ケンブリッジ周辺には、クロムウエルに関連する場所がかなりある。クロムウエルの実家があったイーリー Elyに加えて、クロムウエルの銅像が立っているセント・アイヴス St. Ives 、クロムウエル博物館のあるハンティンドン Huntingdon がある。いずれもケンブリッジから車で30分程度でゆける人口2万人前後の小さな町である。
セント・アイヴスはケンブリッジ、イーリーに続く街道を通って行く。ハンティングドンもその先の隣町である。この辺りは、若い頃に西洋経済史が専門だった恩師のひとりが講義などで常々話題とされていたので、一度は訪れようと思っていた。ケンブリッジにしばらく滞在していた時に、友人を誘ったりして2、3度出かけた。
日本のように道路標識が至るところに目につく国と違って、イギリスは標識が極めて少ない。うっかり見逃してしまうと、かなり先までいってしまう。時々方角を見失った。カーナビもなかった時代、途中経路の村や町など、目印をメモに書き出して出かけることもあった。
セント・アイヴスはケンブリッジ、イーリーに続く街道を通って行く。ハンティングドンもその先の隣町である。この辺りは、若い頃に西洋経済史が専門だった恩師のひとりが講義などで常々話題とされていたので、一度は訪れようと思っていた。ケンブリッジにしばらく滞在していた時に、友人を誘ったりして2、3度出かけた。
日本のように道路標識が至るところに目につく国と違って、イギリスは標識が極めて少ない。うっかり見逃してしまうと、かなり先までいってしまう。時々方角を見失った。カーナビもなかった時代、途中経路の村や町など、目印をメモに書き出して出かけることもあった。
ピューリタンのシンボルとして
セント・アイヴスの町の中心 マーケットヒルMarket Hill には、オリヴァー・クロムウエルの等身大の像が立っている。イギリス国内に4カ所ほどクロムウエルの銅像があるそうだが、そのひとつがここに建てられている。クロムウエルが若い頃、エンクロージャー(領主・地主階級が牧羊業や集約的農業を行うために、共有地であった牧羊地などを囲い込み、土地の共同権を排除し、農民が入れない私有地としたこと) に対して、農民の側に立ち、地主たちと戦ったことを感謝、記憶するため、後年農民が自分たちの恩人として1901年に銅像を建てている。印刷された聖書を手にした像は、ピューリタンの新しい生き方を示しているようだ。
小さな町ではあるが、こうした歴史的な場所として、観光客もそれなりに訪れる。町を流れるグレート・ウーズ川 the River Great Ouseには特徴ある橋がかけられていて、白鳥が多数、遊んでいた。この橋は市民戦争の時、クロムウエルがチャールズ 一世の軍隊と戦った時に一部を破壊し、後に再建造された。
ハンディンドン:クロムウエルが生まれた土地
セント・アイヴスから川と並行した道を行くと、まもなく丘の上に町があるハンディンドン Huntingdonが見えてくる。沼沢地が多いこのあたりでは珍しい天然の城塞のような位置にある。ここは1599年クロムウエルが生まれ、家族も住んだ場所でもあり、記念してクロムウエル博物館がある。色々興味深い展示物があるが、クロムウエルの使っていた例の特徴ある広いつばのフエルトの帽子や薬箱、そしてデスマスクもある。興味を惹いた遺品のひとつは、薬箱だった。身体が強健ではなかったクロムウエルは、特に晩年マラリアなどさまざまな身体の不調に苦しんだようだった。薬箱は16世紀、ドイツで作られた精巧で頑丈な物だった。
クロムウエル博物館入り口
クロムウエルは指揮者としても大変有能で、従来の軍隊を再編し、ニューモデル・アーミー(新型軍)として知られる組織の整った軍を作り出し、王党派の騎兵を次々と破り、1645年のネーズビーの戦いでは王党派に壊滅的な打撃を与え、チャールズ一世は議会派に捕らえられて処刑された。議会派の中心となっていたクロムウエルは、指導者としてイングランド共和国の独立を宣言し、共和制(コモンウエルス)を実現し、ピューリタン革命(1642~49年)を成功に導いた。
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N.B.
その後、クロムウェルは 1653年に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させた 議会も急進派による改革で混乱が生じると解散、国王の座への就任を断り、王権に匹敵する最高統治権が与えられる護国卿(護民官)となった。軍事独裁体制を強化していった。アイルランドを侵略し、実質的な孝王となっていった。1658年 にはフランス・スペイン戦争で英仏連合軍がスペインに勝利した。
1658年にクロムウェルは インフルエンザ(マラリア説もある)が原因と思われる病で死亡し、 ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子の[リチャード・クロムウェルは翌1659年に 第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろし1660年、王政復古した。
その後、長老派が 1660年 にチャールズ2世を国王に迎えて 王政復古を行うと、クロムウェルは墓を暴かれ、遺体は 刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、母校であるケンブリッジ大学の シドニー・サセックス・カレッジ]に葬られた。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は必ずしも定まっていない。
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ピューリタン革命という市民革命だが、歴史書の文字面で理解するのとは異なり、時代を遡り多くの生々しい遺品や記念物を目の当たりにすると、どこからか馬の蹄の音や撃剣の響きが聞こえてくるような気がする。ケンブリッジとその周辺(ケンブリッジシャー)は、単なる学問の地にとどまらない、歴史が生きているところという思いが迫ってくる特別の場所である。
N.B.
その後、クロムウェルは 1653年に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させた 議会も急進派による改革で混乱が生じると解散、国王の座への就任を断り、王権に匹敵する最高統治権が与えられる護国卿(護民官)となった。軍事独裁体制を強化していった。アイルランドを侵略し、実質的な孝王となっていった。1658年 にはフランス・スペイン戦争で英仏連合軍がスペインに勝利した。
1658年にクロムウェルは インフルエンザ(マラリア説もある)が原因と思われる病で死亡し、 ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子の[リチャード・クロムウェルは翌1659年に 第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろし1660年、王政復古した。
その後、長老派が 1660年 にチャールズ2世を国王に迎えて 王政復古を行うと、クロムウェルは墓を暴かれ、遺体は 刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、母校であるケンブリッジ大学の シドニー・サセックス・カレッジ]に葬られた。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は必ずしも定まっていない。
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ピューリタン革命という市民革命だが、歴史書の文字面で理解するのとは異なり、時代を遡り多くの生々しい遺品や記念物を目の当たりにすると、どこからか馬の蹄の音や撃剣の響きが聞こえてくるような気がする。ケンブリッジとその周辺(ケンブリッジシャー)は、単なる学問の地にとどまらない、歴史が生きているところという思いが迫ってくる特別の場所である。
夕暮れのセント・アイヴェス Photo:YK
続く