時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌ魔女物語(9)

2009年04月24日 | ロレーヌ魔女物語

17世紀初頭の頃、Vicを望む風景銅版画



 魔女狩りといわれる現象は、現代社会に存在しないわけではない。今日でもさまざまな場面で、この言葉、概念が使われている。ある条件が揃うと、時代にかかわりなく、この現象が発生しやすくなる。

 17世紀に入ったヨーロッパ全体でみると、魔女狩りは次第に減少してきたとはいえ、ロレーヌでは依然として絶えることなく、魔女狩りが行われていた。そうはいっても、ロレーヌは、ヨーロッパの他の地域とさほど異なっていたわけではなかった。しかし、魔女狩りを生むようないくつかの条件が重なって存在したことも事実であった。とても、ブログの枠に収まる話ではないが、メモ代わりにもう少し続けてみたい。このテーマの研究者にとっては、ほとんど常識に近いことだが、17世紀ロレーヌに少しでも近づくための材料集積のためだ。今回は、主として経済的背景を考えることにしよう。

農業社会のロレーヌ
 現在でも変わりないが、16世紀から17世紀前半、ロレーヌは基本的に農業社会であった。日常の取引は、短い距離の小さな市場圏で行われていた。しかし、モーゼル川とその近隣の地は、ラインやネーデルラントと水路を経由して結ばれていた。陸上交通の点でもロレーヌは、文化の十字路を形成していた。

 16世紀、ロレーヌでは記録に残るかぎりでは、食料品価格は3倍近くに上昇したが、賃金は2倍にもならなかった。比較的繁栄を享受しえた17世紀初めの20年間についても、ロレーヌでは価格は比較的安定していたが、賃金はわずかに上昇したにすぎなかった。他方、他の地域からの流入もあって人口は増加し、貧窮化が進行した。それにもかかわらず、17世紀に入って1630年頃まで、ロレーヌは比較的恵まれた時を迎えていた。フランス革命までに再び達することのなかった水準だった。

 16世紀末期の宗教戦争、とりわけユグノー戦争は不安と騒乱をもたらしたことは事実だが、百年戦争のような農業労働の完全な中断状態を生み出すようなことはなかった。ただ、17世紀に入ると、30年戦争の戦場に巻き込まれたロレーヌは他の地域よりも過酷な状況に置かれた。

 別の変化も進行していた。ロレーヌの住民は安全で平穏な状況を望んでいた。しかし、そうした期待を裏切るように、地域のコミュニティは次第にメンバー間の協力よりも、紛争の場へと移っていた。不平等が拡大し、実質的に土地を持たない日雇いの農業労働者が増加し、少数の富裕者と多数の貧困層へ階層分化が進行した。

 
さまざまな規制の存在
 ロレーヌの毎日は、荘園とコミュナルな権威が交差する点で、高度に規制されたシステムの中で展開していた。収穫期、休閑地、森林地の管理、あるいは共有の牛馬、牧草地の維持管理などが最重要な問題だった。例外的な特権を購入しないかぎり、農民は領地の水車、パン窯、ワイン絞り器などを使わざるをえなかった。

 戦争その他の理由で、自由農民が土地を放棄せざるをえなくなると、土地は領主によって収奪された。また、保有地を手放さざるを得なくなった農民から、安価に土地を獲得していった。

 ここでは、富と権力は結合していた。牧草地は次第に教会、修道院、貴族などの富裕層などが独占するところになり、農民など普通の人々は必要ならば小作契約をして動物などの飼育をするか、自由な土地を売り、小作契約をするしかなかった。ほとんどの家庭は、他人への日雇い労働をして暮らしていた。かなりの農民は、大農借地の日雇い労働と技術的進歩を遅らせたさまざまな共同体規制、そしてとりわけ家内制農村工業労働のおかげで生存が可能になっていた。こうした状況にあって、貴族となり、ロレーヌの牧草地を馬で放縦に走り回るほどの富を得た画家ラ・トゥールや特権に支えられた修道女たちに向けられた一部農民の怨嗟の光景が彷彿とする。

 16世紀以降、何回かの悪天候、飢饉などがロレーヌの状況悪化を深めた。1630年代までの比較的良い時期は、悪化の進行を緩和したが、反転させたわけではなかった。貧窮化への道は一方通行で、しばしば悲惨な状況を伴った。しかし、暴動のような反乱は少なかった。生活の術がない乞食などの貧窮者が増加し、支配者にローカルな慈善を求めた。穀物、木材、果実の盗みが横行した。しかし、社会秩序は巧みに支えられ、大きな破綻を見せなかった。

不満の蓄積と発散
 
こうして、16世紀前半は比較的繁栄していた。しかし、深刻な貧窮状態に陥ると、農民たちは、どこへ訴えるべきか分からなかったのかもしれない。村へやってくる収税吏、穀物収拾人に対する農民のいくつかの暴力的な行為の例、鬱積した怒りの発現は、この時代環境で起こりうるものだった。特に対象となる犠牲者が社会的なアウトサイダーの場合、事態はしばしば極端に走った。 しかし、コミュニティは修復不可能なほど壊れてはいなかった。異なった階層間をサービスと義務がなんとか結びつけていた。

 人口の多くが、長期にわたる困窮の淵にまで追い込まれていた。それでも、村落の支配者はさまざまな社会的、文化的圧力を駆使して、貧しい人たちの力の集中と暴発を防いできた。断片的に残る農民や下層民との軋轢、衝突などからも、その一端はうかがえる。 1570年代以降の社会経済的状況の悪化と魔女審問の増加は、こうした長年にわたる変化の中から生まれた。農作物に決定的な影響を及ぼす悪天候、そして牛、馬、羊などの動物への悪疫の流行は、人間関係にまで波及し、魔術や呪術への傾斜へ連なっていった。

 誰かの行動がコミュニティを破壊しているか特定できないとしても、その内部に隠れた敵として幻想する対象が、魔女という存在だった。それでは、魔女あるいは魔術を操る者とされたのは、どんな人々だったのだろうか。審問の事例を見ていると、あるイメージがおぼろげながら浮かび上がってくる。
(続く)  

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