ 『悔悛するマグダラのマリア』
Philippe Champaigne de (1602 Brussels, Paris 1674), The Penitent Magdalen, Canvas, 115.5 x 87 cm, Museum of Fine Arts, Houston, Museum Purchase, Arnold Endowment Fund.
アメリカへ移った17世紀フランス美術作品の内容を見ていると、改めてヨーロッパに残っている作品だけを見ていたのでは、この時代に活躍した画家たちの実像は十分に掌握できないことが分かる。これまで予想していなかった所に、画家の力作が所蔵されていたりするからだ。さまざまな理由で、世界に散在することになった画家たちの作品を見ていると、時に目が洗われるような気がしてくる。次第に欠けていた球体が少しずつ埋められて、丸みを取り戻してくるような思いもする。
あるエポックを画した画家の影響力がいかなるものであったか、それがいかなる経路を通して、浸透・拡大していったかというメカニズムについては、従来の美術史的手法では十分対応できないことを痛感する。この問題については、経済学の分野で開発されてきた技術進歩の普及(diffusion)に関する理論と研究はかなり有力な分析手段になりうると考えている。あるイノヴェーターによって、生み出された革新の種(シード)が、いかなるプロセスを経て、社会に受け入れられ、拡大・浸透して行くのか。美術経済学という領域も生まれているようだが、まだ揺籃期だ。近年、カラヴァッジズムの国際的拡散のプロセスなどについては、かなり見るべき成果が集積されているように思えるが、未解決の問題が多数残されている。
ここで、この大テーマについて、議論することはとても不可能だが、断片的な課題ならば扱うことができるかもしれない。今回取り上げるのはそのひとつといえる。
1590ー1600年の間にフランスに生まれた画家で、ある時期、ローマに滞在した者はすべて深くカラヴァッジョの影響を受けたといわれてきた。しかし、カラヴァッジョの作品に接しながらも、結果としてほとんど影響を受けることなく、独自の道を選択した画家たちも多い。その仕組みを解明することは、美術史家が取り組むべき重要課題のひとつではないかと思う。
17世紀初めのヨーロッパにおいて、主導的な文化の集積が生まれ、多くの文人、芸術家などを集めた都市は、パリとローマに集中していた。その他にも独自の光彩を放っていた都市はもちろんあるが、この二都市を凌ぐ都市はなかった。そして、美術に限ってみると、パリは長らくローマの後塵を拝していた。ルイ13世、宰相リシュリューなどは、あらゆる手段を尽くして、パリにローマに匹敵する繁栄と文化の花を咲かせようとしていた。
しかし、少しスコープを拡大してみると、当時から現在のフランスの各地に小さな花は開花していた。ロザンベールが挙げている例は、トゥルーズ、ルーアン、エクサン・プロヴァンス、ナンシーなどの都市の文化である。しかし、さまざまな理由、とりわけ宗教改革のもたらした激しい精神的変革と破壊に耐えかねて、ロレーヌ、プロヴァンスなどから、イタリアへ活動の地を移した画家たちの数はかなり多かったようだ。
1982年の『黄金時代のフランス』展で、取り上げられているこの時代の中心的画家の中で、ラ・トゥールはその制作活動のほとんどを動乱の地ロレーヌで行った。他方、対照的にクロード・ロランはロレーヌで生まれながら、すべての制作をローマで行っていた。そして、カラヴァッジョの影響力がまだかなり残っていたローマにいながらも、まったく影響を受けずに、独自の風景画の世界に沈潜していた。銅版画家のジャック・カロはナンシーで生まれ、憧れのローマで修業したにもかかわらず、カラヴァッジョの影響という点では、かなり限定的だ。
フランス王ルイ13世、リシュリュー枢機卿のお気に入りであったフィリップ・ド・シャンパーニュの場合をみてみよう。この画家は今のベルギーの首都ブラッセルで生まれ、画業の修得をした後、終生パリで生涯を送った。あのニコラ・プッサンがイタリアへ旅立った1621年、パリへやってきたのだ。一度もローマへ行くことはなかったが、プッサン同様、カラヴァッジョの影響はいささかも感じられない。シャンパーニュは生涯ひとつのスタイル、強いて言えば「フレミッシュ」の伝統をどこかに保ちながら過ごした画家と言われている。
シャンパーニュの所にもカラヴァジズムの風は届いていたはずである。しかし、この画家はほとんどその影響を受けずに画業生活を送った。上に掲げた作品にしても、フレミッシュの色は感じられても、カラヴァッジョの影響は見いだせない。あのラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズとも大きく異なる。
シャンパーニュはマグダラのマリアを2点残したといわれる。そのひとつはアメリカのヒューストンに、もう1点はレンヌの美術館に所蔵されたものだといわれる。来歴については、かなり複雑でさまざまな推理が行われてきた。かなりのミステリーが語られている。
それらの”雑音”を排除して、この作品をみると、肖像画の名手といわれたこの画家の特徴は明らかに感じられる。悔悛するマグダラのマリアの目には涙が光り、いずこともなく射し込む冷たいが、霊性に充ちた光が画面を覆っている。ラ・トゥールのマグダラ・シリーズと比較すると、画家の出自、社会的背景、修業のあり方などの違いを深く考えさせる。
続く