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人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追って(5):アメリカのマンチェスター

2018年07月07日 | 怪獣ヒモスを追って

美しい運河に沿ってカーブしたレンガ作りのクラシックな建物。これがなにであるかを知る人は今や大変少ないでしょう。ヒントは、産業遺産、”アメリカのマンチェスター”


大工場システムの盛衰

イングランドに端を発した第一次産業革命において、”大工場システム・ビヒモス”のシンボル的存在は繊維産業だった。毛織物、木綿などの繊維産業はその後、産業革命発祥の地イギリスからヨーロッパ大陸、そしてアメリカ新大陸へと巨大な足跡を残した。ここに掲げたのはアメリカにおける産業革命の中核として発展し、衰亡した、ある大企業の在りし日の姿である。

その名はアモスキーグ製造会社 Amoskeag Manufacturing Company であり、19世紀初め、アメリカ、ニューハンプシャー州マンチェスターに立地し、19世紀を通して拡大し、一時は世界一の木綿繊維工場にまで発展した。しかし、繁栄は長く続かなかった。1996年には、廃業に追い込まれ、壮大で美しい工場タウンも一部の記念碑的建築を除き、取り壊され、博物館やパーキング・エリアなどになってしまった。

エレガントな煉瓦造りの工場も取り壊された

今日、トランプ大統領が関税引き上げなどの保護主義的政策を持って救済しようとしているのは、一部はすでに同様な状況に陥っている鉄鋼、アルミニウム、自動車などの産業である。マンチェスターの盛衰は、これらの産業の復活がいかに厳しいものであるかを物語っている。

過去の栄光
1807年、この地の起業家のひとりサミュエル・ブロジェットは、この地が”アメリカのマンチェスター”となることを構想し、メリマック河から引き込んだ運河の整備などの努力をしていた。1810年には町の名前デリフィールドはマンチェスターに取り替えられた。この年、ブロジェットは3人の兄弟とともにこの地に水力による繊維工場を建設する。

彼らはロード・アイランド州ポタケットに、イングランドから紡織機械を持ちこんだサミュエル・スレイターから中古の機械設備を買ったが、うまく機能しなかった。1811年には新しく綿から糸を紡ぐ機械が導入され操業を続けた。この地域の女性、子供を雇用する小企業、家内工業だった。こうした努力にもかかわらず、マンチェスターの工場は利益が生まれなかった。

ユートピア的工場・都市の実現
1822年ロード・アイランドのオルニー・ロビンソンが企業を買収した。しかし、経営には無能であり、事業は資金の貸し手であるサミュエル・スレーターとラーニッド・ピッチャーの手に移った。1825年には事業の5分の3はドクター・オリバー・ディーンなどに譲渡された。ディーンはこの地に移り、経営の刷新を図った。その結果、1831年にはアモスキーグ製造会社の名の下に本格発足した。その後、経営陣の努力もあって内容は顕著に改善され、工場のみならず、従業員の宿舎、学校など公共的施設も設置され、マンチェスターは、ローウエに比肩する、「ユートピア的工場ー都市計画」のモデルと見なされるまでになった。道路、建物、学校、病院、消防署、運河などを含む見事な都市計画の成果がそこにあった。従業員については手厚く、とりわけ女子の労働・生活についてはローウエルと並び、工場、宿舎の生活まで包括して計画・管理された。これらの設計を委ねられたのはエゼキール・ストローという19歳の技術者だった。1833年にはアンドリュー・ジャクソン大統領が視察に訪れ、その状況に感銘した。

若き技術者ストロー設計の在りし日の女子寮と設計図 

古いイタリアの広場の様に見えるこの場所もいまは取り壊されて存在しない

栄光から落日へ
1807年の創立以来、拡大を続け、その製品は質量ともに並ぶものがなかった。1875年にはこれらの工場は1日当たり143マイルの長さになる布を生産した。しかし、1920年代初めには、繊維産業の立地は賃金も安い南部の原綿産出州へと移転しつつあった。

この頃、マンチェスターの市民もアモスキーグ社を産業上の失敗のシンボルとみなす様になっていた。この巨大企業 は次第に市場の変化に適応できなくなり、1936年には工場のすべての資産が清算の対象となり、およそ80社の地域の企業などが、資産を分割し保有、経営することになった。1861年にはマンチェスター市の住宅局がコンサルタントのAD社に同市の再建、将来計画のプランニングを依頼した。報告書は同社と市の将来について厳しいものだった。大学などの歴史家や都市計画の関係者の間には、なんとかこの古典的な建造物を保全できないかとの願いはあったが、現実は冷酷であり、建物の多くは取り壊され、運河も埋め立てられた。そして同社は1969年に廃業の運命をたどった。ビヒモスは巨大な足跡を残したが、その結末は傷跡深く、破滅的なものだった。

この過程を調査、研究対象としていたボストン在住の若い研究者ランドルフ・ランゲンバッハは、”我々の都市を救う努力の中で、あまりに多くの人々の心を切り裂いてしまった”と記している(p.121)。

 

Tamara K. Hareven & Randolph Langenbach., AMOSKEAG: LIFE AND WORK IN AN AMERICAN-FACTORY-CITY, Pantheon Books, New York, 1978.
本書はアモスキーグ社のかつての従業員を対象に行ったインタビュー調査に基づき、この”壁の中の企業”ともいえるアメリカの工場・都市における労働者の生活と仕事の世界を描写した興味ふかい著作である。

A Doomed Industrial Monument, FORTUNE February 1969

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