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日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

お墓参りと会食。

2022-11-29 07:33:01 | 母のことなど
母がコロナ禍の最中に亡くなったので、お葬式に駆け付けただけで、納骨などにも出向いていなかった。
母の入っているお墓に初お参り。
墓地は北アルプスを一望できる好ロケーション。そして晴天にも恵まれて雪山を背にしたお墓に、庭に咲いたバラを挿してきた。
お墓にバラの花は不似合いなのかもしれないけれど、母は私のガーデニングを喜んでみてくれていたのでよしとする。出発前に30本あまりの庭に咲く秋バラ持参で出かけました。
同じ墓地で近くにお嫁さんの両親のお墓もあるので、そちらにもバラをたっぷり。
お墓参りのあと、夕方に落ち合って宿泊ホテルの近くの居酒屋で弟夫婦と4人で会食。
私はお葬式以来、夫は母の100歳のお祝い(ちょうど6年前の同じ日))のとき以来の顔合わせでした。

弟夫婦が語ってくれて話の中で、ひとつ、母親らしいな~、と思う話がココロに残っています。
40年余りも長男夫婦と同居だった母が、95歳で半身不随になり、退院後をとうするかで混乱したときに、急遽弟夫婦の世話になることに急展開したのですが、その一番の窮地のときに、母は「丸く収まるように」のスタンスで、対応していたのです。
思えば、その人の理不尽な対応を「なんと情けない」と悲しんでも、そのひとを責める言葉を口にしません。
すごいな~。思えば、わからない人を責めてもいいことはない、と判断するやり方で人生をおくってきている人だったので、そういう対応になるのでしょう。
私はその場におらず、あとからややこしかったと聞いただけなのですが、きっと、その時の間に入ったSクンにはその後プラスに働くだろうと、なんだかそんな気がしています。
「いくつになっても世の中の役に立つことができる」・・・実は、いつだったか法事でお寺に行ったとき、お寺の御堂にいくつもの言葉を書いたお札が貼ってあって、その中に「ひとは片足を棺桶に入れていても世間のためにできることがある」というのが私のお気に入り文言となっています。
先日の会食の場で聞いた母の対応で、Sくんのとげどけしかった対応が変わっていった、という話題を聴いて、「あっ、👆 だ」と。

世間にはいろんなケースがあると思うのですが、母は95歳で不自由な体になっも難題をどう解決していくか、自分の頭(知恵)を使って、毅然とした言葉を伝えようとしていたのだと、シミジミと思います。

お嫁さんのYさん「あんな風にしっかりとして長生きできる人は、そういるもんじゃないわよね~」と。
95歳で半身不随の義母を突然に引き受けることになったYさんも、私は滅多にいない奇特な人だと思っています。

母は話をする(語る)のが好きな人でした。私も母からたくさんの話を聴いているけれど、Yさんと同居の月日も長くなったから、彼女も母の話をいっぱい聴いている風でした。
お寺さんに戒名を付ける際に、どんな方でした❔と訊かれたので「お母さんは『明るくて、自然が好きな人でした』と答えたのだけれど、そういう人だったわよね~」と。
それで、法名は「〇明然〇」となったと。
なんだか高名なお坊さんにあやかったみたいになって(笑)、忘れることはないでしょう。

富山での会食なので、海鮮料理がメイン(お刺身の盛り合わせ・ブリしゃぶなど)。











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母の終活。

2022-11-20 14:48:06 | 母のことなど
父が79歳で亡くなっているから、4つ年下の母は75歳で未亡人となったことになる。
長男家族と同居はしていたけれど、着々と終活を(当時はそんな言葉もなかったけれど)してきた人です。

毛糸の機械編み機を始末するときは、我が家の子たち(孫たち)それぞれにVネックの紺のセーターを編んでお終いにしたよ、と言っていた。
最近、よく思い出すのは、近所の保育園にお手玉を100個作って持っていたのは、あの頃の母は80代ではなかったか、と。
90代に入ってからだったか、私が送った幼子成育中の写真はすべて返したい。自分のアルバム整理もしたいので、欲しい写真があったら持って行って欲しい、あとは自分で処分するから、と。

