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いくど繰り返されたことだろうか
ジョージ・フロイドという人間は決して有名ではなかった。しかし、5月21日黒人(アフリカ系アメリカ人)の彼が、アメリカで47番目の都市ミネアポリスの路上で警官に殺されたことで、その名は世界に広まり、知られることになった。さらに日ならずしてジョージア州アトランタで別の黒人が同じく警官に射殺される事件が発生し、人種差別をめぐる反対運動は世界的な次元へと拡大した。
アメリカに限っても、同様な事件はこれまで数多く発生してきた。その都度、多くの人々が抗議の行進をし、”We shall overcome” の歌声が響き渡った。このたびの出来事でも、黒人に限らず多くの人種からなる参加者が世界の至る所で人種差別反対を叫んでいる。こうしたプロテストはこれまで多くの場合、なんらかの現状改善につながる結果をもたらした。今回も警察制度の改革を含めて、いくつかの対応が導入されるだろう。しかし、人種差別は執拗に生き残る。
一冊の本から
差別には様々な対象が考えうるが、ブログ筆者が最初にこの問題に気づかされたのは、1960年代、アメリカ、コーネル大学院の政治思想史(公民権法)セミナーだった。尊敬するMFN教授からアサインメント史料として最初に指定されて読んだのが、前回ブログ記事で言及したW.E.B.デュボイス(William Edward Burghardt Du Bois: 1868年〜1963年 )の『黒人のたましい』*であった。
デュボイスは20世紀初頭のアメリカにおける最も影響力を持った黒人学者で、ジャーナリスト、政治運動家でもあった。この著作は、奴隷解放以降の黒人の歴史、レーシズム、ブラック・アメリカンの闘争を記した大変情熱的で強い意志で書かれた迫力ある著作である。デュボイスはその生涯を道徳、社会、政治、経済面における平等の実現にかけた。
* 原著は1903年に刊行され、今日ではKINDL版を含めきわめて多数の版が存在するが、以下では英語版、日本語訳版について、下記に依拠した。
W. E. B. Du Bois, The Souls of Black Folk(original: 1903), with a new introduction by Jonathan Scott Holloway, Yale University Press, 2015
Jonathan Scott Holloway の解説がつけられている。
W.E.B. デュボイス(木島始/鮫島重俊/黄寅秀訳)『黒人のたましい』岩波文庫、1992年(同じ訳者による未来社、1965年刊行の改訳)。大変充実した訳注がこなれた本文訳と併せ、1世紀を越える時代の経過を感じさせない。
人種差別問題を身近に
半世紀近くも前のこと、記憶は鮮明に残っている。10人くらいのセミナーで、外国人で非白人は二人だけ、トリニダード・トバコから来たトーマス(後に名門University of West Indies の経済学部長となった。後年、不思議な再会もあった)と私だけであった。トーマス(Tと略称)は年齢も数歳上で、物静かで教養豊かな黒人であった。寄宿舎でも偶然に部屋が隣り合わせだったこともあり、何かにつけては話し合い、教えてもらった。
1960年代後半の時点では、キャンパスに黒人の姿はきわめて少なかった(その後、ある事件が突発し、状況は大きく変わったが、その詳細は後日にしたい)。とりわけ、このデュボイスの著作については、セミナーでもTの独断場であった。それまでブログ筆者はデュボイスのことはある程度知ってはいたが、著作自体を手にしたことはなかった。一読して、この著作を読まずして、アメリカの人種差別問題を論じることはできないことを直ちに思い知らされた。
デュボイスを形容する言葉は実に多様だ。曰く、ニューイングランド気質、中流階級の意気軒昂の思想家、論客、都市社会学者、南部人、パン・公民権アジテーター、編集者、小説家、進歩主義者、核反対平和運動家、注意人物、表看板、コミュニスト、ガーナ人など。(J.S. Holloway, 2005)
こうした形容詞は、W.E.B.デュボイスの人生のそれぞれの時点に当てはまる。1868年、マサチューセッツ、グレート・バリントンに生まれ、奴隷解放以降の文壇、政治の世界で、最も重要で絶えず関心を惹きつける人物であった。W.E.B.デュボイスの人生で基軸を成したのは、やはり公民権運動であろう。
戦う知識人
1903 年に、デュボイスは本書 The Souls of Black Folk を出版した。学者のシェルビー・スティールによると、この 本は「順応と謙虚という黒人種の思想形態に対する激しい反 発」であり、「20 世紀の問題は、人種差別の問題である」こ とを正面から宣言した歴史的著作となった。
