自書を手にするマーガレット・ミッチェル
新型コロナウイルス感染拡大の最中で起きたアメリカの人種差別反対騒動の影響を受けて、6月11日、米ワーナーメディア社が映画『風と共に去りぬ』Gone With the Wond の動画配信サービスを停止した。同作はアメリカ南部に住む白人の目線で書かれたものであり、奴隷制を肯定するような描写も含んでいるというのが理由のようだ。今後、歴史的背景の説明や批判を追記したうえで再掲するとしている。差別表現の削除や差し替えは、偏見の存在自体を否定することになるとの理由で、行わないとのこと。著者マーガレット・ミッチェルが既に世を去っている今、この判断は妥当と思われる。
『風と共に去りぬ』は世界的名作だが、実はあまりしっかりと読んだ記憶はない。教師だった母親の書棚にあったことは覚えているが、読みふけった記憶はない。しかし、ストーリー自体はかなり知っているので、その後見た映画の影響が残っているのだと思う。1939年12月15日に映画化されて以降、世界的に大ヒットを記録した。
「大恐慌期の文化」
実はこの作品、小説自体は1936年の刊行であり、このブログで最近話題としているアメリカの1930年代「大恐慌期の文化」New Deal Culture の中心的作品のひとつなのだ。『風と共に去りぬ』はいうまでもなく、この時期を代表する作品だが、1920年代「恐慌前」のアメリカのように希望と未来への期待を爆発させるような力を持つと評されていた。そのことは、出版後直ちに映画化されると共に、現在まで続く一大ロングセラーであることからその影響力を知ることができる。
今回の人種差別反対運動の高まりの中で指摘された、マーガレット・ミッチェルの奴隷制への肯定的な叙述などについては、どうして今になってという気がしないでもない。こうした大作家といえども、時代が加える制約から逃れ得なかった。「奴隷制を基礎とした時代への郷愁」のごときものが混入していたことはありうることでもある。そのことを現代人の視点から追求、否定し、削除したりすることは、作品の評価にも影響しかねない。
コンテンポラリーの視点
このブログで強調してきたコンテンポラリーの視点とは、作品が生まれた時代と現代人の時代とを明確に区別して見ることである。歴史上の出来事である以上、そこには連続性が存在する。しかし、作品が生み出された時代はしばしば遠く離れた過去であり、その時代を律した価値観が、現代人のそれとは相違することは当然ともいえる。可能な限り作品の制作された時代へ立ち戻り、その環境に生きた同時代人の視点に立って見る努力の必要性を指摘してきた。
NB.
マーガレット・ミッチェル Mitchell,Margaret(1900-1949)は、ジョージア州アトランタに生れ、およそ10年を費やして執筆した『風と共に去りぬ』は生涯唯一の長編として1936年に刊行され、ピューリッツァー賞を受賞した。さらに、1939年には映画化もされた。名作の題名は 南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあった アメリカ南部の 白人たちの貴族文化社会が消え「去った」ことを意味するとされる。作家は、1949年8月16日、アトランタで自動車事故のため死亡した。赤信号に気づかず道路を横断したとも伝えられている。
北と南の差異
南北戦争というと思い出すことが、いくつかある。ブログ筆者、生涯の友人であるアメリカ人のB夫妻は、夫は北部ニューイングランド育ち、名門ダートマス・カレッジ卒のスポーツマンで熱心な共和党支持者、妻は南部サウス・キャロライナ生まれ、長じてニューヨークに移住、これも名門女子カレッジ卒業の文学好き、リベラルな民主党支持者で、長らく新聞雑誌切り抜き会社の管理職・経営者を務めていた。ブログ筆者は両家の両親、親戚などとも親しくなったが、いつの頃からか北部育ちと南部育ちの人の間には微妙な考え方や気質の差異があることに気付くようになった。それは食事、育児などを含む生活の仕方にも反映していた。どちらかというと、南部の人の方が家族や親戚の人間関係が密なような感じがした。近年はそうした地域的差異は、かなり薄れていることも確かなようだ。B夫妻の夫も人種差別については、政治的立場とは別にかなりリベラルだった。