そんな風にして、ひとつひとつものも心も整理していっていた。

95歳で脳梗塞になり半身不随。初めて介護のお世話になる状況になった。
長男夫婦(兄は私より9つも年が離れている)は、母を付きっきりで介護できないので施設入所という話になった。
いくつか施設見学もしたけれど、結果的に弟宅で引き取る形になった。
右半身不随だから、お箸が持てず、トイレもすべて補助人なしではいけない状況の95歳の母を自宅介護することになったのです。

弟宅で生活するようになって数か月したころ、母に遺言を書くことを薦めました。
何しろ右半身不随なので、文字もミミズ文字。上手く書けません。
いちばんシンプルな内容の提案をしました。
母の相続人は私たち子ども3人です。

遺言書
預貯金の6分の1(※)を長男〇に、残りを二男〇に相続させる。
遺言執行人は長女〇とする。
日付  名前

(※)遺留分を主張できる範囲としました。
母もここまで長く生きて世話になると思わなかったのか、数年後には、全額二男にと書き換えたいと私に訴えましたが、後日のトラブルを避けたいので、変更を薦めませんでした。

私の相続分はないので、おのずと相続放棄したようなものです。
自筆証書遺言となるので、家庭裁判所に検認の届出の必要が出ます。その手間は私がやるつもりで、母の自筆の遺言書は弟に渡し、弟は奥さんに保管を頼んでいました。
銀行口座の解約などは遺言執行人が指定されていると全員の印鑑を揃える必要がありません。


遠方に暮らしている私はどうしても介護の戦力にはなれないので、こういう立場を示せて助かる、という面もありました。まぁ、総額がその程度だったということでもあるわけですけどね。苦笑

先程も民放テレビ番組で終活を取り上げていました。
では、私の場合は まだ ❔ ですが、
どちらかというと健康維持優先です。

それから母は104歳まで生きました。
コロナ禍でデイサービスが使えなくなり、ショートスティを利用していました。
今週末、お墓参りに行ってきます。
















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思い出すこと。その2

2021-02-16 11:44:05 | 母のことなど
そうだね~、充分に生きたね~
そんな感慨を持ちながら振り返る。

長年の長男夫婦と同居の環境から、脳梗塞退院後に急遽、95歳で住む場所が変わった。
よく住環境の変化を受け入れられたものだと思う。大変なことだと思う。とYさん(弟の奥さん)感心する。
はじめて介護認定を受けて、週3日デイサービスに通いだした。

老後は長男夫婦に世話になると思っていたから、あなたたち(弟家庭)にはそんなに(経済的サポート)してこなかったのに、と言って、最初に〇百万円を受け取ってくれといったそうです。そうしない世話になるわけにはいかない、と。
長男宅は丁度母の退院時に合せて、リフォームをし始めて、母が〇百万円を出す予定として組み込まれていたらしい。
ところが、長男夫婦は母の介護を引き受けるつもりはなくて施設入所の段取りとなっていることがわかり、急遽、退院先が弟宅になったという顛末でした。
着工済みなのだからと、住まない家のリフォーム代金〇百万円を母は渡しました。
外にも、全部で3分の1ほどの預金が長男にわたりました。
その時の長男夫婦のドライな対応に、ビックリもし、かつドタバタもしました。
半身不随の後遺症を抱えて退院したばかりの母を思いやるどころが、母から金品をむしり取るようにさえ思えました。
母も母なりに思うところいっぱいあったでしょうが、全部見事なまでに自分の中で消化して、愚痴として出てくるものは有りませんでした。半身不随にはなったけれど、思考力は衰えていないのですから。

ただ、口にしたのは、
「退院するときに、お世話になったお医者さんやリハビリの先生に『ありがとう』を言ってほしかったのに、それどころか『病院は患者が退院すればそれで終わりだけれど、家族はこれからが大変なんです』とお医者さんに母親を引き受けることの愚痴を言うばかりだった。我が子ながら、お世話になりありがとうございましたが言えないとは、情けない」とそれを何度も言っていました。

