日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

目の極楽、そして雑文。

2007-12-27 13:14:32 | 私の雑感あれこれ
ため池があって、その向こうの丘陵に家々が、林がつらなり、その林の梢の上に、熟柿色の朝のお日様・・・目の極楽です。

最寄の神社で頭を下げて戻ってくるのですが(中断していたウォーキング始めました)、神社の賽銭箱のところにある、あのカランカランとならす房、下方についている8角の白木のおもしに目がいく。
いつもと違う、と手にとってまじまじ。
8つの面の文字の色艶が真新しい。
前面に朱で「奉納」、その傍らの面には、個人名が各面にひとつづつ並んでいる。
背面は、月日。で19年12月、とある。
なーんだ、やっぱり新しいのだ。
だから、妙にこの掘り込まれた名前の墨色のいろつやがいい。
6つの名前。還暦を迎えて、これからの家内安全とか、無病息災を祈念しての寄進なのだろうか、なんて勝手に想像を膨らませたりも…。

でも、真正面で、誰もが房を振るときに触れるその場所に、寄進者の個人名を刻もうとするなんて、姑息な…、と思わなくもないが、
別に、いいんだろうな、これで。
こんな風に、氏神様に寄進することで、心安らぎ、氏神様も維持できていくのだから。
そういえば、私は例年12月に、1年つつがなく送れたことを感謝して、ある組織に寄進(笑い、寄付)してきたものを、実は今年は見送った。
その組織のボランティアに加わって2年足らず。
で、組織の全体像もわかってくる。
なんだか賛助会費と寄付金合計の7割余りが職員専従者の給料分らしくて(今までは資料が送られてきても、詳しくは目を通さなかった)、今年は二の足を踏んでしまった。
納得できる寄付するのも難しい。
あー、だから神社の場合、これに使いましたよって、記名までしてあるのかしら(笑い)。
勿論、そこまでの必要はないけれど、発展途上国にかかわる援助のつもりが、給与ではねー。


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扶養控除、配偶者控除がなくなる・・・。

2007-12-26 15:55:41 | 社会問題
民主党の税制案。
但し、老人の控除はあるようです。
その替わりに、子供手当を一人につき○円、という形で給付するという。

ねじれ国会だから、政府自民党も参議院での多数党である民主党案に耳を傾けざるを得ない、状況でしょう。

世の中、少しずつ、変わるのですね。
「子供は扶養してもらう」のではなく、「育つための費用を国家が助ける」に替わるのは、大きい。
子供一人につき年間38万円の扶養控除だと、仮に20%課税で7.6万円の減税。
7.6万円では1年間の食費どころではなく、子供が多ければ多いほど、経済的負担が大きいのは明らか。
ましてや、低所得で給与所得者控除や本人の基礎控除等で、課税割合が5%や、非課税の家庭に於いては、メリットが殆どなくなる仕組みなのです。
だからといって、子供に必要な費用をカットすることは困難です。

で、配偶者控除もなくなる。
これも、控除になるならないの限界が、年間収入103万円。この枠内で働くという不自然な働き方を見聞きします。少しオーバーして、この特典を失うのはもったいない(損)、ということでしょう。

さっぱりと、その線引きも取り払って、子育てや障害者の世話で負担がかかるのであれば、負担を必要とする人(子供、障害者、高齢者)に支給する、それが筋だと思うから、民主党の案はすっきりしている、と思う。

これは、敗戦後の1945年に女性に参政権が与えられたことに次ぐほどの、抜本的な仕組みの見直し、そんな気さえします。
すべての女性に有利(得)ではないから、微妙に思う人もいるだろうけれど。
20代、30代のこれから子育てしようとする若い家族、子育て真っ最中の家族、そして働いて頑張っていこうとしている女性たちに、納得いくルールのように思う。

勿論、そんなにすんなり通るとは思わないけれど、参院選の結果があるから、テーブルに載ることもある、耳を傾けてもらうこともできる、
今は、そこまで来たのだと思います。

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C型肝炎は国が補償する形で大きく前進

2007-12-26 08:12:00 | 社会問題
なんだか福田首相の支持率を何とか上げたい、これ以上不人気になっては自民党政権が持たない…、そんな思惑が見え隠れする中での、政治判断がなされた。
で、支持率、そんなに上がるだろうか。
そこは疑問。

