時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(4):ジャック・カロの世界

2013年04月08日 | ジャック・カロの世界

 


ジャック・カロ『メディチ家フェルディナントI世の結婚』
Jack Callot. Le Mariage de Ferdinand I de Medici
214x297mm
Saint Louis Art Museum

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 17世紀フランス、イタリアなどでは、社会を構成する人々のおよそ4分の3は、農民であった。旧体制のフランスの社会階級は3身分といわれるが、その区分や実態はかなり複雑であった。ピラミッド型の社会階層で、頂点に王、領主などが君臨し、聖職者が最上位を占めた。第2身分は、彼らを支える法服、帯剣貴族だった。第3身分のうちで司法・財務官僚、弁護士、文筆家、金融業者、公証人、商人などがブルジョワジーといわれていた。農民や手工業者はそこに含まれなかった。フランス革命の端緒となった全国3部会でも彼らは除外されていた

 しかも、こうしたピラミッドの底辺部には、文字通り限界的(マージナル)な存在に追いやられた貧民(paupers)が作り出されていた。イタリアからナンシーへ戻ったジャック・カロの作品には、この階層の最上部と最底辺にいた人々が多く登場する。農民と思われる人々の姿はあまり登場しない。カロにとっては、あまりに多い、普通の人々であり、制作の対象として興味を惹かなかったのだろうか。他方、ル・ナン兄弟のように、農民を多く描いた画家もいる。

 この社会構成の構図をもう少し掘り下げてみよう。ピラミッドの頂点にいた貴族 nobility とはいかなる人たちなのか。実はその実態はきわめて複雑多岐にわたっていた。

貴族といわれる人々
 
 
貴族といわれるためには、なにが必要なのか。あまり深く議論されたことはなかったようだ。その中で、ひとつのよく知られた議論として伝えられたのは、1528年、イタリアの文学者バルダサーレ・カスティリオーネという人物が書いた『宮廷人の書』 という作品であった。それによると、次のような要旨のようだ。二人の虚構の人物が登場する。ひとりはルドヴィコ・ダ・カノッサ伯爵、もうひとりはガスパール・パラヴィシーノという領主だ。伯爵は必要要件として生まれの良さ noble birth を主張し、領主の方は出生の問題より徳 virtueの高さを強調する。また、貴族は主君の権力が私人に刻印した力ともいわれてきた。この論争自体は大変興味深いのだが、とてもブログには収まらないので、省略して先を急ぐ。

 以前、ブログにロレーヌの下層貴族の生き方について、記したことがあるが、17世紀頃から貴族の地位は、さまざまな経路で獲得されていた。たとえば、貴族としての出自、貴族との結婚、支配者からの授与・叙任、貴族の権利の買収・取引、さらには名称、家名などに始まって貴族の地位や生活スタイルを模倣し、他から貴族とみられるようにつとめるなど、さまざまな方法があったようだ。

 そして、ひとたび貴族と認められると、法律や財務上の特典、租税公課からの控除、家柄を示す紋章、盾の保持・掲示、武器の携行、狩猟が認められるなど、多くの特権が与えられた。こうした貴族的特権を享受できるかぎり、それを望まなかったり、拒否する人はまずいない。

 このブログで、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールがパン屋の次男から画家を志し、その過程で貴族の娘と結婚し、居住地を変わる際に、ロレーヌ公に書き送った貴族的特権の請願書なども、子細に読むときわめて興味深い。ラ・トゥールがその後の職業生活で、いかなる時にその結果を金科玉条として活用したかもよく知られている。それでは、いかなる要件をクリアすれば、貴族となりえたのだろうか。

 


ジャック・カロ『軍隊の編成』(部分)

Jack Callot. L'Enrolement des troups 
193 x 292 mm
Albert A. Feldmann Collection

 

貴族階級の分化 
 近世初期のヨーロッパ、貴族は当初領地で生きなければならないとされた。言い換えると、荘園manorからの十分の一税 tithe が主たる収入の源だった。しかし、貴族階級の内部にも分化が進んだ。上流貴族と中・下級貴族あるいは法服貴族と帯剣貴族などの差が生まれ、拡大した。地位の継承、タイトルの独占、大規模な土地の保有、着用する衣装、話し方など、さまざまな違いが生まれた。金融や商工業活動で利益を挙げ、土地を保有しない貴族もいた。