先日、お骨になった母と弟宅に帰り、母の小さな書棚の上に『〇〇先生ありがとう 〇〇〇〇子(母の名) 8月29日」と書いた紙きれを見つけました。右手麻痺だから、左手で綴ったのか、まったくのミミズ文字です。Yさん(彼女も同じ名字で学校の先生だった)にたいする感謝かな、と思って、Yさんに話題にすると「入院していた時のリハビリの先生に宛てたものだよ」と。

病院生活では感謝でいっぱいだったのに、その時の忸怩たる気持ち、母はさぞ悲しかっただろうと思います。

そして、〇百万円を渡すことになったことについては、「ちっとも、もったいなくはない。だって、自分の子供に渡るだけなのだから。子どもは、いくつになってもかわいいから」と。
まったく母(の情)は強し、です。

こんないきさつで、母の金融資産はグンと減ったのですが、弟宅で世話になるにあたって、弟宅に生活費〇万円、介護で世話をしてもらう分として、弟に〇〇万円を毎月支払うと決めます。
受取ってもらわないと、私が心安らかにこちらで世話になれない、と。
母の理屈です。
Yさんは、「お母さんって、口癖がありがとうの人で、ちょっとのことにも、いつもありがとうって口からでる」と。
晩年になって、近頃ありがとうの数が減った、と聞いて、「きっと、ひとつひとつが精いっぱいで、ありがとうを口にする余裕がなくなったのだと思う」なんて会話していました。

そうやって
8年と5か月暮らしました。

で、資金も残りお葬式代+α になりかけた時、母は最期を迎えました。

すごいな~と思いました。
貯めるのは、節約すればできます。
使うには、意思が必要です。
孫の結婚祝い、ひ孫の誕生など、喜んでお祝い金を出します。

かつて、母からきいた言葉に、こんなのがあります。

「世の中、タライの水だよ。自分のところにかき集めようとすると、水は逃げていく。周りに押し広げようとすると戻ってくる。そういうものだ」と。

母を見舞う時に、毎度ちょっとまとまったお小遣いを持参しました。母はそれをありがたく受け取ってくれて、弟に預け、弟はYさんに預ける。気持ちのいい循環になっていました(笑)。その時の母は、私の手渡すそのお金そのものを嬉しいだけでなく、私がお小遣いを持ってこようとする娘になっていることを喜んでくれていると思い、私からは、幸せに暮らしているよ、のシグナルにもなっている。
もし私が苦しかったら、絶対に受取ろうとしないだろうから。

自分の成長過程で、母にいっぱいいっぱい助けてもらっているから、もしSOS状態になったら、助っ人する気持ちもありました。実際はありがたいことに施設入所費用は足りる程度の年金はあったのですけどね。
現実は、そうすることもなく、ちょうど、本当にちょうどのところで、母は最期を迎えました。


周りの人に十分に支えられての最期だったのは、タライの水を外に広げようとした生き方をしてきた母の功績かもしれません。









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思い出すこと。

2021-02-13 07:32:58 | 母のことなど
自分で思い出すことをバラバラと書き留めておこうと思います。
個人的なことですから、スルーしてください。

先月母は104歳で逝った。
大みそかの深夜に発熱があるということでねショートステイ先から救急車で病院に運ばれ、病院に到着しても入院に落ち着いたのは3時か4時ころだったと、弟夫婦が言っていました。病院で再度検温したときは熱は下がっていたけれど、昨今の事情できっとコロナのPCR検査もしていたのでしょう。
深夜に二人して駆け付けてくれるなんて、ありがたい。

足指の壊死もあってショートステイで受け入れるのが負担にもなっていたのだとも想像できる。

その病院で2週間いた頃、転院を提案された。治るための治療のしようがない(血管が極端に細く脆くなっている)ということもあり、療養型の病院を紹介される。しかしながらニュースにもなっている連日の大雪ということで転院は1週間延びる。

転院した先の療養型病院の院長面接が火曜日にあって、終末期を迎えていることが話題に出たと。1週間、長くて1か月、と。
この面接があった日の画像が届いていた。ピンクの院内着を着せられて、動画では何とか手を振って見せているっぽい。
母を真ん中に弟夫婦が映った写真に、母は幸せだな~、ありがたい、と思った。