20年以上も前のことですが、ある本(多分犬養道子さんの「乾く大地」だったような…)で、ネスレ社(日本ではコーヒーのネッスルで知られている。スイスが発祥のグローバル企業)がアフリカに有害とされた物質を含んだ粉ミルクを輸出していたという問題を読んだことがあります。
そのときは、勿論なんと酷い会社と思いはしましたが、先進国とアフリカの間での話として、私は知識として知った一読者の立場でした。
考えてみれば、その頃、日本もアフリカと同じ立場にいたのですね。
フィブリノゲンという薬がアメリカで禁止されたのが76年頃だとか、で、その後10年以上に亙って、日本はアメリカから輸入し続けたと聞きました。
日本側の輸入会社は、戦争中に旧満州で生物兵器を作る任務を遂行していた部隊の流れをくむ会社とも聞きます。
自分の国で、薬害のため危険として使用禁止しているにも関わらず、売り続けた会社への責任は問わないのでしょうか。
国策の流れをくむ会社の責任はどうなるのでしょうか。
アメリカでの情報をキャッチしないで、害が発生することを知らなかったとしてきたのなら、その行政の関係官庁は役割を怠ってきたのではないでしょうか。

「補償します」というのは、国民の税金で負担します、ということです。
国の支出は税金で賄われるのだから、それは当然なのですが、このような事態を発生させた責任の追求もして欲しい、そう思います。

ネスレ社の話題を他人事、と思っていたら、現実に自分の国でも同様のことがあったわけですから、今現在も、知らないところで不作為による危害が浸潤しているかもしれません。
厚生労働省はしっかり機能して欲しいものです。
それにしても、「強くなるとやさしくできる」と思っていたのですが、強いアメリカは、民主主義だけでなく、薬害をも平然と輸出するのですね。

 ***以下NGO「グローバル・ビレッジ」から引用***

ネスレ(スイス)
発展途上国での粉ミルク使用による乳児死亡増加

不衛生な水しか利用できない、哺乳瓶消毒の指導が行き届いていないなどの問題があるにも関わらず、開発途上国で粉ミルクの過大な宣伝を行った結果、乳児死亡が激増しました。さらに粉ミルク自体にも有害物質が混入していることが分かり、1970年代末からネスレ製品の世界的な不買運動に発展しました。



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第四コーナーではなく、三角コーナー。

2007-12-25 12:18:00 | 私の雑感あれこれ
どこの家にもある台所のシンク(洗い場)の隅の三角コーナー。
料理作りは、食い意地が張っているタイプなので、嫌いではないけれど、片付け下手で、三角コーナーをきれいにしておくことがなかなかできない。

そこがきれいでないことは、よくないこと、自慢にはならないこと、と百も承知だったけれど、ついつい…、でウン十年。
実家の台所の三角コーナーはいつもピカピカであることは知っているし…、でも、でも、働いているんだから…、とこれまで自分を許してきました。

で、先日、娘が帰省。
夕方仕事から帰ったら、ピッカピカ!
え!
実は、先日娘も帰省することだし…、と思ってタワシでゴシゴシはしたのだけれど、長年の(?)染みつきまでは、諦めていたのに…?

「ワタシ、食器洗いのときに、コレ(三角コーナー)も食器の一つだと思って最後に洗っているの。そうすればいいよ」

むーん。今、目の前のピカピカ三角コーナーだったら、食器のひとつと思えなくもない。
よし、頑張ってみう。
口にはださなかったけれど、娘のセリフを反芻してみました。

ずっと共働きでカギっ子として育った娘が、片付け下手の母親を助けようとしてくれるまでに育ったこと――
これが今年私が受け取ったクリスマスプレゼントかも知れません。
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葉物野菜が安い!そして・・・。