 銅版画家となった
ジャック・カロの家系については、以前に記したことがある。 カロの家系は2代続けての貴族層に属していた。貴族を生まれながらに継承してきたわけではないが、ロレーヌ公への奉仕、結婚の縁などで、幸運にも貴族の地位を与えられ、それを懸命に維持していた。

 カロはこうして下級貴族の家に生まれた。祖父のクロードン・カロはナンシーに近い村に生まれ、クロード・フリコートと結婚した。フリコートの家族は同じ村の出身で、ロレーヌ公シャルルVII世(1403-1461) から貴族の称号を授与されていた。クロードン・カロと妻はナンシーに住み、1562年までにロレーヌ公親衛隊の弓術隊の一員になった。そして、その後の軍役の経験と公への奉仕のおかげで、クロード・カロは1584年、ロレーヌ公から貴族に叙任された。そして宮廷に対する長く忠実な奉仕に応えるものとして、武具の紋章 coat of arms を授与された。祖父はカロの家族の社会的地位を大きく上昇させたことになる。その後、生涯を通して、この貴族的栄誉・特権を維持し、家族も繁栄した。さらに、家業としてナンシーで古く続く旅籠屋を経営し、不動産取引でも成功した。

  ジャック・カロの父ジャンはこうした祖父からの地位を継承し、宮廷では王室儀典掛として仕えた。ジャンの長男ジャンIIは、父親の後を継いで、武器・紋章官になっていた。



ジャック・カロ『リヴォルノ港城砦工事を監督する大公』

Jack Callot, Le Grand Duc fait fortifire le port de Livourne
214 x 305 mm
Saint Louis Art Museum

進路をめぐる親子の対立
 
ジャック・カロの父親ジャンとしては、息子が祖父や自分と同じようにロレーヌ公に仕える名誉ある職業や聖職者として司祭などの道を選ぶことを強く期待していたようだ。それに反して、画家の道へ進もうとした息子との間には、かなり対立した時期があったらしい。

 結果として、ジャック・カロは望んでいたイタリアでの修行を終えて、立派な銅版画家として独立、ナンシーへ戻ってきた。父親たちとも妥協が生まれたようだ。

 ジャック・カロがイタリアにいて修行中、23歳の時、トスカニーのメディチ家フェルディナンドI世大公(1549-1609)の生涯と業績を描く重要な仕事を依頼された。大公の息子であったコシモII世がカロの才能に着目し、この大仕事を委嘱したのだった。カロは図版を制作するに3年間を費やし、次の1年間をすべて作品300部の印刷に当てた。

 作品アルバムには、大公とロレーヌのクリスティン妃との結婚という重要な出来事、トルコ軍など外敵との戦いのための軍事的活動、フィレンツェの都市としての整備など、さまざまな情景が描かれている。なかでも、大公とクリスティン妃の結婚式の光景は、大変優雅に描かれている。トスカニーとロレーヌの結びつきを象徴する慶事であり、ロレーヌ出身で、イタリアにいるカロにとっても大きな名誉だったと思われる。

 大公はその治世の間に、港湾都市リヴォルノの城郭強化を大きな仕事とした。全景に大公が椅子に座り、工事の説明を受けている様子が描かれている。目前ではおそらく工事のミニアチュアが準備されており、遠景には石工たちが働いている。

 さらに、大公の軍事的指導力の発揮の場面もある。兵士が軍に登録し、金を支給される場面であり、後方には多数の兵士たちが列をなしている。当時の戦争は、戦時にこうして多くの傭兵を動員する形で行われていた。

 こうした作品を見ると、社会の最上層部、支配者としてのプリンス、プリンセスの世界が垣間見えてくる。同時に銅版画家としてのカロの技量の高さが直接的に伝わってくる。その仕事の精密さをみると、同時代人ガリレオ・ガリレイの拡大鏡の助けなしには、とても達成できないだろうと思う。いうまでもなく、依頼者はその出来映えに十分満足したことだろう。

続く

 

コメント
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