その翌日、10時過ぎに、病院から呼び出しが来たので行ってきた、とメールが届いていた。
昨日から状態が急変したらしい。でも、入室時間は10分限定なので、今は自宅、と。

そのメールを読んだ後、私は庭仕事をしていた。
次に届いたメールを開いたら、再度病院から連絡があり、午後1時前に亡くなった、と知らせるものでした。

母は介護施設にも病院にも、介護してくれている弟夫婦にも、みんなに恵まれて去って行ったな、と思うに尽きます。

95歳で脳梗塞になったとき、もう治療はしないでいい、と意思表示もしたことがあります。
介護職の人の負担が大変なこともあり、昼夜紙おむつをしなくてはならなくなった時も、死にたいほど惨めだったのです。(弟嫁さんの話によると「殺してほしい」と連呼したらしく、暴言を吐く高齢者扱いになって、ショートステイから苦情があり、施設を変わったという経緯があったと聞きました)
それほどでも、自分からは命を絶つことはできません。

少しずつ、身体全体の老衰が進み、壊死が起こりだして終末を迎えました。
病が原因とならない命の終わりってこんなものなんだ、と思える最期でした。


私の年頃では、親が存命の人はあまり見かけない。
皆さんが経験している母親を亡くすこと、をようやく体験したんだな、と思っています。

ふと、最近気が付きました。
母は、私に、弟夫婦とこんなに親密な関係を味わせてくれる機会を作ってくれたんだ、と。
弟嫁さんのYさんは当然結婚した時から知っています。だけれど、我が家が実家から遠方に住んでいて、帰省が年2回程度だったので、その際に合流してたくさんの人と一緒に会食する程度でした。
弟よりも若いし、当然私とは年も違うし、日常会話の域を出ませんでした。
それが、弟宅で母の介護を引き受けることになって、状況は一変。
彼女のこういった言葉は今も、脳裏に残っています。
「お母さんがこの家(弟宅)にいることになったのだから、これからは、ここがK子(わたし)さんの実家だと思っていつでも来てね」と。

95歳の半身不随の姑を受け入れるにあたって、不満や不安もあるだろうに、こんな言葉が出る? 
凄い人だと思いました。
そう、最初に泊まることになったときから(弟宅には)私用の寝具を用意してあります。
母とも語りましたが、こんな縁から、彼女とも語る時間を持つようになりました。
















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お葬式が終わって昨日帰宅する。

2021-02-01 07:40:15 | 母のことなど
お葬式のために出発する少し前に、長距離バスの道筋の高速道路が大雪警報が出ていて不通になっているとメールが届いて、急遽バス予約をキャンセル。
他の方法として高山本線で行くことにしました。
岐阜を過ぎたあたりから、雪が舞いだして、しばらくすると完全な雪景色。落葉樹の枝に張り付いている雪の様、墨色の山の雪模様は墨絵の世界。山を越えて北陸へ。
汽車の窓からの雪景色は雪国育ちだから、私には懐かしさを覚えます。

駅に迎えに来てくれていた弟の車に乗って、葬儀場に向かい、遺体安置所で母と対面。
「お見舞い」じゃないから、気持ちはぎこちなく緊張する。

一昨日に送られてきた母の顔を想像しながら対面。

お棺の中の母の顔の第一印象は「きれい!」でした。

若いころの母の写真は美人なのです。
(自分の親のことを、しゃあしゃあとこんな表現すると思われるでしょうが、誰が見てもそういう評をするから、厚かましいのですが、、、汗)

そして、滑らかな肌で鼻筋が通って、白くなった髪もつやつやして、最期の姿まできれいなんだね~、と思った。

「貴女の自慢のお母さんだったから、、、」とか友人からメールが届いたりしましたが、「自慢の母」というのとは違いますが、学ぶところがいっぱいある母でした。

弟夫婦とたくさん語りました。
おしゃべりが好きだった母だから、8年5か月を暮らした弟宅でも、弟嫁さんにたくさん話を語ったそうです。
そんな母を前向きに受け入れて、誰からも好かれる人だったから、104歳まで生きて、お母さんと交流のあった人はみんなあちらに行っているから、今頃天国で、みんなに囲まれて、語るのに忙しいのじゃないかしら。もう、膝も痛くないだろうし、、、、という、弟嫁さんの感想は、ジワジワと私を喜ばせます。