デュボイスは、しばしばほぼ同時代の黒人の社会運動家ブッカー・T・ワシン トン(1850~1915)と対比された。ワシントンはアメリカにおいて先住民、黒人などの教育に尽力した教育家であったが、黒人の自立のための自助努力を強調していた。
デュボイスは、ワシントン氏について大略次のように述べた(本書第3章「ブッカー・T・ワシントン氏その他の人たち」参照):
彼の理論のせいで、北部でも南部でも白人は、黒人の問題は 黒人に背負わせ、自分たちは批判的かつ悲観的な傍観者とな る傾向があった。しかし実際には、そうした問題は国民全体 で背負うべきものであり、われわれがこれらの大きな間違い を正すことに全力を傾けないならば、われわれすべてに罪が ある。
その2年後の1905年、デュボイスおよび大勢の黒人知識人が、順応と 漸進主義というブッカー・T・ワシントンの方針に真っ向から反対する公民権組織「ナイアガラ運動」を設立した(場所:カナダ領フォートエリー)。そして「われ われは完全な成年男子参政権を今すぐ要求する!」と宣言し た。彼は女性の参政権についても支持した。ナイアガラ運 動は、1906 年に、ジョン・ブラウンの反乱の地ウェストバー ジニア州ハーパーズフェリーで有名な会議を開催した。しかし、この組織は、組織力・資金力共に 不足しており、1910 年には解散した。
NAACPの設立
1909年、彼らは、デュボイスが組織した「ナイアガラ運動」と、イリノイ州スプリングフィールドの進歩的白人団体を母体として全米 有色人種地位向上協会 (NAACP:NAACP=National Association for the Advancement of Colored People) を設立した。この新組織の 指導層には、多くのユダヤ人を含む白人も含んでいた。デュボイス も指導者の一人として、NAACP の有力な機関誌『ザ・クラ イシス』の主筆となった。 NAACP は、その後、近代公民 権運動の闘いを始めることになる。
1913 年に、南部生まれのウッドロー・ウィルソン大統領が連 邦政府の公務員の人種隔離を認めたのに対し、NAACP は裁 判によってこれに対抗するようになり、ジム・クロウ法*を覆 すための何十年にもわたる法的な闘いを開始した。デュボイ スの指導の下で、「ザ・クライシス」誌は当時の状況を分析し、ラン グストン・ヒューズやカウンティー・カレンなど 1920 年代・ 30 年代のハーレム・ルネッサンスの偉大な作家の作品を掲載 した。同誌の購読者数は 10 万人を超えたとも言われている。
*ジム・クロウ法 Jim Crow lawsは、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含む [アメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。「ジム・クロウ」の名称は、黒人奴隷を題材とする芸人トマス・D・ライス〔1808–60〕の芸能ショーの登場人物名に由来するとされる。
ガーナ人になる
デュボイスは執筆活動を続け、20 世紀における米国の偉大な思想 家の一人としての名声を確固たるものとした。彼は、屈指の 反植民地主義者、そしてアフリカ史の専門家となった。1934 年、汎アフリカ民族主義を提唱してマルクス主義・社会主義 的な思想を強めていったデュボイスは、人種差別撤廃を求め る NAACP と決別した。デュボイスは、90 歳代まで生き、死 去したときにはガーナ国民であり熱心な共産主義者となって いた。
デュボイスは「アフリカ独立の父」と言われる ガーナの [クワメ・エンクルマ大統領 によって招待され、エンクルマが長年夢見ていた政府の事業、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を監督した。デュボイスと妻のシャーリー・グレアム・デュボイスは米国籍を放棄し、ガーナに帰化した。デュボイスの健康状態は1962年に悪化し、彼は1963年8月27日に95歳で アクラで死去した。アメリカにおける公民権法制定のおよそ1年前であった。妻のシャーリー・グレアム・デュボイスはエンクルマの失脚後に タンザニアに逃れ、1977年3月27日に80歳で 中華人民共和国で死去して 北京郊外の八宝山革命公墓に埋葬された。
公民権法の成立
ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に 公民権法 の制定に向け動き、 1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
ブログ筆者はここに記したような背景の下で、「差別」discrimination という現象とその対処のあり方に関心を抱いてきた。日暮れて道遠く、来た道を振り返ると遠くに見えるのは、W.E.B.デュボイスの著書に出会った頃、差別と戦う純粋でひたむきな人たちの姿である。
はからずも6月19日は奴隷解放記念日である。