時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追って(6):サミュエル・スレイター再考

2018年07月14日 | 怪獣ヒモスを追って

スレーター・ミル、ポタケット
現存するのはレプリカ 

 

サミュエル・スレイターという人物をご存知だろうか。アメリカの産業革命の歴史において、”製造業の父”と言われる反面、イギリスから当時は禁制の繊維産業技術を密かに持ち出した”産業スパイ”のごとき評価も下されてきた。この点は以前にも取り上げたことがあるが、評価はどちらが真実なのだろうか。一般にはやや過度に単純化された後者のレジェンドが流布されてきた。

近年、研究が進み、より客観的なスレーター像が描かれるようになった。いかなる先端産業でもその技術の核心は重要な企業機密とされ、秘匿されるのが競争力維持の要諦であった。当時のイギリスは繊維産業を中核に世界の最先進国であった。そのこともあって、イギリス内外で新たに企業化を意図する者はなんとか最先端の機械などの設計デザインを手中にすることを目指した。”アメリカ産業革命の創始者”として歴史に名を残すサミュエル・スレイターもその一人だった。

産業革命の先駆者であったイングランドは、戦略的産業である繊維技術の海外流出を懸念し、1843年まで関連情報の流出を厳禁していた。機械設計図などの海外搬出は厳しく取り締まられていた。その中で繊維技術者であったサミュエル・スレイターは、熟練技術者の新大陸への移住が禁じられていた中で、職業を隠して密かにアメリカへ渡航した。イングランドのベルパーで生まれたスレイターは当時、世界で最先端であったストラットJedediah Strutt の工場で、経営者の家族に入り込み、工場では技術習得のための技術者として働きながらアークライトの発明した最先端技術を体得した。さらに、スレイターは簿記、経営管理など、繊維企業の経営に必要な知識と技術を包括して体得した。

 スレーターが企業化の対象とした繊維工場は、伝統的な手工業のそれと比較して大規模だった。核心となる動力は水力で、通常工場の地下に水車として設置された。水車の回転から生まれた動力は、各種ギアの助けを借りて各階の機械へと伝達される仕組みだった。スレーターは全てを彼の頭脳に記憶していたと伝えられるが、機械や建屋の設計など、実際に記憶のみから生み出されたものか、真相は分からない。

19世紀、ストラット  JwswsihStrutt の工場内部 

当時、中心となる繊維機械はリチャード・アークライト Richard Arkwright がパテントを持つ機械だった。梳毛機械 carding machine (綿、亜麻、羊毛などの繊維をほぐし、くしけずって短繊維、夾雑物などを除き、長さの揃った繊維を揃える機械 )、紡糸機 spinning (綿のような短繊維を紡ぎ糸や撚り糸にする機械)だった。こうした機械配置の要諦は、1台ごとの機械精度と、工程のどこかにボトルネックが生じることなく、工場全体の操業が滞りなく進行することだった。

1789年、スレーターはその技術流出禁止の壁をくぐり抜け、誰にも意図を伝えることなく、イングランドを抜け出し、新大陸へ渡った。アメリカに上陸するや、直ちにプロヴィデンスの商人モーゼス・ブラウンに接触し、彼の企業であるアルミー・アンド・ブラウン A&B に雇われた。スイターは繊維機械技術者として、ロードアイランド、ポタケットに水力で動く繊維工場を設置することを期待された。イングランドの企業はレンガか石造りであったが、アルミー・アンド。ブラウンの工場は木造2階建の簡素なものであった。最初は小規模なスタートで、最初の労働者はなんと9人の地域の子供たちであった。1801年には100人を越える子供たちが働くまでになった。

A&Bはその後スレーターが自分の工場を所有することになり、別の経営体となった。スレーターの工場は河川の水量が少なく、さらに労働力の子供たちが地域で調達できなかったので、概して小規模だった。イギリスのように救貧院 the poor house がなかったので子供の供給力には限界があった。そのため工場側は地域の男性は熟練労働者として、子供は機械の見張り役として働かせる策をとった。しかし、人口の少なかった新大陸では工場の大規模化は困難に直面し、経営者は労働力を求めて工場を分散化した。1809年にはロードアイランド、東部コネチカット、マサチューセッツ南部に20社近い工場が操業していた。

アメリカの工場は基本的にイングランドの慣行を取り入れていた。とりわけ、児童労働の広範な使用だった。極端な例としては4歳の子供まで動員されていた。成人労働者、児童を含めて、労働の報酬は現金ではなく、金券のようなもので、企業の経営する店でしか通用しないものだった。これは後年、筆者が調査した1960-70年代の南部の大工場でも、同じであった。

アメリカの木綿繊維産業の歴史を辿ると、別の事業で財を成した商人と並び、小規模な、熟練職人などが経営の母体となった例がかなり多い。スレイターが雇われた起業家ブラウンは、西インド諸島の貿易で財を成し、自分のポータケット工場は機械化した紡機を導入しようと企図していた。スレイターは記憶に頼り、イギリス仕様の機械を設計、1790年12月に最初の紡糸を生産するに成功した。スレーターは大変エネルギッシュに事業を進め、多大な利益を計上し、新たな工場建設に乗り出し、1799年には自分の工場を持つまでになった。1806年までにロードアイランドの田園にはスレーターズヴィル Slatersville の集落が生まれた。

スレーターの工場 Slater Mill は国立歴史的ランドマークに指定され、ポタケットのブラックストーン河の岸辺に残っている。ただし、スレイター存命当時の工場ではなく、そのレプリカである。工場は北米最初の水力による木綿紡機工場でイングランドでリチャード・アークライトが発明した紡機システムを採用している。

 サミエル・スレーター ポートレイト、1830年代
Courtesy Pawtucket Public Library 

 

アメリカの繊維産業はポタケットに根を下ろした。そしてサムエル・スレーターはその中心的人物であった。しかし、単に技術だけでは企業は新大陸に根付かなかった。ポタケットの成功を生んだのはスレーターが体得した企業経営の包括的な経営思想であり、経営の技術や管理手法であった。これは今日残るスレーター関連の様々な資料をみるとよく分かる。スレーターがイギリスで海外持ち出しを禁じていたアークライトの設計図を、記憶、体現し、新大陸で再現したことは、当時の文脈からすれば議論の残る点かもしれない。しかし、機械だけでは企業経営は不可能であり、スレーターはイギリスでの修業の間に広く経営・管理の手法を蓄積しており、新大陸に来ても、絶えず研鑽を怠らなかった起業家として稀有な人物であった。

アメリカの繊維産業は、スレーターによる”ロード・アイランド” 型では終わらなかった。さらに新たなプロトタイプが生まれてくる。

 

続く 

References

Anthony Burton, The rise and fall of king cotton, BBC, 1984 

George Savage White, Memoir of Samuel Slater: The Father of american Manufactur: SCHOLAR'S CHOICE, second edition, Lwnox Library: New York,  1836

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