ロレーヌの修道僧、ヴィック=シュル=セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館
たぶらかされたのは誰?
16-17世紀ロレーヌの魔女審問の世界を垣間見てみると、なんとも信じられないことが起きていた。以前に少しだけ記したエリザベス・ドゥ・ランファング事件に、もう少し立ち入ってみよう。ちなみに、この出来事は悪魔狩りの古典的な事例として、大変よく知られている。
1620年頃のロレーヌで実際に起きた話だ。エリザベス・ドゥ・レンフェンは貴族階級につながる上流の家庭に生まれた娘だったが、子供の頃からどことなく神がかったような、理解しがたい行動をみせていた。 家庭の育て方にも問題があり、「箱入り娘」的で、ほとんど外出もさせなかったらしい。その結果、娘もかなり偏った性格になってしまっていた。娘の扱いに手を焼いた両親は、なんと15歳になった時に、42歳の軍人に嫁がせてしまった。娘ながら厄介者と縁を切りたいと思ったらしい(親も親だが、よほどてこずったのだろう)。
ところが、この夫もひどい男で、妻を大変乱暴にに扱っていたらしい。9年後に夫は他界したが、6人の子供が残った。ただ、エリザベスの狂信的ともみえる宗教的熱意?は冷めることなく、夫の没後、ロレーヌで大変著名な修道院教会があるレミレモンへ、巡礼の旅に出た。
その帰途、小さな町の宿で、医師シャルル・ポアロ なる人物に出会う。ポアロは、この地方では医師として、かなり名前が知られていた人物だったようだ。エリザベスが後に語ったことによると、彼女はポアロに飲食に招かれ、媚薬を盛られて、意識が朦朧とした中で医師の意のままになってしまった。そして、それから後、なにか自分ではない、とてつもないものによって支配されるようになったとして、医師を激しく罵るようになった。
エリザベスは恐怖と混迷状態で村の薬剤師に薬を求めたが、薬剤師はポアロの診察を受けろというのがせいいっぱいだった。小さな町で彼女の扱いをめぐって一騒ぎがあったらしい。結局、町の司祭はなんとかエリザベスをナンシーへ送り届けた。
お手上げの事態に
ナンシーでは、祈祷師がおきまりの悪魔払いをするが、効果がなかった。そこで、ナンシーの多くの宗教・宗派が、それぞれの名誉にかけて次々と祈祷師や司祭などを送り、治癒を試みたがすべて効果がなかった。
伝えられるところでは、このエリザベスなる女性、習ったはずはないイタリア語やギリシャ語などが分かったらしく、封じられた手紙の中身を透視して読むなど、かなりのことができたらしい。実は、これらの行動は、その数年前に明らかにされたローマン・カトリック教会が発布した悪魔憑きの古典的な症候と一致していたようだが、周囲は見抜けなかったようだ。
愚かな医師
さて、こうしてエリザベスの常軌を逸した行動が何年か続いた。教会の欄干の上を歩くなど、奇矯な行動をしたらしい。そして、ある日、大きな転換があった。あの医師ポアロがナンシーを通りかかり、軽率にもエリザベスの所に立ち寄ったのだ。
エリザベスは、ポアロを自分に魔術をかけたと激しく非難し、医師は逮捕された。そして、ロレーヌの行政官の命令で、ポアロは魔術師の容疑で尋問が行われた。当時、魔術師は身体のどこかに悪魔の印がついているとされた。そのため、身体中を調べたられたが、なにも見つからなかった。ポアロは告白も拒否していた。
その後、さらに妙なことが起きた。数ヶ月後、ポアロは悪魔が憑いたとされる農j民の少女から訴えられ、再び逮捕される。そして、今度は身体検査の結果、なんと悪魔の印が見つかったのだ!
どうなっているのか
そして、今日からみると、およそ想像もしないことが起きた。ロレーヌ公国の24名の著名なエリート裁判官が、審問の結果、ポアロに有罪の判決を下した。フィリップ2世の娘を含む強力なポアロの支持者たちが、介入して助命を訴えたが、その効果もなかった。そして、医師ポアロと悪魔が憑いたという農民の娘は、火刑台へ送られてしまった。
他方、エリザベスはというと、その後緩やかに普通の人の状態になっていった。そして、再び巡礼の旅に出て、悪魔を克服、追い出したかに見えた。人々のエリザベスを見る目も変わり、敬意と尊厳さまでも感じるようになったらしい。そして、1631年にはナンシーに自ら新設にかかわったノートルダム救済修道院の筆頭修道女に任ぜられた。その後、この修道院は、当時のロレーヌの各宗派のモデルとされるまでに格式高いものとなっていった。18年後に彼女が世を去ると、かつての悪魔憑きの心臓は聖体扱いされ、ナンシー市民の尊敬する地位にまで高められたと伝えられている。
なんとも信じがたいような話である。どこで、誰が、どうなってしまったのか。しかし、悪魔狩りの時代、こうした出来事はロレーヌに限ったことではなかった。フランス、スペイン、イタリア、スコットランドなど、ヨーロッパの各地で似たような、不思議で、おぞましい事件が起きていた。
このレンフェン事件、関わった医師、聖職者、判事たちは、なにに基づいて、こうした判断をしていたのか。とりわけ、審問に当たった24人もの著名な判事たちの思考、判断基準はどこにあったのか。時代の環境・風土は、どこまで審問を左右したのだろうか。
現代的視点からみると、理解しがたい出来事であり、とても正気の沙汰ではない。しかし、この魔女狩りの流れは、その後も歴史のどこかに潜んでいて、さまざまな形で表面化することになる。
たまたま、イラク戦争にイギリスがアメリカとともに開戦を決定する直前の状況を描いたBBCの力作*を見ていて、真実を見定めることの難しさについて、深く考えさせられてしまった。
* 『イラク戦争へのカウントダウン』 (2009年3月10日)