ここはどこでしょうか(画面クリック拡大)。IT時代の今日、訪れたことのない方でもTV画面上などで見て、網膜に刻まれているかもしれません。
梅雨前の晴天のある日、思い立って東北への旅に出た。
ひとつのお目当ては久しぶりに磐越西線に乗ることだった。東日本大震災・福島原発事故から5年余りを経過したが、車窓から見る山々は緑がかぎりなく美しい。かつて、福島市から土湯峠、一切経山、吾妻山、白布高湯、米沢などを毎夏のように訪れたことがあった。磐梯スカイラインができる前からのことだから、現在は景色も交通事情もかなり様変わりしている。土湯峠からは檜原湖、磐梯山が良く見えた。湖面が輝いていたように記憶している。吾妻連邦(西吾妻山、東大嶺、家形山)、磐梯山に近い安達太良山、鬼面山など近くの山々も歩きまわった。とりわけ、野地温泉から近い鬼面山などは、何度登ったことか。日本列島でも際だって自然に恵まれたこの地を、人が安心して住めない場所にしてはならない。短い旅で立ち寄れなかったが、今はどうなっているのだろうと改めて思った。
今回は猪苗代側から磐梯山を望んだことになる。快晴に恵まれ、山はなにごともなかったかのように、美しく、そこにあった。あの特徴ある山容の向こう側には、懐かしい場所が数多くある。
磐越西線車窓から見た磐梯山
会津鶴ヶ城も補修が進み、美しい城の輪郭が再現されていた。戊辰戦争(1868年)の後、1874年に一度は取り壊しになった城が、地元を始めとする多くの人々の要請で再建され、1984年には築城600年記念式典が行われた。2015年には天守閣再建(1965年)50周年を迎え、内部もリニューアルされ、以前と比較すると、大変アクセスしやすくなった。これまで内外のかなりの数の城郭に旅したが、鶴ヶ城は5層から成り、最上階の展望層から望む城下町と山嶺は素晴らしい眺望であり、この町の栄枯盛衰をさまざまに思わせる。
千利休の子、小庵を匿っていた蒲生氏郷が造ったといわれる茶室麟閣も、市内の茶人、森川善兵衛が自邸に移築・保存していたが、1990年に、元あった場所へ移築復元され、美しく整備されてあった。人影も少なく、静かに心安まる空間であった。
会津若松は、以前に2度ほど訪れているのだが、震災後の環境の整備も進み、見違えるようになっていた。筆者はTVの長編・大河ドラマのたぐいはほとんど見たことがないが、この地を舞台としたドラマが一定の地域活性化効果を挙げたであろうことは予想できた。土産品その他に、TVドラマの影響が残っていた。しかし、ブームも去った今、訪れる人影は少なく、目に付くのは小中学校などの修学旅行の団体が多い。無理にこの時期に、ここに決められて来ているという印象だ。それでも、団体が行き過ぎてしまえば、静かさが戻り、この地の歴史の跡をたどるには絶好の季節だ。
福島県立博物館の光景
閉展間際(6月12日まで)に滑り込んだ感があったが、会津若松市で今回、大変興味深かったのは、福島県立博物館で開館30周年記念企画展として開催されていた『大須賀清光の屏風絵と番付』と題する特別展だった。この幕末に会津を調べ尽くしたといわれる一人の男、大須賀喜知松(1809-75)、名清光号皎齋なる絵師のことである。会津若松にかかわる人、物、風景などあらゆるものに関心を抱き、絵画、書籍、刷り物などに仕上げていた。とりわけ興味深いのは、『若松城下絵図屏風』と題する福島県内でも初公開の大屏風だった。当時の若松城下の全貌を収め、さらに遠景には磐梯山までも描き込んだ作品である。しかも、その壮大で精緻なことは、現代のドローンをもってしてもと思わせるほどの大きな、しかも詳細な鳥瞰図である。この画家がこの屏風を制作するまでに費やした多大な努力のほどが知れる。鳥の目、人の目のかぎりを尽くした労作だ。展覧会図録に含まれる現代の空中写真と比較しても、遜色がないほどの広がりを持っている。清光の作品の数は多く、会津藩上屋敷付近から大名の登城風景を描いたと思われる『江戸城登城風景図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)などもあり、きわめて興味深い特別展であった。
大須賀清光 『若松城下絵図屏風』 福島県立博物館蔵(高瀬家旧蔵)、右側部分