本人もこんなに長く生きているとは思っていなかったし、脳梗塞で半身不随になった後、住環境が変わって弟夫婦宅で暮らすことになるとも想像もしていなかった。弟宅での生活は思ってもいなかった「おまけ」のようなものだといっていたそうです。
人生のおまけ。良い意味での、ご褒美のような展開だっのだと思います。

母は79歳で死んだ父から30年近く長く生きました。向こうで父にあったら、この30年間にあったいろいろなこと(孫の結婚や、ひ孫の誕生など)話して聞かせる土産話をいっぱい持って、あの世に行ける、と言っていたそうです。

お棺のなかに入れるものを弟嫁さんに相談されました。
おばあちゃんがいつも大事に持ち歩いていたバックと中の1冊の本。
そして、〇さん(私)から贈られたブラウスとカーディガン、これ新品かもしれないけどいいのじゃない?と。母の日のプレゼント品です。式服用のズボンと靴も入れました。
母が持ち歩いていた1冊は詩集。90歳を超えた柴田トヨさんの詩集が話題になったときに手渡した1冊「くじけないで」です。
話題になってからもう何年もたつのに、常にバックに忍ばせていたのですね。詩集としては小ぶりでもないのに、心の支えだったのでしょう。

これで、一番近い年上の身内を送るという節目は終わりました。

















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昨日、母が逝きました。

2021-01-28 07:22:04 | 母のことなど
昨日の午前中に病院から電話があったので、と病状がより終盤になったことのメールが来て、電話でも話していた。
(病室には10分しか滞在できないらしい)
一旦帰宅して、再度病院から連絡あって駆け付けたところ、脈は止まっていたと。午後の1時のメールは死亡の連絡だった。

コロナで遠方から駆け付けるのはマズイだろう、という流れで、我が家の子供(孫)たちにはメールで連絡。
珍しく、即、息子から電話があった。

病院勤務だから、母の足指の多分壊死の状態などメールしたりはしていた。
仕事柄高齢者の死も多くみているだろうから、遠くはないとは思っていたと。

で、きっと、おばあちゃんは病院に入院していても、周りの人から慕われていただろうね~。どこへ行っても喜ばれる人だったと思うよ、と、懐かし気に話し込む。大学進学の際に我が家にやってきた以来、顔を合わせる機会がめっきり少なかったのに、息子の中のおばあちゃんのイメージはそんな風に定着している。
そういえば、脳梗塞で3か月ほどの病院生活の後、弟宅で暮らすことになったとき、弟の奥さん(Yさん)も、よく似たことを言っていたと思い出した。Yさんは長いこと教師をしていた人です。お母さんは入院していても、看護婦さんはたくさんの患者さんを担当しているけれど、ちょっと時間の余裕があったりすると、お母さんの部屋でゆっくり対応したりすると思うわ。患者さんとしても、いい患者さん、そばに行ってたい患者さんだったと思う、と語ってくれた。

なんという人(心の広いYさん)だろう、と思った。
沢山の生徒の相手をしてきたから、そこの微妙なところはわかるんですね。

そういえば、もう何十年も前のことも思い出しました。

弟(T)が、私にボソッとつぶやいたことがあります。
不思議なんだよ~。まったく、別の場所で、いとこのSちゃんとKちゃんから同じことを言われたことがある、と。
言った内容は同じ。
「僕にはお母さんが二人いる。自分の母親ともう一人はおばちゃん(私たちの母のこと)」

思春期から青年期にかけてのSちゃん、Kちゃんのココロの悩みのフツフツとしていた時に、彼らのココロの寄り添い役になっていたのでしょう。

そうだったね~。
まだいるかもしれない、母をかけがえのない人だと思っていた従兄弟たち。

私がまだ小学高学年の頃、母が従姉妹と真剣に話している風だった光景も覚えている。
近寄りがたい雰囲気で、なにも尋ねることはしなかったけれど、ずいぶん後になって、あの時はね、あの子は母親から結婚を猛反対されてギリギリの状態で、風呂敷包みひとつでもいいからといって結婚したんだよ、との話だった。その後、その夫婦は経済的にも恵まれて、母にも恩返しをしてくれていたと思う。

