Carlos M.N. Eire, Reformation, The Early Modern World, 1450-1650
New Heaven: Yale University Press, 2017, cover
偶像破壊によって壊された聖人像
聖マーガレット、聖アンドリュー教会、
イギリス、エセックス
昨年はマルティン・ルター(1483-1546)没後500年という記念の年にあたり、ルター派教会を中心に様々な行事が行われてきた。ルターに関する出版物もかなり増えたようだ。ルターというと、直ちに思い浮かぶのはやはり「宗教改革」だ。ルター、カルヴァンなどを中心として形成されたプロテンタスティズム、とりわけルターは現代の保守主義、リベラリズムの源流としても議論されている。学生時代に読んだ「プロテスタンティズム˚の倫理と資本主義の精神」,「一般社会経済史要論」などを思い出した。スマホ世代の人たちはほとんど手にすることはないのだろう。読んだことがあると答える人が少なくなった。
このブログでも取り上げたこともあるが、ルターが1517年に提示したヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り出したといわれる95か条の提題は、ローマ教皇の贖宥状販売を攻撃し、教会の腐敗を糺し、「宗教改革」 Reformations という運動へと展開、カトリック側の反対と自己改革を中心とする「反宗教改革」(カトリック宗教改革)の動きを誘発した。この対立の実態はその後の研究で、現実は世界史教科書で学んだような分かりやすい展開ではなく、極めて複雑なものであることが分かってきた。ルターの人物像も、かつて宗教学概論などの講義で習ったイメージとはかなり異なっているようだ。
17世紀ヨーロッパを特徴づけた30年戦争(1618-1648)には格別の関心を持ってきた。地球上に戦争が絶えたことはないが、20世紀を特徴づけた第一次、第二次世界大戦とは異なった複雑さと深さを持っている。一般には、スペインと神聖ローマ帝国という巨大なカトリック勢力に対するプロテスタント優勢の諸国連合の対決と理解されている。しかし、この戦争は開戦から終戦まで一貫して継続した戦争ではなかった。多くの局面とそれぞれの背景が異なり、複雑を極める。当初は宗教戦争と言われたが、その後の展開で様々な政治的要因や利害と戦場が重なり合って現れた。時には敵と味方の宗教的属性が反対になったりもした。この戦争の実態に立ち入るほどに多くのことを学ぶことができたが、とりわけその宗教性と時間の経過に伴う変質が注目を惹く。時代は異なるが、多くの外国勢力が介入している現代の複雑きわまるシリア内戦などと似た点もある(このたびのアメリカ・トランプ政権のシリア政権軍攻撃で事態は一段と厳しさを増した)。
30年戦争にブログ筆者が関心を持ったきっかけは、恩師のひとりが、ドイツ文学者で17世紀の研究者であったことにあった。その影響もあって「30年戦争」文学ジャンルには、その後全く異なる専門を志すようになってからも、折に触れ興味をひかれた作品を読んできた。この戦争については、世界でどれだけの書籍が刊行されただろうか。研究書だけでも数え切れないほど膨大で、多くの名著が書かれてきた。最近でも新しい観点からいくつかの力作が刊行された。宗教改革のようなテーマは、ともすればバイアスがかかりがちで、かなり時間を置かないと実像が見えてこない。
最初の頃読んだのは、シラー「30年戦争」、シラー「ヴァレンシュタイン」、グリンメルハウゼン「阿呆物語」、ブレヒト「肝っ玉おっ母とその子どもたち」あるいはいわゆる農民戦争ものなどであった。銅版画家デユーラー、クラーナハ、カロなどの作品に出会ったのも、この過程だった。
「30年戦争」というテーマで、思い浮かぶトピックスは尽きない。これだけでいつまでも書いていられるが、その時間はない。今回はこの戦争の発端といわれる事件について、最初の頃に抱いた単純な疑問について記してみよう。
1618年5月23日、プラハで起きた「窓外放出事件」である。30年戦争の開幕であり、「ボヘミアン・ステージ」と呼ばれることもある。舞台はベーメンとプファルツだった。すでに神聖ローマ帝国は宗教革命の展開に伴って分裂状態に入っていた。「新教徒同盟」と「神聖同盟」との対立は戦争寸前の危機状態にあった。その中で何人かのプロテスタント側の指導者たちがプラハの王宮に抗議に出かけた。王宮の行政担当者はカトリックであったから、激しい論争となった。訪問者たちは二人の行政当局者と一人の秘書を窓外に放り出した。
プラハの窓外放出事件を描いた版画(1618年5月23日):30年戦争の発端となった。
この記述を最初読んだ頃は、窓から放り出された3人がどうなったか、ほとんど気にならなかった。多分、死んでしまったものと思い込んでいた。ところが、その後文献を読むうちに、実際には3人は20メートル以上の高さから落下したにもかかわらず、無傷で済んでいたらしい。
放り出された3人が信仰するカトリック側は、神の奇跡であると祝福し、プロテスタントの暴力を批判した。他方、プロテスタント側はたまたま窓外に積まれていた堆肥の上に落ちたので衝撃が和らげられたに過ぎないとした。プラハの壮大な王宮と石畳の道を思うと、どちらもにわかには信じられない事件であった。真実は神のみぞ知る。