時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

壁の中の聖域?

2017年07月21日 | 移民政策を追って

 

アメリカ国内に増加する「不法移民」の聖域 sanctuaries

 

 

ランプ大統領、最近はなんとなく声が小さくなった。お得意の「アメリカを再び偉大にする」Make America Great Again もあまり聞かれなくなった。当選後の政策として、選挙戦中から大言壮語していたアメリカ・メキシコ国境に壁を作り、国境を越えて入国してくる「不法移民」を断固阻止する、さらに壁の増築の費用はメキシコに払わせるという考えも、最近はほとんど聞かれない。代わって国内に滞在する不法移民の拘束が増加しているという。昨年比で40%プラスともいわれる。

壁をアメリカ、メキシコ間の国境に構築、張り巡らすことは、単純明快で効果がありそうに聞こえる。しかし、アメリカへの不法移民流入に対する最も有効な対策と言えるのだろうか。こうした大規模な壁を建設する考え自体は、すでに2005年カリフォルニア州議会で共和党議員ダンカン・ハンター氏が提案したことに始まるとされる。その後、何度か同様な構想が浮上した。しかし、国境の壁建造を大統領選の最大の公約としたのは、ドナルド・トランプ氏だった。ブッシュ大統領も壁の構築を提案したが、政権末期で実現しなかった。

移民問題について、ほとんど実質的に大きな成果を残すことのできなかったオバマ大統領に対して、トランプ候補は選挙キャンペーンの段階から、不法移民の越境の映像などを最大限に使った。そして、国境壁の構築費用はメキシコに支払わせるとして大きな論議を呼んだ。大統領選挙では38%が壁の構築に賛成し、トランプ支持者の83%が壁構築を指示した(Pew Research Center, 2016)。国境壁構築に賛成をする者は多いが、冷静に事態を観察する者の多くは、構築のコスト、実現可能性、国境地帯への経済的影響などの観点から構築に反対の立場を表明している。

実際には壁がすでに存在する場所でも、はしごなどを使って越境を企てるなどの例が報告されており、トランプが考えるような万全の手段とはならない。「壁」は総合的な移民政策のひとつを構成するにすぎない。ある推計ではアメリカに滞在する不法移民の約40%は、正式に出入国管理を経て入国し、規定の期限を越えても帰国しないいわゆるoverstayersといわれており、移民政策の難しさを示している。

さらに、最近ではアメリカ国内に「聖域」 sanctuaries といわれる地域が増えている。こうした地域では行政側も本人が不法移民であっても市民権を持った子供がいれば両親の国外送還はしないという対応を取っている。ロスアンゼルスのように、移民の孫が現市長であるような地域が多い。こうした「聖域都市」は全米で300を越えたともいわれ、推定1100万人の不法移民のうち37万人近くがこうした「聖域」内に居住していると推定されている。

国境に壁が構築されている場所を含めて、実際に国境という壁を乗り越えて越境する不法移民は、不法移民全体の40%程度といわれる。多くは入国管理を旅行者、ビジネスなどの資格で合法的に入国しているが、規定の年月を越えて国内に滞在しているいわゆる oversayers である。

こうした不法滞在者は、次第に「聖域」などの名で呼ばれる彼らにとって比較的安全な地域に集中・集積している。新たなコロニーの形成といっても良いだろう。彼らはお互いに助け合い、政治的にも団結力を増している。そう簡単に排除することはできない。以前に本ブログで記したような「数は力なり」という状況が実現し、展開している。

国境の壁を高めるほど、それを越えようとする人たちが増えるとの推定もある。壁が高くなるほど、壁の向こうの世界がすばらしいものに見えてくる。「楽園は花盛り」とは程遠いのだが、壁の外から見ると羨望の地に見えるのだ。

移民の行動様式とその落ち着き方は、長い年月の間にそれぞれに固有のパターンを生み出し、定着させてきた。それを定めるのは主として受け入れ側のあり方だった。時代は移り、その姿は今再び大きく揺れ動いている。しかもこの半世紀近くの間に、問題の内容も拡散、変化した。

筆者が1970年代に見ていたパリ、シャンゼリゼでも、裸足のアフリカ系黒人*が箒で落ち葉や塵芥を側溝に掃き込んでいた。今日「不法移民の町」として知られるようになり、数々の事件の現場となった、パリ郊外サン・ドニは有名な聖堂を見に来る観光客も多く、落ち着いて小ぎれいな住宅が並ぶ静かな「郊外」だった。ニューヨークやシカゴなど、アメリカ大都市における黒人などのスラム街も、近隣との間に見えない秩序が感じられた。そして、その後かなり長く見つめてきた日本の「太田」、「浜松」、「保見」などの日系人集住地域では、目の前の現実も大きく変わった。それぞれに背景は異なるが、いずれも破綻と変容の時を迎えている。

 

 

* 当時はしばしばピエ・ノワール(Pieds-noirs、"黒い足"の意)呼ばれ、1830年6月18日のフランス侵攻から、1962年のアルジェリア戦争終結に伴うアルジェリア独立までのフランス領アルジェリアに居たヨーロッパ系(フランス、スペイン、イタリア、マルタ、ユダヤ系)植民者のことを意味した。軽蔑的な意味があり、今では使われない。

 
 
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