弟はたくさんの従兄弟たちの中の一番の年少なので、そんな顛末は聞かされていないし知らないと思う。

母のことを「おばちゃん」と(多分、自分の母親よりも慕うくらいに頼ってきていた人たちが、)あの人もこの人も、まだまだ知っている。ずっと、郷里から離れて暮らしているから縁遠くなっているけれど、おばちゃんに助けられた、という人がいるのを、ぼんやりと覚えている。

お葬式は、ウルトラ的にコンパクト。それでOKなのだけれど、昭和の40年代の頃の母とかかわった従兄弟たちを思いだしたら涙があふれてきた。

104歳の母よりも先に逝った人もいると思うけど、走馬灯のようにかつてのことが頭に浮かんできて、泣けてきた。
ほんのちょっとだけでも、「昨日、亡くなったよ」と伝えたい気持ちが湧いてきてしまった。従姉妹のHちゃん、おばさんが亡くなって(アメリカのツインタワーのテロの時がお通夜)以来、すっかりご無沙汰だけれど、連絡してみようかしら。

取り急ぎ。後日推敲。
















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その時が来た。

2021-01-27 07:09:57 | 母のことなど
昨日、弟が病院からのビデオ電話をかけてきた。
スマホ画面では、ベットで終末期を迎えている母の目に私の顔が判別できる程度に届いたかどうか、怪しいものだ。
でも、息子・娘らがなにかやってくれている、ということは感じてくれるに違いない。

あと、2週間、長くても1か月とのこと。
お医者さんとの面談日ということで、弟夫婦は病室にも入ったけれど、このコロナ禍では見舞いもままならない。
非常事態宣言が出ている地域の私の見舞いは無理みたい。(当地に行ってからホテルに2週間閉じこもっていて大丈夫ならOKと)
なので、昨日が最後かな~。
こんなふうに展開していくなんて、思ってもいなかったけど、アリなんですね。

お葬式にも遠方からの人は呼ばない方針だとか。
了解だけれど、えっ、娘の私も除外?

そこで、今は「・・・・」の状態。

考えてみれば、駆け付けていったからといって、そうじゃなかった場合と何が変わるわけじゃない。
コロナでこういう結果になった、と伝えれば、もちろん生前の母は文句を言う人でもないし、私の気持ちが薄らぐわけでもない。

思えば、昭和の時代はまだお葬式は自宅で行われていた。
当事者はなんやかんやと忙しいから、接待のためのお料理一切は近所が責任をもって、やっていた。その料理作りのために実家の台所が何度も使われてことを覚えている。5人6人の主婦らが何十人分もの精進料理を大きな鍋で作るのです。
私ですら覚えているのに、母も実際に作った経験者として記憶にあることでしょう。
なのに、時代は変わって、よりによって、新型コロナ。

ウルトラコンパクトにならざるを得ません。

それでも、精一杯の恵まれた環境の中で、生き切れたのだから、ありがたいと思います。

どうしようかな~。
民間のPCR検査を受けて、長距離バス(3時間半)で移動するというのも、選択肢かな~。











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事情。追加文あり。

2021-01-25 07:09:25 | 母のことなど
未明、トイレに立つとめまいがした。
寝ぼけてふらついた?と思いたいのだけれど、違うな、これはめまい、と思いながら戻ってベットに就いた。
珍しく夢の中で2時間ほどたっただろうか、6時前に起きようとしたら、またまた先ほどと同じめまいがする。
健康診断も放置しているし、この際お医者さんの診察を受けよう、と思うのだけれど、日曜日だし、困ったな、という気持ち。
天井がぐるぐる回るほどのめまいでもないし、吐き気もないから、無理をしないで過ごすことにして、8時からのヨガをキャンセルした。

そして、とにかく月曜にはお医者さんに診てもらおう、と。

そんな朝の時間に、滅多にしないスマホの呼び出し音がする。
もしや、と思うことはひとつ。

母の緊急事態ではなかった。ただし、転院先の院長先生から電話があった内容についての報告だった。
転院して流動食になったのだけれど、その流動食も食べなくなった、とのこと。
だから今後は点滴をしていくらしい。

