時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

1929年大恐慌のイメージ断片

2020年07月18日 | 特別トピックス


John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, 1997

今世紀に入っても世界はリーマンショック、そして今回の新型コロナウイルスが生み出した世界的不況など、相次ぐ衝撃的な経済・社会的破綻に相当する状況を経験している。小さな動揺はさらに多い。こうした場合に、ひとつのメルクマール(判断指標)として想起されるのは、1929年のニューヨーク株式市場で起きた株価暴落に端を発した「大恐慌 」the Great Depressionとして知られる深刻な危機的事態だ。1929年10月24日、ニューヨーク株式取引所での株価大暴落で始まり、同年10月29日までにダウ・ジョーンズ工業平均株価は24.8%下落し、アメリカ史上最悪の低落となった。そして、ウオール・ストリートの信頼を失わせ、「大恐慌 」として知られる世界的不況につながった。


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N.B.
経済的危機、恐慌、不況、停滞、不振、後退などを表現する言葉には、crisis, depression, panic, crash, recession, stagnation など多くの表現かある。1929年の経済危機については、the Great Depression, Crash, などが使われることが多い。時代の経過と共に経済専門家の間では、depressionとrecessionの区分など、一定の合意が成立しているが、しばしば恣意的に使われる。
通常、depression(不況、恐慌) は経済活動の縮小が、recession (景気後退)よりも長期にわたり、より破壊的である。前者は年単位、後者は4半期単位で計測されることが普通である。ちなみに、「1929年大恐慌」では、GDPが10年の内6年がマイナス成長だった。1932年には、12.9%という記録的減少だった。
失業率は25%に達した。国際貿易は3分の2以上減少し、価格も25%を越えて下落した。大恐慌が経済社会にもたらした荒廃は大変大きく、それが終わった後でも長らく続いた。
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ウオールストリートの崩壊
この恐慌に関わる3つのウオールストリートの株式市場での主な取引日は、通称Black Thursday, Black Monday, and Black Tuesday の3日である。最後の2日はダウの歴史記録に残る最悪の4日に含まれる。その後とめどない株価の暴落が始まった。一夜にして、多くの人々が事業の破たんを経験したり、資産を失い、大恐慌と言われる段階へ突入した。

「今現在の生産力と生活水準を即座に引き上げるために、将来を担保に自由に信用に頼るという戦時の慣習が戦後も続いた。途方もない大量の信用が使われ、乱用されることもしばしばだった。乱用自体は目新しくないが、創造される信用の規模はかつてないものとなった。紙の上での利益を人々が現実にお金に換えだすと、肥大化した信用が収縮しだし、多くの投資家が浮かれた夢から目を覚まし、我を取り戻した。そしてパニックが起きた」 エドウイン・F・ゲイ 
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N.B. 大激動の1週間 
最初の大下落は10月24日、暗黒の木曜日だった。ダウは305.85から始まったが、直ちに11%の下落となった。株式の売りは通常の3倍以上となり、ウオール・ストリートの銀行家、投資家たちは下支えに必死になった。その効果は現れ、10月25日金曜日、ダウは0.6%戻し、301.22となった。
暗黒の月曜日、10月28日、ダウは13.47%下落し、260.24となった。そして、暗黒の火曜日、10月29日、ダウは11.7%下落し、230.07となった。パニックとなった投資家は16,410,030株を売却した。
暗黒の月曜日、火曜日はダウの歴史で最も悪い日だった。2日共に大きな衝撃の日となった。株式大暴落の初期には、新聞などのメディアが生み出した扇情的な記事は、投資家たちの間に投機とパニックをもたらした。

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株価に翻弄された投資家たち
株価の上下動に伴う利鞘の獲得をめぐって、多くの人が投資に走った。そのかなりの人たちはブローカーから融資を受け投資した。彼らは10%の利益が見込めれば売買に走り、市場は投機化した。こうした投資行動は、大恐慌に先立つ「活況の1920年代」soaring 1920’s に進行していた不合理な動きを助長した。株式市場が下降局面に至ると、人々は争ってわずかな利鞘稼ぎに狂奔した。そしてウオール・ストリートを信頼しなくなった。

大恐慌はアメリカ経済を荒廃させた。1929年から1933年にかけて賃金は42%減少し、失業は25%上昇した。アメリカの経済成長は54.7% 減少、世界貿易は65%減となった。デフレの結果、価格はこの間10%以上低下した。
この不況の影響は長く後を引き、1930年代末まで続いた。失業率は1933年まで25%近く、5,000以上の銀行が破産した。
フーヴァー大統領は、産業再生金融会社 Reconstruction Finance Corporationのような手段で経済の再生を図ったが、著効は得られなかった。

ニューディールへ
は1932年に大統領に選出されたフランクリン・ローズヴェルトは、1933年3月に就任、ニューディールの名で知られる新たなアプローチで大恐慌に対処しようとした。



フォートペックダム工事で働く労働者
(by Margaret Bourke-WhIte)

大恐慌の最悪期には、アメリカ人のおよそ4人に1人が失職していた。ローズヴェルト大統領はNational industrial Recovery Actに署名し、経済の再建を図った。多くの連邦機関を通して公共事業を実施し、ビジネスの活性化を実施した。およそ60億ドルを投じ、34,000のダム、橋梁、飛行場、学校、病院などを建設した。その中でも巨大な建造物の一つ、モンタナ州、バッドランドのフォート・ペックダムは1934年から1940年にかけてミスリー川の制御のために工事が行われた。湖岸の長さはカリフォルニアの沿岸を超える巨大なフォート・ペック人造湖が造られた。ダムの建設のためにおよそ11,000の雇用機会が創出され、デラノ・ハイツ、ニューディールなどの名のついた新たな町が生まれた。このダムはロースヴェルトのニューディールの最大の成果のひとつとして今日まで継承されている。

しかし、この時代の政策評価は功罪相半ばするところがあった。恐慌の初期は、株価の上下動に投資家たちが翻弄されたが、まもなく実体経済の悪化が拡大した。
大恐慌の間、その進行を阻止しようと、連邦準備局は利子率を低下すべき時に引き上げることも行った。金準備制を維持しようと試みたためだった。今日、世界は金準備制を放棄している。
連邦準備局はデフレに抗するためとして、貨幣供給を増加しなかった。銀行の破綻にも有効な手段を導入できなかった。時系列に添って見直すと、そうした対応がいかに誤りだったかが分かる。
実体経済の回復にはかなりの時間を要し、その決着は日本の真珠湾攻撃に始まる世界大戦へと繋がっていった。

「1929年大恐慌」も年月の経過とともに、理解や解釈が大きく変化した。このたびの「新型ウイルス大不況」は、後世いかに評価されるだろうか。激変の渦中にいる若い世代の人たちの分析に期待したい。

Reference
John Kenneth Galbraith, The Great Crash 1929, Boston & New York, Houghton Mifflin, (1954) 1997

エドウイン・F・ゲイ、Classic Selection 1932, 大恐慌 The Great Depression
FOREIGN AFFAIRS & CFR PAPERS, 2008 n0.12
この論文は1932年に掲載されたが、今日読んでも多くの示唆に富んでいる。












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