異常な酷暑が続く毎日、ともすれば気力が低下して、眠くなったりする。そうした折々に見ているものがいくつかある。多少は消夏法になっている。今回はそのひとつをご紹介しよう。
『プルーストにみる絵画』Paintings in Proust * なる一冊だ。20世紀を代表する作家マルセル・プルースト(1871~1922)の一大長編『失われた時を求めて』に明示的あるいは暗黙裡に登場するさまざまな絵画を対象とした巧みな構成の一冊である。必ずしも最初から読み始める必要もない。プルーストの作品には200を越える絵画が出て来るといわれるが、プルースト・フリークではないブログ筆者は、掲載されている絵画作品を見てもプルーストのどこに出てきたか、すぐに思い当たるものは多くはない。それだけに改めてあの大著を繰ってみようかという思いも生まれる。日本はフランスに次ぎプルースト愛好者が多いのではないか。何しろこれまで10種類近い翻訳があり、優劣を競っている。ちなみにブログ筆者は鈴木道彦氏訳で読んだ。大変洗練され、読みやすい訳と思った。
さて、本書は、354ページにわたる書籍だが、装丁も瀟洒で素晴らしく、プルースト・フリークでなくとも、手元において、折に触れて手に取りたい魅力的な体裁だ。総数209点の掲載絵画作品のうち199点はカラー印刷であり、本書の魅力を際立たせている。
さらに著者のEric Karpeles エリック・カルペレス自身が画家でもあり、絵画の世界に通暁していることも、本書の価値を引き立てている。類書とは異なる巧みな構成だ。
ブログ筆者にとって有難いことは、本書が英語で書かれていることだ。これまで比較的、未開拓だった英語圏の読者を誘引、魅了することだろう。さらに本書は判明している限りでは、下記の2種類の表紙の版があり、読者の好みで選択できる。
上掲:
絵画作品
Grand Odalisque, Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1824 (関連記事、Karpeles, p.170)
Supper, Leon Bakst, 1901(関連記事、Karples, pp.208-209)
このパリの社交界の女性の頭を飾る帽子の奇抜ともいうべきファッションは、当時大きな話題となったようだ。初めて見た作品で大変興味深かった。
プルーストについての知識が少なかったブログ筆者に大きな救いになったのは、かつて勤務した職場に日本を代表する卓越したプルーストの研究者がおられたことだった。ご著作をいただいたり、啓発され自分で関連文献を求めたりで、作品のいくつかは読み、そのつど目を覚まされた。わずかではあるが、この世界的な作家の作品、人となりについての知識も増えた。しかし、専攻分野も異なり、プルーストにのめり込んだことはない。
プルーストの作品と美術、音楽が切り離せない関係にあることはかねて感じていた。とりわけ吉田一義氏のご労作などを手に取って以来のことである。今回のカルペレス の著作は視角が異なり、プルーストの作品に出てくる絵画作品の一枚ごとに、該当箇所やコメントが記されている。Narrator はマルセルという設定だ。
プルーストの仕事部屋には、ほとんど絵画(複製を含め)の類はなかったといわれるが、名作『失われた時を求めて』の執筆の時には、ほとんど組み込むべき絵画作品の詳細なイメージが作家の頭には入っていた。プルーストは「私の作品は美術だ」とジャン・コクトー宛の書簡に記していたといわれる。
View of Delft, Jan Vermeer, 1619-60
(関連記事: Karpeles pp.216-217)
身体は虚弱であったプルーストであったが、ヨーロッパの美術作品についての造詣は深かったことがうかがわれる。ルーヴルへはいうまでもなく数多く足を運んだ。ヴェネツィアやオランダの美術館には行ったことがないようだが、作品についてはジョットからシャルダンまで幅広く良く知悉していたようだ。本書を見てその視界の広さに驚かされる。
Charles I, King of England, Anthony van Dyck, c.1633
(関連記事、Karpeles, pp266-267)
Charles I: King and Collector
22 Jan 2018 by Edited by Desmond Shawe-Taylor and Edited by Per Rumberg
プルーストはラスキン Ruskin に深く傾倒していたが、ブログ筆者もかつて、ターナーの作品について多少調べた折、ラスキンの著作を読み、考えさせられることがあった。
本書の著者 エリック・カルペレスは、プルーストはベルリーニ Berlini からホイッスラー Whistler まで100人を越えるヨーロッパの画家を見ていると述べている。さらに、『失われた時を求めて』を 「西欧文学の中で最も充実したヴィジュアルな著作のひとつ」と評している。
Portrait of Savonarola, 1498
(関連記事:Karpeles PP.92-93)
プルーストは身体が虚弱であったこともあり、ニューヨークなどの美術館にまで出かけることはできなかったが、小説に取り上げられた作品は彼の地まで包含している。プルーストの著作をひもとく人々にとって、フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}とともにまたとない手引きとなるだろう。ちなみに、ミッシェル=チリエのこの大部な著作は、これまでの人生で、ブログ筆者が手にしたことのある最も興味深い一冊である。ある作家や画家の生涯、性格、家族、友人、社会的関係などに関して、これほどまでに仔細に調査が行き届いた著作を見たことはない。プルーストに関わる百科事典と言えるだろう。今回のカルペレスの新著は、それをさらに補填する瞠目すべき一冊だと思う。
Roses in a Bowl, Henri Fantin-Latour, 1882
(関連記事:Karpeles pp.118-119)
References:
*Eric Karpeles, PAINTINGS in PROUST, A Visual Companion to the Search of Lost Time, Thames & Hudson, 2017
Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust
À la recherche du temps perdu, Bibliothèque de la Pléiade,1987,4 vols.
テクスト(邦訳)
『失われた時を求めて』鈴木道彦訳 集英社 文庫版13冊本、 2006年~2007年
吉田一義『プルーストと絵画』岩波書店、2008年
フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}『事典 プルースト博物館』筑摩書房、2002年
(本書はプルーストの百科事典の感があるが、この時代の知識階級の自伝、社会史として読んでも極めて興味深い。よくぞこれほどまでに調べ上げたという畏敬の念を抱く。プルースト愛好者ならずとも魅了される。)