2007-12-17 15:44:43 | 私の雑感あれこれ
スーパーの野菜コーナーで、ふさふさと育った見事なサニーレタスが128円。
うーん、立派!
我が家の冷蔵庫の中の到来物の生ハムが目に浮かぶ。
この緑鮮やかなヒラヒラと波打ち縮れたレタスと合わせると、サラダの盛り付けもデラックスに、と思うけれど、ためらっている私。
実は、我が家の菜園にも、サニーレタスがある。
ただし、夫がいろんな野菜との混栽の実験中ということで、現状は超元気な「からし菜」と「ワケギ」に挟まれて日陰の身。で、色も葉肉も薄い。
商業ベースではない、促成栽培も抑制栽培もしない自然野菜を見慣れてくると、スーパーの優等生野菜君たちに、「ちょっと違うんでない?」と内心で声をかけている(笑い)。
で、買わないで帰る。
そういえば、生食のサラダ用青物として、庭にコンポストの堆肥を肥料として育っている「チシャ」(韓国料理で肉を巻いて食べる野菜)がある。
大き目のものを間引いて、その日のサラダとして食卓へ登場。
でも、密集していて細かいチビちゃんが殆どで、このままでは太陽の光は浴びているものの、寒空に大きく育ちそうもない。
で、これに何とかがんばってもらおうと、一鉢分を移植して、先日作った温室へ移動。寒風を避けられる分だけ早く育って欲しいものだ。

まー、野菜に関しては、あるものを食べている、というと育てている人に申し訳ないけれど、次々と実ってくる野菜は、季節感そのものです。

日曜日に取れたジャガイモ。
初めて見ました。
こんなに大きいの!
本に載っていたジャガイモ名人の作り方に習ったということですが、「あり?」と思うほど大きいのです。
計って見ました。普通大で200グラム。それが500グラム700グラムがごろごろあるのです。
5株だけの初収穫とのことですが、4畝あるそうで、これからどうなるでしょう。
ご近所に、友人に配ることになるのだろうな。
ほんと、ここまで大きいと、笑えてしまいます。

へなへなレタスに、横綱ジャガイモ。
どれもスーパーに並ばないことは確かです。
ふふふ。











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「風の果て」藤沢周平著を読んでいる。

2007-12-16 09:38:56 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
「風の果て」先々週までNHKでやっていたドラマの原作です。
藤沢作品は蝉しぐれ雨あがれたそがれ清兵衛など、映像では見ていても、活字で時代物はちょっとといったタイプだったこともあり活字本は初めて(少し前に読んだ、辻原登「夢からの手紙」は面白かった)。
今でいえば中学生にあたる年頃に、片貝道場で知りあった仲間5人の物語。
年の頃14、15の少年は、いつの時代も共通している。
そう思う。
でも、ひとは自分の生きている時代の枠に大きく制約されているのだとも、思う。
いそぐことなく江戸時代の財政難の藩体制の仕組みが語られていく。
武士であっても上士、下士に身分はきちんと別れおり、家督を継ぐのは長男だけ。家督には定まった禄高があり、分散するわけにはいかない、という筋。
次男、三男は、身分相応の婿養子の口があって初めて将来の目途がつく、という。
婿養子の口が見つからないと、ゆくゆくは「厄介叔父」という立場になって、片身小さく暮らすことになるらしい。
上村隼太は下士の次男。家督を継いだ兄に子どもが生まれると、隼太は「厄介叔父」の扱いで、食事も下女と台所で、という慣わし、これがその時代のルールだという。
そこで、厄介叔父の次男、三男は、女中と床を同じくすることはOK。ただし、「子どもが産まれても、すべて間引く」、これがしきたり、という。
生産高が低い時代に考え出した「知恵」だと、思いやるしかないのだけれど、たかだか今から150年か200年前の暮らしの基準(ルール)を目の前に書き記されると、のけぞってしまいたくなるような厳しさをおもう。
私達の先輩(先祖)はその時代を生きのびてきたのだと、そう思うと感慨深い。

次男、三男にとってどんな婿の口がかかるかが一生を決める、のだけれど、下士に上士の口があるはずもなし…、
部屋住みとも言われる、成長期の下級武士の次男三男の思い、財政難の藩の権力争い、藤沢さんが沢山の資料調査の上に書き上げられたであろう作品は、5人の若者をさもありなん、という姿で描いているものだから、読み手もごく自然で、同じ時代をさも承知しているかのように、ひとの動きに頷いてしまう。

時代の仕組みがことなり、生きていく生活のルールの制約も異なるのに、
彼らも、自分のそれぞれの夢をみている。
夢を実現させようと、邁進する隼太。婿の口がなく、厄介叔父で暮らす市之丞。

