ある辞典編纂のお手伝いをしている過程で、気がついたことがあった。変化が激しいご時世、使われる言葉にも盛衰があり、辞典に採用すべき用語の取捨選択がひとつの仕事となる。採択候補の用語の中に、「サラリーマン」があった。いつの頃からか、見聞きすることが少なくなったと思ってはいた。とはいっても、まだ死語になったとはいえまい。しかし、なんとなく過去の響きがある。もともと「サラリードマン」salaried man が日本語化したものであり、俸給生活者、給料生活者、月給取りという意味である。そういえば、「ホワイトカラー」、「ブルーカラー」も色褪せた感じがする。
折りしも、新年の英誌The Economistが、「さようなら、サラリーマン」 'Sayonara, salaryman' *という短い記事を掲載していた。雑誌記事だけにそれなりの誇張はあるが、日本社会の問題を鋭く突いている。読みながら、改めて考えさせられてしまった。そこで、少しばかり思い浮かぶことをメモしてみた。
サラリーマンは、戦後日本の発展を支えてきた主柱の一本だった。敗戦の灰燼の中からたくましく立ち上がった日本経済の担い手になってきた。
「サラリーマン」という言葉には、長らく誇らしげな響きがあった。彼ら一人一人が会社を背負っているように見えた。その組織のメンバーとなることは、それ自体が将来の成功を約することであり、堅実な中産階級の一員である証だった。
彼らはキャリアよりも会社を選んできた。坂の上に光が見えていた時代、会社の成長は、彼ら自身の社会的上昇とも重なっていた。しかし、そうしたイメージは1990年代、バブルの崩壊とともに急速に後退した。
日本のサラリーマンは、しばらく世界もうらやむ存在であった。彼らはひとたび職を得た会社に強い忠誠心を抱いていた。特に問題がないかぎり定年にいたるまで献身的に勤続することを当然と考えていた。しばしば家庭を犠牲にしてまで長時間働き、会社に貢献してきた。家族もそれを当然のこととしてきた。日本の労働者はどうしてそれほどまでに働くのか。なにが彼らをそうさせているのか。日本経済が世界をリードしていた1990年代初めまで、彼らと企業との関係には、多大な関心が寄せられた。西欧の人々が思い浮かべるパターナリズムの一言で片付けられないものが、明らかにそこにあった。
強い共同体意識が組織を長らく支えていた。しかし、1990年代バブル崩壊後の長い経済停滞は、企業の風土を大きく変えてしまった。厳しい競争原理の風が組織に吹き込まれ、サラリーマン社会の牧歌的イメージは急速に荒涼たるものへと変化してゆく。パートタイム労働者、派遣労働者、契約社員など、さまざまな非正規雇用と呼ばれる雇用形態が市場に溢れ、「格差社会」の議論がメディアを賑わすようになった。企業社会の荒廃のすさまじさと労働条件の劣化。そこに起こった激しい変化の諸相は、労働者ばかりか使用者の想像をも上回るものであった。
The Economist誌は、日本は変化しているが、その速度は大変遅いとしている。最近の政治の膠着、混迷の状況を見ていると、確かにこんなことをしていたら日本はどうなるのだろうかという思いも強い。他方で、現実は政治の遅滞を置き去りにして、急速に変化もしている。
同誌が風刺を込めて記しているように、長時間労働、実質賃金の停滞など、劣化が著しい仕事と生活の関係に対しての処方箋として、「ワーク・ライフ・バランス」という外国の概念が使われている。「外国に学ぶものはなくなった」という傲慢な言葉が聞こえたのも、そう古いことではない。同誌は、一人の若いサラリーマンの言葉を借りて、「(過去はともあれ)この組織は機能しなくなった。それはあまりにも長く続き過ぎたのだ。システムは錆びてしまった」と結んでいる。
現実はともかく、「サラリーマン」を廃語にするのは忍びない。過ぎし日の記憶を留めるためにも、用語としては残すことになった。
* 'Sayonara, salaryman' The Economist January 5th 2008.
苦難の90年代、その後日本経済はなんとか立ち直りましたが、仕事の世界は様相一変。「ワークライフ・バランス」の実現が唱えられていますが、日本の職場に根付くのは時間がかかりそう。大事なのは労使の信頼関係をいかに取り戻すかではないでしょうか。一度損なわれた信頼の再確立には想像を超える努力が必要。でも、その役割と重荷が管理職ばかりにかかってくるのも問題ですね。ご健闘を祈ります。
「名ばかり管理職」から「名ばかり正社員」。根っこは後者にあると思いますが、それ以前に管理職諸氏が「頑張って」今の状況があるのではないかと思います。
高度成長期にも管理職は名を捨てて実を取るように働いたものですが、現在はかつてと違い、職場の連帯が極度に弱まっての「努力」で個人が潰れていくのではないでしょうか。それが下部にも浸透する・・
「ご健闘を祈ります」としか、愚生も申し上げようがないのですが、大学生や高校生の孫たちの顔を見ていると、働きの場の正常化に制度整備を期待したくなり
した。
ダイヤモンド社から出たコッター『幸之助論』の書評を頼まれて読み、岩波から出た『ルポ“正社員”の若者たち』を読むにつけ、その中間に企業と勤労者が居場所を見つけねばと思うことしきりです。
まずは、労働法の専門家が法の改訂にかなり寄与していたはずで、そのあたりを精査する必要があるのではと思います。それを誰がするのか。よくわかりませんが。
働きが報われるにはどうするのがいいかという素朴な辺りからことを始めてくれるといいと思います。これまた、ないものねだりか。
とりあえずは、与党が考えているらしい日替わり派遣を禁止するだけでもしてほしい。
愚生は、名ばかり管理職や名ばかり正社員を生む名ばかり会社を勤労者側が選択しないようにと期待します。さらに、正常だった会社が名ばかりになりかけたら正常に戻すよう内部で声をあげ、あるいは転職することを勧めたいと思っています。そのために勤労者の周囲にいる人々が知恵を発揮するのがいい。そんなことを考えているところです。
「仕事の近未来」が見えなくなっていますね。とりわけ、日々の労働、生活に追われている人たちには、先を考える余裕もできません。先が見えずに働いている社会はストレスがたまります。セフティネットの仕組みすら、機能しているのか分かりません。政治は明らかになんらかのデザインを国民に示すべきでしょう。「13歳のハローワーク」だけではとても救えない。でも、年金問題すら風化しつつある現状では到底無理か。
企業の世界は実際に働いてみるまで、よく分からないのが難点ですね。特に、労働歴の浅い若い労働者にとっては、比較する基準が分からず、転職も簡単ではない。あまり転職を重ねると熟練も身に付きません。学校のキャリア指導も、現実の変化にほとんど対応できていない。問題点を挙げ出すときりがありませんね。
社会的経験を積んだ大人(退職者の中で社会正義の必要を感じ、奉仕をしたいと思う人たちなど)が問題を抱えた若い人たちの相談に乗り、適切なアドヴァイスをするNPOを増やすなど、できるかぎりの支援が必要でしょうね。すでに、こうしたNPOは存在しますが、惜しむらくは数も少なく、運営も困難です。
海外の一部の国で試みられましたが、「働く人の観点」から評価した優良企業リストなどを、信頼ある機関が作成、公表するというような方法も、使用者にとっても刺激になり、効果が期待できるかもしれません。