National Geographic 表紙「人口問題」特集&
展示会入場券
『ナショナル ジオグラフィック』 National Geographic 展という催しが行われていることを知って、出かけてみた。1,100万点を超えるコレクションから厳選した写真の展示という企画である。
この雑誌と管理人のつき合いは、すでに半世紀を超える。読み始めたのは今も親しいアメリカ人の友人が、英語の勉強の一助にと、クリスマス・プレゼントに贈ってくれたことに端を発している。その後、渡米し自分で購読するようになり、今日まで毎月配送される雑誌を見ることが大きな楽しみになってきた。この雑誌の特徴はなんといっても、掲載されている写真の素晴らしさと時代感覚の鋭い充実した記事にある。今は日本語版も出ているようだが、長年の継続もあって英語版を読んでいる。この雑誌から触発されることは、あまりに多すぎて到底要約できない。今回はその小さな断片を材料に記してみたい。
出展されていた写真は、いずれも興味深いものだったが、展示順番は1909年撮影年の「北極点到達競争」(撮影点カナダ)から始まり、1923年撮影の「今はなき宮殿」(撮影点フランス)で終わっていた。出品作品は「冒険・探検の記録」(41点)、「自然科学」(23点)、「野生の世界」(29点)、「岩合光昭作品」(12点)、「ティム・レイマン作品」(21点)、「町野和嘉作品」(20点)、「人類と文化」(46点)に区分されていた。これらの写真の中には動物写真で著名な岩合光昭氏やアフリカの写真で知られる野町和義氏などの日本人写真家の作品なども含まれており、その貢献度が大きいことが分かる。年代で最新の写真は2012年撮影のものもあった。
「いまはなき宮殿」をしのぶ
いずれも大変興味深く、長い時間見ていたいような写真もあったが、会期が短いためか、会場はかなり混んでいた。展示写真の中で、とりわけ一番最後に出会った写真「いまはなき宮殿」(撮影地フランス、撮影年1923年、撮影者ジュール・ジェルヴェ=クルチルモン)と題された一枚が目にとまった。このタイトルと情報で、展示写真が意味するものをご存知の方はかなりのフランス通だろう。
展示されていた写真は、地下鉄トロカデロ駅に近い丘の上に立つシャイヨー宮のポーチから、エッフェル塔を眺望する方角が写されている。しかし、そこには現在の光景にはないものが写っていた。パリのエッフェル塔の間を通して、その向こう側にある宮殿を写したものだった。その宮殿の名はトロカデロ宮殿。1878年のパリ万国博覧会の時に建てられた。1937年のパリ万国博覧会にあわせて、取り壊されてしまった今は幻の宮殿であった。
なぜ、この写真に惹きつけられたのか。少し事情を説明する必要がある。エッフェル塔が建造されたのは1889年のパリ万国博覧会のためであった。そして、この塔を展望するシャイヨー宮が建てられたのは1937年のパリ国際博覧会の時であった。以前のトロカデロ宮殿の基礎の上に建造された。
映画『消えた画』 への飛躍
ここで話は「ナショナル・ジオグラフィック」展とさほど違わない時に見たひとつの映画、『消えた画:クメール・ルージュの眞実』 (リティ・パニュ監督、2013年制作、2013年カンヌ国際映画祭 ある視点部門グランプリ受賞、2014年アカデミー賞 外国映画賞ノミネート)に飛ぶ。
カンボジアは1953年にカンボジア王国として独立した。しかし、その後この国がたどった道には、そのまま描くには見るに忍びない残虐、陰惨な部分が含まれている。歴史に存在しなかったように、抹消された時代があった。
映画『消えた画』 の血塗られた手の持ち主クメール・ルージュ(Khmer Rouge)は、独立した国王に対する極左武装勢力(カンボジア共産党)の名前であった。長く続いた内戦の間の左翼勢力間の淘汰もあって、クメール・ルージュはポル・ポト派とほとんど同義語になった。映画には、同じアジアでありながら、日本人はあまり知ることのない光景が写されていた。
1975-1979年、カンボジア、ポル・ポト支配下、クメール・ルージュにより闇に葬られた恐るべき虐殺の記録を、独特の手法で描いた作品である。あまりに残虐な実態の故に、実像は描写しがたい。そのため、監督は数百万人が命を落としたカンボジアの大地から、ひとつひとつ丁寧に作られたた土人形に、その悲惨きわまりない物語を語らせる。多くの人々が眠る大地の土で作られて、登場する人形の数、いったい何体を作ったのだろうか。驚くべき数としかいえない。まさに失われた命を取り戻そうとする思いがこもっている。そして、こうした発想はきわめて斬新で、この監督以外には思いつかなかっただろう。
映画『消えた画』の紹介ビラ