2人の会話-
「俗な夢を見るものだと思うかもしれんが、郡代は舅の夢だった。それに、そこまでいけば藩政の一角に食い込むことが出来る」
「藩政だと?」
「権力に近づいて、そこで腐るのがおぬしののぞみか」

事業経営者は歴史物でも、英雄伝を好むらしい。藤沢作品は旗を打ちたて、たなびかせる人物ではなく、戸惑う人、狭間に位置する人、彼らの心の襞を、といっても、藤沢周平氏の心の襞でもあるわけだけれど、そこを通り過ぎない。
彼の作品が映画やテレビドラマ化される、多くの人が出会うことが出来る。
幸いなことだと思う。
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贈答のシーズン

2007-12-13 22:26:45 | 私の雑感あれこれ
宅急便の配達さんは大変だろうな、と思う。
この地域の人の傾向は、嵩が大きく重たいものを選ぶ傾向があるから…(笑い)。
わたし、その気持ち、判らなくもない。

もう10年ぐらいになるかしら、我が家に高級酒が届く。
下戸なので、それがどれくらいおいしいく、値打ちのあるものか、私にはわからない。
多分、贈り主も自分では飲んだことないだろうな、と思う。
自分用には買ったこともない贅沢なものを、贈ろうと思って選んでくれている、そのことに感慨を覚えます。

10ほど前のことです。
その夫婦は20年間以上、住所を明らかにせず日中もカーテンを締め切ったまま暮らしていたそうです。
ある日、もう大丈夫かと思って、住民票を現在の居所に移しました。
途端に、次々とサラ金の督促状が舞い込んで、恐れをなしました。
奥さんは取立てに人が来るかと、日中家にいるのが怖くて、公園で時間が過ぎるのを待ったそうです。

夫婦は年金受給年齢に達しています。
が、仕事をやめて住所を隠す原因になった貸し金業者のひとりに、年金手帳や振込み口座の通帳、印鑑すべてを取り上げられているため、諦めていました。

20年以上の隠遁生活ですから、債務(借金)に対しては、督促が来るたびに消滅時効を主張しました。
そして、奪われた年金関係書類は、その後誰かが口座を通して受取っているのだろうか、それを調べてみました。
幸い、夫は公務員だったことから、勤務地所属等から状況調査できました。
そのまま放置されて、誰も受取っていなかったのです。
早速、遡っての受給の手続きをしたのは言うまでもありません。
残念ながら、こちらにも時効があって5年分しか受取れませんでしたが、1000万円に近い金額でした。
そして今後は、一般の皆さんと同様に偶数月に受取れるのです。
今までの、カーテン閉めっぱなしの生活に終止符です。
奥さん、会うたびにふっくら、にこやかになりました。
もう、督促もなくなって、お会いすることもなくなりました。

で、以来、年に2回高級酒が届くのです。
ずっと、年金も望めないと諦め、おどおどした暮らしをしてきたご夫婦です。
自分用には買ったことない(我が家でも、ここまで高いのは買わない)ものを、贈ってくださるのです。
お二人の役に立てたことが、何年経ってもこんな形で届く、普段は忘れているのですが、お礼状を書きながら、よかったなと思う一瞬が年に2度あるのです。

※ 債務のきっかけは、頼まれて借金、頼まれて保証人、それらが雪達磨式に増えた結果の惨状の20年あまりだったそうです。





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「こんなときは」の話。

2007-12-10 14:12:29 | 私の雑感あれこれ
もうひとつ、山行きの話を書こうと思っていたのだけれど、昨日の忘年会で、えらく(こちらの訛りで「すごく」の意)感謝されたので、役に立つかと思い、書きます。

身内、その友人は伴侶をなくされたことからの、電話相談でした。
というか余命がカウントダウンになった頃から、まわりからの忠告がアレコレあったりして(死亡してからは名義変更しにくいから、今のうちに…、なんて世知辛い話も行き交うそうです)、パニクッていたところも見受けられた彼女でした。

子供の大学受験シーズンでの父親の死亡だったことから、あれこれなすべき手続きがいっぱいです。
まず、伝えたこと。
相続人間で争いが起きそうかどうか。
母子で争いが起きることも無いのであれば、なにも心配することは無い。
まず、ノートを用意し、
財産目録として、
不動産、預貯金、保険金、と、書き上げていってごらん。
漏れていれば後から追加すればよい。
ただ頭の中でカウントするのではなく、
「ノートに記すこと」

