Adolphe Valette, Albert Square, Manchester,
152 x 114 cm, 1910
アドルフ・ヴァレット 『マンチェスター、アルバート広場』
ひとまずは大波乱にはならずに収まったスコットランド独立の動きだが、これから長い難しい時代が待ち構えている。イギリスにしばらく住んだ時、問題の根深さの一端をあちこちで見聞した。ケンブリッジにおられたスコットランド生まれのチェックランドさんからいくつかの話を聞いたこともあった。今回の選挙では、賛否がかなり近接したために、これで一件落着というわけには到底行かない。さまざまな形で、問題が燻り続けるだろう。
この問題を考えながら、少し中断していた現代イギリスで最も愛される画家のひとり、L.S. Lowry L.S.ラウリーのことも考えた。 この画家については、すでに概略は記した。だが、ひとたび糸がほぐれ出すと、止めどもなく色々なことが思い浮かぶ。区切りの良い所まで、もう少し続けたい。ラ・トゥールもそうであったが、日本人がほとんど知らない画家なので、記しておきたいと思う。
ラウリーは、イングランドの人ではあるが、ロンドンなどから見ると、北のスコットランド寄りに近い北西部サルフォード、マンチェスターで生まれ、育った画家であった。しかし、今回のスコットランド独立問題に伏在する南北間の根深い偏見に類した状況が、イングランドの北部とロンドンを中心とする南部の間にも存在している。ひとたび生まれた偏見は除去するには多大な努力と年月を必要とする。
根深い南北間の偏見の中で
マンチェスターなど、かつては産業革命を担った主要地域であり、イギリスの繁栄、国威発揚に大きな貢献をしたのだが、そこに生まれた煙突の立ち並ぶ工場地帯、そして働く労働者やそれにまつわる文化について、ロンドンなどの上流階級、エスタブリッシュメントの間にはそれらを軽視する根深い偏見、スノビズムが存在してきた。ラウリーの作品が工場風景や労働者の生活など、それまでほとんど取り上げられることのなかった光景を画題とし、独特の筆致で描いたことについては、長らく<正規の>絵画制作の教育課程を経ていない、日曜画家程度などの評もあったようだ。しかし、実際にはこれらは偏見に根ざしたものであった。
ラウリーは画家として外国、とりわけフランスに行ったことがなかった。20世紀に生きたイギリス人画家としては大変珍しいのではないだろうか。パリは印象派の興隆などもあって、画家や画家志望者にとっては必須の訪問先だった。しかし、ラウリーの作品には微かにフランスの影響が残っている。これについては、ラウリーが通ったマンチェスター公立美術学校で、1905-15年にかけて無名のアメリカ人の画家William Fitz と、いわば生涯学習のクラスで教師であったアドルフ・ヴァレット Adolph Valette(1876 Saint Ethienne-1942 Lyon)というフランス人の影響が知られている。
特にヴァレットはラウリーよりも11歳くらい年上であったが、才能に恵まれた画家・教師であった。ヴァレットはフランスでは後期印象派に近い作品を描いていた。しかし、マンチェスターに赴任してきてからは、土地の空気に合ったもっと暗い都市と産業の光景を描き、ラウリーに多大な影響を与えたものと考えられている。ラウリーは幸い良い教師に出会えたのだった。人生の過程で、尊敬できる良い教師に出会えること、これは画家にかぎらず、とても大切なことだ。
フランス印象派の影響
フランス印象派の画家モネは、ロンドンのスモッグを好んだといわれる。そして、スモッグが少なく、空気が澄んでいる日曜を嫌った。そういわれてみれば、初めてロンドンを訪れた1960年代半ばのロンドンは、いつもどんよりと曇った日が多かった。
Maurice Utrillo
La Porte Saint Martin
c.1910
Oil paint on board, 69.2x80cm
モーリス・ユトリロ
『サン・マルタン門』
ヴァレットが赴任したころのマンチェスターは、工業化がたけなわで工場の煙突から出る煙、排水などで都市としての環境はかなり悪かったようだ。しかし、ヴァネットはそれをさほど気にしなかったらしい。この画家はマンチェスターでは大変人気のある画家として受け入れられ、個展も何度も開き、作品もよく売れた。教育という点でも、マンチェスターとボルトンの画学校で教えていた。1928年にフランスへ戻ったが、マンチェスターには良い印象を抱いていたようだ。この年、ラウリーはすでに42歳に達していたが、不動産会社の集金掛というこの都市の空気のような退屈した仕事に就く傍ら、好きな画家の道を黙々と歩いていた。