カンボジアといえば、思い出すのはアンコール遺跡群であり、さらに私にとってはパリで最初にクメール美術を本格的に見た見たギメ美術館(国立アジア美術館) のことである。これまでの人生で抜群に訪問回数が多い外国の美術館である。なにしろ一時はイエナ広場で、この美術館と一本の道を隔てた正反対の一室の窓から、毎日その建物を眺めていたことがあった。最初に訪れた時に驚いたのは、美術館の中央展示室ともいうべき入口の所に置かれていた、カンボジアのアンコール遺跡群から出土したクメールの彫像、装飾品だった。その質の高さ、そして数にも圧倒された。クメール美術の特別展かと一瞬思ったほどだ。しかし、そうではなく、そこが常設の展示室だった。
どうしてこれほど質の高いクメールの出土品が、これほど多数、しかも美術館の基軸展示品として展示されているのか。説明を読むうちに次第にその背景が少しずつ浮かび上がってきた。エミール・ギメ、ポール・ペリオ、アンリ・パルマンティエ、アンドレ・マルローなど多くの著名な人々の名前が記されていた。彼らはどういうつながりで、その名がここに記されているのか。その謎は、カンボジアが長い間フランスと特別な関係にあったということに遡る。
カンボジアは長らくフランスの保護領であった。1863年フランスの保護国となり、1953年の立憲王国としての独立まで、フランスの強い影響を受けてきた。そして、1975年国名を民主カンボジアと改称。その後、78年以来血で血を洗うごとき激しい内戦、大量殺戮の時代が続き、ようやく93年にカンボジア王国が成立した。
植民地文化の背負った影
その間にフランスはさまざまな形で、カンボジアの優れた文化の具象化された品々をフランスに移送した。移送といっても、実際には他国の文化の結晶を略奪したような形である。暗い影がよぎる。ギメ美術館、そしてそこに展示されているクメール美術の結晶の多くを保蔵、展示していた場所であったトロカデロ宮殿は、その保管庫でもあった。クメールの美しい彫像を見ることは、その背後にあった陰鬱な世界を見ることでもある。そのことを考えずして、クメール美術を語ることはできない。
さて、トロカデロ宮殿(ナショナル・グラフィックの写真は、残念ながらお見せできない)には、実は今日のギメ美術館(1889年創立)が所蔵するクメール美術の彫像やレプリカの多くが保存、展示されていた場所なのだった。この美術館の創立者ピエール・ギメは1874年に日本、中国を含むアジアを旅し、大量の仏像を中心とする美術品を買い集め、フランスに送った。自らの国の歴史も未だほとんど整理がついていないカンボジアのような国、そこに存在する彫像などの遺跡出土品を現地で剥奪したり、二束三文で買い求め、フランスへ送る。その象徴的事件は1923年アンドレ・マルローと友人が、アンコールワットの近くの寺院パンテアイ・スレイの未登記の遺跡から壁面のレリーフなどをはぎ取り、フランスへ移送しようと試み、プノンペンで逮捕され、禁固刑に処せられた行動であった。若気の至りではすまされない植民地の文化財に対する冒涜であった。
かつての宗主国フランス、そしてこの地の文化遺産に関心を持つフランス人収集家、研究者などがいなかったならば、こうした文化財はクメール・ルージュの時代などにほぼ間違いなく、破壊されるか、滅失していただろう。そのことは、映画『消えた画』を見れば、怖ろしいほどの迫力をもって伝わってくる。クメール・ルージュは「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」を標榜し、貨幣制度、宗教、私財保有、近代科学など、資本主義社会の特徴となるものをすべて滅失させるとしていた。しかし、それをもって、植民地文化遺産についての宗主国や文化人の行動を正当化することは到底できない。ギメ美術館に集められた美しい彫像、仏像、レリーフなどを見ていると、その背後に存在する暗い部分をどうしても思わざるをえなかった。その後、しばらくギメ美術館から足が遠のいた。しかし、この美術館の持つ魅力はあまりに大きく、また訪れることになる。
その後、カンボジアにも新しい風が吹いている。目を背けるほどの残虐、思い出したくない大量殺戮の時代も、歴史から完全に抹消されることなく、新たな形で「消えてしまった歴史」を復元する試みがなされている。「今はなき宮殿」、「ギメ美術館」、「 失われた画」は、図らずもそこに厳然と存在する歴史の糸を認識させる結び目であった。
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NATIONAL GEOGRAPHIC「ナショナル ジオグラッフィク展~写真で伝える地球の素顔~2014年10月1-6日