しなくてはならない手続きについても
「ノートに記すこと」
そのために揃える必要がある書類(戸籍や住民票、所得証明etc)も、ノートに列記したらいいよ。
手続きが済んだら、そのことも記すこと。
何が揃って、何が不足しているか。
どの書類が揃えるのに時間がかかるか、
そんなことが、見えてくるから。
頭の中で理解していても、何種類もの手続きが同時進行していると混乱するからね。

ついでに、電話で問い合わせなどをしたときは、
どこ(役所・会社)の誰にいつ、何を問い合わせて、どんな内容の回答があったかもメモしておくと、再電話するときに役立つから。

そんなような忠告をしていました。

あれから10ヶ月がたったそうです。
「夫を失った、あの空洞のなかにいるような感覚は、味わってみなければ判らない」といいながら、
大学ノートに整理したことは、すごく助かった、と何度もお礼を言われました。

そう、不動産の遺産分割協議についても、あのとき教えてもらったとおり、特別代理人選任の必要が無くなる、今未成年の息子がハタチになってからする予定だとも聞きました。
大学入学の授業料減免の手続きに必要な書類、「こんなに早く不備もなく揃えた人は珍しい」と大学の事務局に言われた、とか。

ー得意分野で役に立つー
たまたま昨晩聞こえてきた話です。

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本日読書会 課題図書「剣岳・点の記」新田次郎著

2007-12-07 09:52:33 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
課題図書の採択、無作為の感がないでもない(笑い)。
今回は「剣岳・点の記」。
昭和52年出版の初版本で読んでいる。
新田次郎が、小説を書くにあたって64歳で剣岳登頂を含めて、現地取材をなさっている。
測量官柴崎芳太郎チームが明治40年(?)の剣岳に初登頂にいたるまでを記してある。
小説ではあるけれど、記録文学ってこんなものなのかと思うほど、物語としての遊びを排し、山頂を目指しての詳細を記すことに丁寧。
地図の作成が軍務として軍人の仕事だったものが、ようやく文官も加わるようになったという時代。
この頃に、いわゆる獲物を求めたり、服務のためではなく「ただ山に登る」事を目的とした、「山岳会」がようやく産声を上げ始めた時代でもあったことが書かれています。
柴崎芳太郎と彼の周りに配された長次郎をはじめとしてた山登りの達人達、山岳会の小島烏水の取り上げ方が、そぎ落とされた表現で語られるているところに、作者の品格を感じました。その息子藤原正彦氏のベストセラー「国家の品格」は読んでいないけれど、この本に「品格」を思うのだから不思議です。

さて、丁寧に記されている記述、各所の地名を読みながら、
(…山に関心がない人には、退屈かな、とも思ったけれど)
実は、私にとっては、幾分故郷の匂いを感じながらの読書でした。
富山県は18歳まで暮らしたところです。
高校1年の夏休みに、実は剣岳登山を経験しました。
この本が書かれる前、新田次郎が剣岳に取材登山する前の、昭和40年の夏です。