転院の際の動画では、手を振っていたのだけれど、入れ歯も外した姿は、どうにかそこ(ベット)に置かれているというさまでした。
手を握ったら、握り返す力はまだある、と言っていたので、ままならぬながらも交流するという意識はあるのです。
でも、一日ふつかして、食べ物を摂らないようになった、と聞いて、それも自分で判断したのかな、と思いました。

コロナという事情もあって、施設や病院で暮らす日々があるだけという状況で、もういいと思ったように察せられます。
95歳で脳梗塞で倒れた時、治療はいいです、と言っていたけれど、回復力があるのに治療しなければボクが困ります、とお医者さんと雑談していたのだけれど、104歳になって、こんどこそ、もういい、なのだと思います。

点滴で栄養は投与されるということで、どこまで命が続くのか。足指の壊死も処置はしてもらっているけれど回復見込みはないのです。

我が家が当地で暮らすことになったときに、ミヤマオダマキの苗をもってきたのは母でした。
30年余りも続いて毎年花を咲かせています。

私の初めての出産で里帰りしていた時に、一緒に行った苗木市で買ったハクモクレンが見事に花をつけたよ、と毎年電話してきていたのに、4月のハクモクレン満開の季節は帰省の時期とあわずに、見ることはありませんでした。
はじめて目にしたのは、4月半ば、母が倒れたと聞いて、駆け付けた時。青空に数百もの真っ白な鳩が群れなして止まっているようで見事でした。毎年、これを見せたいな、と思ってのあの電話だったのだと思ったものでした。

今、我が家のロウバイが見事です。
長女に初めての子供が産まれるのが嬉しくて、私的には記念樹です。苦笑
でも、同じように、見事な季節に訪問は望めません。
なんだか、おなじことを繰り返しているように思わないでもありません。

コロナで安易に長距離移動もかないません。
もう見舞いに行っても会話はできません。あんなことこんなこと、母からいっぱいいっぱい聞きながら育ちました。
それらのアレコレを引っ張り出しながら反芻しています。

自分できることを一生懸命するタイプだったのに、すっかりそれもかなわぬようになって、最後に、食べることをやめる、という選択をしたのだと、そんな気がしています。

弟がすぐに駆け付けられる状況で、充分に幸せな展開を呼び寄せた人だな~とも思ったり。

という事情。

で、話はつながりませんが、私としては、このめまいを今回は放置したままにしないで、診察を受けてこようと思っています。

追加文
定期検診をしていないから、診断するにも不都合らしい。
特定健診は2年ほどしたデータは持っているけれどけ、最近、協会けんぽになってからはサボっている。

症状を説明し、今も完全にめまいがないとは言えないと言ったら、ボールベーンの先を見てください、と言われて、左右に眼球を動かす動作を指示された。そんなアナログで、わかるんですね。その動きから、まだ眼振がありますので、めまいが消えていませんね、と。
レントゲン撮影と心電図と血液検査をしてきた。
肺の状況は問題なし、だって、コロナが流行っていて肺炎が話題になっている折としては、すごくありがたい。
心電図によると、不整脈あり、心房細動あり。
血流に問題を抱えていると、血栓ができやすいと説明を受ける。
血液検査の結果は数日後に聞きに行くことに。

息切れが気になることも伝えたけれど、若くても息切れはすることはあるし、身体の検査結果がないことには一概には、息切れが即危険、とも言えません、と。しごく納得です。

帰宅後、のんびりしていたけれど、あまりにも暖かいので、バラの鉢の土替え、肥料やりをしに庭へ出た。
13鉢について作業終了。あと数鉢が残るだけになって、ほっ。

午後の日差しに、ロウバイが映えてきれいです。





















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今の現実。

2021-01-08 10:23:59 | 母のことなど
母の足が病んで3週間ほど入院していた。完治の見込みがないから通院に切り替わって、ショートスティで過ごしていたところ、発熱したとして救急車で別の病院に入院。退院後は同じショートスティ先では受け入れられない、と回答されたとのこと。ショートステイからは、この足の指の黒ずみの状態が今後も悪化して、そのうちにポロリと落ちる、と言われたとか。
104才だもの。もう足の指まで栄養を送る機能が無くなってしまっているのだろう。放置しているわけではないから、痛みを感じていれば対策はなされているだろう。

