時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

L.S.ラウリーの世界(14):産業化の影を描く

2014年10月30日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

「私は工業の風景を見て、それに影響を受けた。それをいつも描こうとした。自分の力のかぎり工業の光景を描こうと努めた。容易なことではなかった。確かに、カメラなら直裁にその光景を記録しえただろう。しかし、それは私にはなんの意味もなかった...... 私が目指していたことは地図の上に、それぞれの工業の光景を置いてみることだった。なぜかといえば,誰もそうしたことを試みたことはなかったし、真剣に考えたこともなかったからだ。」
L.S.ラウリー
Quoted from Howard, 2000, p.81



ボルトンのパーク社工場と労働者住宅街が
立ち並ぶ光景は、富と貧困の対比でもある。
Howard p.83

 現代イギリス絵画の中では異色の存在だが、イギリス人が最も好きな画家のひとりといわれるL.S.ラウリーの生き方について、これまで少し記してきた。長い間、北の方(マンチェスター)に住む「マッチ棒のような人を描く日曜画家」と揶揄され、偏見と差別の中にさらされてきた画家である。画題も画法も確かにユニークであり、煙突の煙、スモッグで汚れた空、決してきれいとはいえない工場の有様など、普通の画家ならば見向きもしないような光景を多数描いてきた。しかし、そのことによって、イギリスという世界の産業革命をリードし、長らく繁栄の礎を築いた産業社会の実像が、絵画という形で具象化され、見事に記録され今日に継承されることになった。産業革命は技術や産業の創生、発展という光の面にとどまらず、持てる者と持たざる者、環境破壊、労働災害など多くの影の側面を作り出した。ラウリーは誰も積極的に取り上げることのない、産業の影のさまざまな場面を描いた。それも単にイメージだけで描いたのではなく、彼が目指したことは地図上に存在したものを、できうる限り多数、当時の有様に近づいて描くことにあった。

 もちろん、ラウリーの生きた時代にモノクロ写真はあったが、写真では写しきれないあるいは写真家が気づかない日常のさまざまな次元が絵画として描かれることで、この画家の多数の作品は見る者に時代の空気を伝えている。管理人がこの画家を評価するのは、産業革命以来のイギリスがいかに変化し、工業化の光と影がなにをこの社会にもたらしたかを写真とは異なる姿で見事に伝えている点にある。そしてその中に生まれ、育ち、働き、喜びや悲しみを共にし、死んで行く人々のさまざまな姿が描かれている。これは美術の世界に限らず、現代史における重要な貢献でもある。単に対象の美しさだけを追求する静物画や風景画ではない。ラウリーが言うように、「産業化の段階」 industrial satages ともいうべき新たなジャンルを切り開いたといえる。

貧困を目のあたりにして
 実は、ラウリーが普通の画家ならば無視するような側面に着目したのは、画家個人の生い立ちやその後の生活環境にも関係するところが多い。その一部はすでに記したが、ラウリーは23歳の時、彼は人生で初めて職を失った。マンチェスターの保険会社の事務員として働いていたが、不況で解雇されたのだった。息子に期待していた両親は、愕然とした。

 ラウリー自身は15歳で義務教育を修了した時、会社などで働くつもりはなかった。もっと自分に適した仕事に就きたいと思っていた。しかし、

 「なにもしないでは生きてなんかゆけないわよ」と彼の母親は言った。
 「なにもしないで」とは、彼が画業に就くことだった。

 母親の意味する「仕事」とは、会社に雇われ、事務所や工場で働くことだった。両親は息子が画家で生きてゆくことなど、およそまともなことではないと考えていた。とりわけ母親の期待に逆らうことなく、ラウリーは数ヶ月の後に、地元の不動産会社に職を得た。それは家賃や時代の集金とその管理をすることだった。彼が育ったのはマンチェスターのヴィクトリア・パークであり、工業化とともに生まれた貧困な労働者街であった。そこは、上に掲げた写真のように、文字通り貧困と搾取が並び存在するような地域だった。

助け合って生きる人たち
 ラウリーが毎日、集金のために訪れると、決まって同じ顔に出会い、彼らの貧困な生活を否応なしに目にすることになった。そればかりでなく、毎週払う家賃の支払いをめぐって、いつもごたごたが起きていた。さらに当時の工場では、労働災害が頻発していた。とりわけ、炭鉱事故は一度起きると、多くの炭坑夫たちの命を奪い、地域に大きな悲惨をもたらした。なにかの事故が発生するたびに、人々はニュースを聞いて集まり、悲しみ、慰め合った。

A Sudden Illness, 1920, oil on board
29 ss 49cm
『突然の病気』


労働者たちの誰かが重篤な病気にでも罹患したのだろうか。
あるいは工場で事故にあったのかもしれない。近所の人たちが
いつも集まる場所に来て、様子を話し合っている。そこには
ある緊迫した空気が漂っている。夕刻の風景か、工場はまだ
操業しているようだ。

 
Unemployed, 1937, oil on panel, 52.1 x 41.9cm 
『失業者』 

この作品は画家が1910年ころにひとりの男を描いた作品を
もとに、後年新たな構想で描き直したものだ。地域の失業が
著しく悪化した地代。厳しい容貌の男が道路よりの鉄柵を背に座っている。
男の後ろの柵は、彼が働いていた雇用の場とを隔離する象徴的な存在だ。
そして、そのさらに背後には男たちが働く工場が描かれている。
男の容貌はラウリーが鬱病になった時の異様なまでの自画像にどこかで
通じるものがある。大不況という時代の異様さを暗示するといえるかもしれない。


 

Photo: Police in Manchester, 1922 

 この時代、不況による賃金など労働条件の切り下げ、失業などの悪化とともに、労働者の側も次第に集団、組織の力で経営者や資本家に対抗しようとしていた。この段階では服装は整ってはいるが同じような身なりの労働者たちが、街角に押し寄せている。後年、あのサッチャー首相の政権時代、政府によって厳しく抑圧された労働運動もこの時期すでに盛んに起きていた。なにかのプロテストがあると、騎馬警官などが出て集まった労働者を蹴散らしていた。 

 こうした光景が今日の世界から消え去ったわけではない。先の見えない不安な時代、世界のどこかで同じような光景が今も展開している。ラウリーの生きた時代は現代なのだ。


Sources
Michael Howard, Lawry A Visionary Artist,Salford, Lowry Place, 2000

続く 

コメント
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