私が登ったときも、天候がよくはありませんでした。
その地域では進学校ということもあり、女生徒が少ない学校でした。
で、夏休みの企画として、女生徒をメーンとした(といっても男子もOKです)「剣岳登山」がありました。
引率は、化学の木田先生、体育の花岡先生、ほかもいらしたかもしれませんが、覚えているのはその二人です。
女子生徒に山行きの誘い声をかけたのは、故郷の山に、男子生徒はこれからも登る機会があるかもしれないけれど、女性にとってはそれが少ないだろうから、…そんな配慮からだと、耳にしていました。
今、古いアルバムを引っ張り出して見ました。
剣沢小屋(?)の前で、記念写真風に揃って写っている頭数は40名を超えています。
すごーい大所帯だったことがわかります。
その全員が雨具姿。今のような装備ではありません。アノラックやポンチョ姿です。
覚えています。靴は運動用のズック靴でした。そりゃ、何人かは登山靴の人もいたでしょう。
でも私はズック靴。そしてそれは特別のことではなく、周りの仲間も同様でした。
この件では、困った記憶があります。
雨に降られて(行程の半分は雨だったような記憶)、靴下もビチョビチョ。翌日の出発時まで、古新聞をズックに詰めて、ストーブの熱にもあぶり、湿り気をとろうと必死でした。
それでも靴は乾きません。
履き替えの靴下はあっても濡れた靴では、すぐ湿って冷たくなります。
誰が思いついたのか・・・、多分こんなこと考えるのは私(笑い)。
靴下の上からビニール袋を履いて足首を輪ゴムで止めました。
いずれは湿ってくるだろうけれど、濡れ鼠になった昨日よりも、少しでも快適さを保ちたかったのです。
加えて覚えているのは、ガスがかかっていて、周りは見えないのに、目の前に直立しているかの岸壁を鎖につかまって、登っていったこと。
カニノヨコバイで、これは、一足ひとあし、岩の節目に足をかけながら横に進んでいくのですが、背の低い人が、次の足場に「足が届かなーい」と困り声を上げたとき、花岡先生が、さっと岩場のその場に駆けつけ、彼女の足の置き場を、一歩いっぽ、指示したこと。
こんなに怖い場所でも、熟練者には余裕で加勢できるんだと、感心した覚えがあります。花岡先生がピッケルを足下にして、スキーのように雪渓を滑って見せたことも覚えています。夏の雪渓は、去年の雪がそのまま凍って残っている箇所です。雨も降っています。氷は雨に濡れて、表面ツルツルで、今にも足を奪われてしまいそうで、怖い思いで、渡りきったものです。
こんな具合で、女性が多い、そのチームは剣岳を目指したのですが、途中で2回ほど、待機組みが出たように覚えています。
で、待機組みに入らずに、頂上までたどり着いたものは10名ほど。
眺望はまったくなく、新田次郎氏の取材時にもあった、小さな祠があったことを覚えています。
2泊3日の山行き。
暗くて狭い、お風呂に入ったこと、硫黄の匂いが強かったことも記憶にあります。
思えば、生徒は16歳、引率の先生は30代、40代だったでしょう。

16歳の私が50代後半になっても、あの2泊3日の山行きを思い返すことができます。
当時は、その経験がこんな風に思い返すことになるとは、考えもしない少女です。
今思うと、山行きを呼びかけ、力を貸してくださった、先生方に感謝です。
先生達は70代、80代、すでに鬼籍かもしれません。
こんな風に、ささやかな一つ一つの局面で、ゆずり葉のごとく、次の世代に力を貸して、育てていくのだと、つくづく思います。
さて、私は、だれかに力を貸したことはあっただろうか。
そんなことは、たずねても答えが帰ってくるものではありません。
ただ、これまでに受けた力添えに感謝し、今日からも誰かの力になれたら、と、欲張りだから、そんな風にまだ思っています(笑い)。









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仕事の中での、これも喜び。

2007-12-04 13:28:59 | 私の雑感あれこれ
殆どデスクワーク。
書面作りもあるけれど、電話での対応も多い。

電話では面識の無い人と話すことも多い。
相手の立場を確認し、話し出す。
声の調子から、相手も仕事としての電話の場合。
そうでない場合。
どのように話し始め、どの程度の丁寧さで話を進めればいいか。
相手と自分の立ち場を理解し、相手に理解させ…、と咄嗟にいろんな判断が錯綜し、取捨選択。
いちいち感慨があるわけではないけれど、滑らかに相手に趣旨が伝わったときは、
少し、いい気分。

ささやかな事柄についてであっても、声が一段明るくなって、「よくわかりました」(了解という場合もあり、理解という意味もあるけれど)と、聞こえてきたときは、・・・嬉しく感じる、そんな癖がある。

電話をするときは、適格に速やかに。
そんな癖も当然あるから、
今の季節
宅急便やら、郵便局の不在連絡票のことで電話するとき、
私の場合こうなる。
仕事から帰宅した、気ぜわしいときでもあるので、
まず、
「手元に○○を持っています。必要事項を順にいいますね」
といって、読み上げてしまう。

味気なくもあるけれど、相手方も確認したいことは決まっていて、手短なほうが便利だろうと、つい考えてしまうものだから。

これって、仕事からくる癖、なのか、せっかちなだけなのか。




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