北部と南部の差異については、1960年代末、木綿工業の南部移転の調査で、いくつかの工場町を訪れた時の光景を思い出すことがある。ニューイングランド(東北部)とは全く異なる国であるような印象を抱いた。 当時はAFL-CIOの南部組織化キャンペーンが遅々として進まないことも、議論されていた。白人至上主義、黒人に対する制度化にまで到っていた歴史的差別が生んだ断絶ともいうべき事態を深く考えさせられた。
南部文化の片々
ある時、B夫妻の縁で、ニュージャージーの銀行頭取Mc氏の邸宅で開催された新年会に行ったことがあった。頭取は南部生まれの生粋の南部人とのことだった。自宅である大邸宅でこうした会を開くこと自体、当時すでに珍しくなっていたので、連れて行ってくれたのだった。
頭取夫妻はスーツやドレス姿であったが、シャンパンなどのサービスをする人たちの中に、頭に白い帽子を被り、黒い衣服に白いエプロンをかけた黒人の女性が2、3人目についた。友人の目にも留まったようで、今でもこうした人たちがいるのだなと、自分に言い聞かせるように説明してくれたことを記憶している。彼女たちは同家で働く使用人で、かつてのような奴隷ではないのだが、映画『風と共に去りぬ』に出てくるような黒人女性の召使のイメージが立ち居振る舞いのどこかに残っていた。この家の娘さんたちの結婚披露にも行ったことがあったが、盛大なガーデン・パーティで多くの人が招かれ、友人が大変な出費なのだと言っていたのを覚えている。図らずも南部富裕層の文化の一面を目にした思いだった。
もうひとりの偉大な女性作家
話は飛ぶが、実は筆者が魅せられたのは、マーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬ』よりは、パール・バックの『大地』The Good Earthを始めとする一連の著作だった。女史の著作は大変数多く、正式には何点になるのかよく分からないほどだ。100点近くになるのではないか。
彼女の人生経歴からすれば、1930年代「大不況期の文化」を代表する2大女性作家といえるはずなのだが、そうした指摘は見たことがない。二人ともピュリツアー賞を受賞し、パール・バックはノーベル賞も受賞している。
NB.
パール・バック・サイデンストリッカー(Pearl Sydenstricker Buck
(1892-1973)米国ウェスト・バージニア州に生れる。宣教師の両親と共に幼くして中国に渡り、そこで育つ。高等教育を受けるため一時期帰国したのち再び中国にとどまり、中国民衆の生活を題材にした小説を書き始める。 処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表し『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作The Good Earthを構成すると考えられた。本作でピューリッツァー賞を受賞、1938年に米国の女性作家としては初めてノーベル文学賞を受賞した。1934年、日中戦争の暗雲が垂れ込めると米国に永住帰国。以後、執筆活動に専念し、平和への発言、人種的差別待遇撤廃、社会的な貧困撲滅のための論陣を張った。
1941年にアメリカ人、アジア人の相互理解を目的とする東西協会、1949年に国際的養子縁組斡旋機関ウェルカム・ハウス、1964年に養子を生国に留めて保護育成することを目的とするパール・バック財団を設立。1973年、米国バーモント州で引退生活を送り、80歳の生涯を閉じる。
企業は衰退、創作活動は隆盛
1930年代始めは、経済界の不況を反映して、とりわけ印刷、出版などの活動は著しく停滞、不振を極めたが、新たな創作活動はむしろ活発化した。この時期に生まれ、活躍した小説家、劇作家などは数多い。枚挙にいとまがないが、ランダムに記しておくと、
ユージン・オニール、クリフォード・オデット、マックスウエル・アンダーソン、ソーントン・ワイルダー、リリアン・ヘルマン、ウイリアム・サローヤン、ジョン・スタインベック、ウイリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス、ゾラ・ニール・ハーストン・・・・・・。
これらの中には、ブログ筆者がごひいきの作者も多く、1930年代アメリカという時代の際立った特徴をあらためて思い知らされる。
その他、音楽、映画、デザインなど、多様な分野で創作活動は活性化し、繁栄し、ニューディール・カルチュアとして知られる独自の次元を生み出した。
新型コロナ期の日本あるいは世界に、後年記憶されるような独自の文化や創造性が見出されるだろうか。次の世代に預ける課題ともいえる。