ラウリーはヴァレットの制作態度や作品に大きな影響を受け、教師としても尊敬していた。しかし、ラウリーは自分にはそうした印象派風の作品を描く能力がない。したがって自分が住んでいるサルフォードやマンチェスターの<産業化の風景> Industrial Landscape を自己流で描くしかないと述べている。そして、いまやよく知られている「マッチ棒のような人々」など、この画家独特の表現手法をあみ出した。しかし、ラウリーの残した作品をつぶさに見ていると、とりわけ初期の作品には、フランス印象派の影響が根底に流れていることを感じる。
上に掲げたヴァレットの『マンチェスター、アルバート広場』を見ると、20世紀初頭、イギリスの産業化の中心地であったマンチェスターの汚れた空気、スモッグの雰囲気が伝わってくる。そして、車を押す人、馬車の馬などにも、ラウリーの作品にしばしば見られるデフォルメされて、コミカルな描写が感じられる。
ラウリーは印象派の流れを汲むヴァレットなどに師事したことに加え、ほぼ同時代のユトリロ Maurice Utrillo、スーラ Georges Seurat などの作品から手法を学んだものと思われる。ユトリロの『サン・マルタン門』 La Porte Saint Martin、c.1910、スーラの『ある地域』 The Zone (Outside the City Walls), 1882-83などのやや暗い画面の作品などには、ローリーのキャンヴァスにきわめて類似した色調を感じる。ラウリーに影響を与えたと思われる、これらの作品は、昨年のテート・ブリテンでの回顧展『ラウリーと現代生活を描いた作品』 Lowry and the Paintings of Modern Life にも併せて展示された。
L.S. Lowry, Barges on a Canal, 1941, oil on board, 39.8 x 53.2cm
『運河に浮かぶはしけ』
この運河はボルトン運河とベリー運河を結び、現存している。
ラウリーという画家と作品については、かなり好き嫌いが分かれるだろう。現にテートに代表されるイギリス画壇を支配するエスタブリシュメントは、ながらくこの画家を軽視し、1976年の画家の死後初めて、やっとオマージュの意味も込めてか、昨年2013年にその回顧展を企画した。他方、ロンドンのロイヤル・アカデミーは画家の晩年ではあるが、1962年にメンバーに選出した。ラウリーはこれを大変喜び、アカデミーには強い親近感を抱いていたようだ。
地域の画家を愛する人たち
ラウリーをロンドンのエスタブリシュメントたちが評価しなくとも、この画家の作品を熱狂的に愛する人たちは非常に多く、オークション価格はどんどん高くなっていった。そして、マンチェスターを中心とする地域では、知らない人がいないほどの人気画家である。かつてイギリス首相をつとめたハロルド・ウイルソンは、公的なクリスマス・カードにこの画家の作品を使った。
ちなみに、香川真司が去ったマンチェスターは、日本では人気が薄れた感じだが、この地はサッカー発祥の地ともいうべき大サッカー・ファンを擁する地域である。あの『試合を見に行く』 Going to the Match はプロフェッショナル・フットボール協会 Professional Footballers' Association が1999年に190万ポンド(約3億円)という破格な価格で購入、所有している。なんとしても、欲しかったのだろう。
L.S.ラウリーは、非常に遅咲きの画家であった。しかし、いかに遅くとも立派に大輪の花を咲かせた。このことは、不安で先の見えない時代に生きる若い世代の人たちに、ぜひ知って欲しいことだ。不動産会社の集金掛りを定年まで勤め、雨の日も風の日も労働者街を歩き、さまざまな悩みで自ら鬱病も経験し、豊かになっても浪費もせず、公的栄誉も断り、若いころから自分のしたいことを最後まで貫き通したひとりの人間的画家がいたことを。ラウリーという画家の作品を見ることは、この希有な人間の一生を知ることにつながっている。
続く
Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner (2013)