ショートステイ先も病院もコロナで見舞客入室不可だから、とっさにどうすることもない。
年末にひととき入室を許可されたときに弟が写した母の動画では、ベットに寝たまま手を振っていた。

95歳で脳梗塞で半身不随になってから、ここまで命があるとは、本人も考えていなかっただろうと思う。
弟夫婦の介護と社会の介護制度、医療制度に守られて、今に至っている。

ショートステイ先では、足指の症状がある状態の母を受け入れられないと断られたので、今後は療養型の病院に入院することになる、という。弟からのメールで説明されて知る仕組み。ありがたい。
とても自宅で引き受けられる状態ではなくなってきている。
特養にはいきたくない、家族のもとにいたい、一心の母であったけれど、現実はこういう形に展開していくのだ、と実態を受け止めているところ。

そもそも104歳の高齢者が身近にいたこともなかったし、こういう症状が出てくるものだというのも、初めて知ること。

今は療養型病院への転院待ち。
システムがちゃんと整っていること、この国の医療制度はすごい。

私もかかわらなくてはならない親のことなのに、すべて対応してくれて、事後報告を受ける立場。弟が愚痴を言わないのが、そこも凄いし、ありがたい。

コロナでなくて面会ができる状況ならば、出向くのだけれど、北陸は大雪だし、そこまでは長旅になる。そして出向いても面会停止。
誠実に対応してくれている弟の報告を受けるだけです。





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この時期に要介護者が入院するということ。

2020-12-05 13:18:29 | 母のことなど
今月で104歳になる母が10日ほど入院している。足の傷口から入った細菌で炎症が起き、悪化したので。
届いた写メでは片足の甲の3分の2ぐらいが赤く腫れあがっていた。
まだ完治は先なので、入院生活が続く。
要介護2(認知症はないけれど、歩行は到底無理だし、寝返りもできない)。

家族も病院内には入れないから、オムツなどの必需品を届けるだけ、という。
受け入れている病院側は大変だろうな~、と思う。これまで介護施設や家族がやっていたことも看護師さんの仕事になるのだから。

きっと、コロナ患者さんも受け入れている病院だろうから、院内はさぞかしピリピリモードじゃないかしら。

昨日のBSプライムニュースで、介護施設でクラスターが発生して、入院している要介護の患者への対応にいから人手がかかっているかが話題に出ました。食事を口に入れて食べさせる。下の世話、身体の拭いたり、徘徊への注意、と普通の患者さんの何倍もの人手がいるということです。
コロナ患者さんだから、そのすべてを防護服着用で行わなくてはいけない、という。
神経も体力も消耗状態で、現場はベットの数があっても人手が足りなくて回らなくなっている、と。
ベット数の〇〇%が使用されている状況で医療崩壊が、、、、と耳にするけれど、ベット数よりも、手当ができるマンパワー不足状態が起き始めているらしい。

感染の危険がある職場はできたら避けたいのが本音でしょう。危険を押して尽力してくださっている方々には、対応する手当の支給どれほどなされているのか。

100歳までも生きる長寿社会が現実化してきました。
100歳まで身の回りのことを自分でできるケースは限られてきます。
当然に介護のお世話になる。
その仕組み(資金)についてですが、相続税の何割かを介護分野に割り当てる、というのはどうでしょう。
介護は介護保険で賄う、というのが筋なのですが、ここまで介護にコストがかかるのでは、赤字が常態化してしまうのではないですか。
介護保険料は40歳以上強制加入です。現役世代にこれ以上の介護保険料の負担を増やすのではなく、相続が発生したときの財産から算出されるのが相続税。亡くなった方の財産が基準です。その算出された金額の何割かを、亡くなった方と同世代か世代の近い高齢者の方々の介護コストに充てる、というのは、理にかなっている気がします。高齢者を担う負担を若い世代に回すだけでなく、同世代人同士の互助の仕組みになるのではないでしょうか。





コメント
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