日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

ちっちぇーなー俺(わたし)

2005-04-28 07:17:46 | その他
そんな台詞を吐くテレビコマーシャルがあるそうな(今朝の朝日新聞コラムにあったが、テレビでは見ていない)。
先日、お昼直前に本格的な雨が降り出し、昼食のためにお店に入ろうとした時、10数本が入ろうかという傘立てに、1本も傘は入っていない。
「急な雨だから、もってない人がいるのは当然だけど、まったく皆 傘どうしているんだろう」
「こんな雨だし、食事後出る時、なくなるのでは」
「たいして値の張る傘じゃあないから、なくなってもよし、ここ(お店のドアの外にある傘立)に置こうか」
「少ししか歩いていないから、しずくのことを少し配慮してもって入ろうか」
と、瞬時にあれこれ考えて、
結果、傘は座席の横に。
隣の座席のOLさん二人も同じ行動。
「ほらね」と思う。
連れに話すと、「傘立てに置くべきだという」、傘立てがあるのに持ってはいるのは良くないという。
夕方まで引き続き雨降りかもしれないし、こんな安価な傘、なくなって惜しいというより、誰かさんが失敬しやすい傘だとか、
すごい雨降りの日、本屋さんの傘立てで傘なくなったこと思い出しながら、あれこれ思うところが、「ちっちぇーなー私」である。
 
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反日デモを考える。

2005-04-23 16:14:23 | 社会問題
中国で4年間の大学生活を送っり、今日本で暮らしている人が昨今の反日デモのニュースに、
「中国の大学生のデモは、大学から集合場所や時間などの指示で行動しているんだよ」「みんなと別の行動をとることは、難しい。成績評価にも影響するし…」との話。留学生である外国人は行かなくてもいいんだとのこと。
このたびの反日デモが3、4年前のデモと同じではないかもしれない。しかし、中国では学生デモがこのような形で学生を動員することがあったという話。

1990年頃中国残留孤児への日本語教育に少しばかり顔を出していた関係で、日本の大学院への留学希望の医学研究者に留学の紹介をしたことがある。
晴れて大学院入学が決まり、彼が日本で暮らし始めてから案内したところが日本の裁判所(なんと私メの頭でっかちな。なんと無粋なと思われたかも)。
裁判所からの帰り道、「日本は、相手が国であっても違法であれば訴えられることがあるんですよ」と話し、新聞社の前では、「事実であれば、国政を非難する記事が載ることもあるんです」と話したことを覚えている。
日本で天安門事件に反対するデモに中国人留学生が参加し、それが日本のテレビに映っただけで、帰国を恐れる留学生がいた頃からそう月日が経っていないから、理系の研究者志望の彼は「ほぉー、そうですか、中国はそうではないです…」と答えただけだったけれど。

政府のあり方、罰則の仕方など違うところがたくさんある国の表面に現れた反日デモを理解するのは根の深いとこるまで、探らないと真実には行き当たらないように思われる。
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映画「コーラス」を観る

2005-04-22 12:46:39 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
映画「コーラス」を観た。フランスで2004年もっとも観客動員数が多かったらしい。
日本では今月封切。

映画評どおり、ボーイソプラノの響きに引き込まれてしまう。
第二次大戦後1949年のフランス。寄宿舎生活の26人の少年達。素行が悪かったり、親に育てられない事情があったりで、校長の強権発動、体罰横行の荒れた学校に不遇な音楽教師(マチュー)が舎監として赴任するところから物語りは始まる。
悪質ないたずらと体罰が繰り返される寄宿舎学校の少年たちがマチューの熱意で合唱隊に育つうちに、荒れる心が和らいでいくという話。
悪の代表格だったモランジュのボーイソプラノのソロもコーラスも見事。最後は、音楽教師は不審火による火事の責任をとらされ解雇。学校を去っていくところで映画は終わる。

マチューが赴任のため寄宿舎に行くと門扉にしがみつくように外を眺めている幼い少年ペピノ。
「親が面会に来るのを待っている」という。
両親は戦争の犠牲者となり、すでに会いに来ることはないと伝えても、ペピノは決してそれを受け容れようとはしない。「土曜日に来る」と信じてペピノは門扉にしがみついている。
寄宿学校生活の暴力が吹き荒れる中にあって、安らぎは門の外からやってくると信じて待つことが唯一つの心の支えだったのだろう。
マチューが解雇され、子供達との別れの挨拶も禁じられ学校を去るとき、窓から紙飛行機が舞う。マチューが拾った紙飛行機には別れのメッセージ。飛行機の数はどんどん増え、見上げると窓から子供達の振る手がたくさん見える。(マチューは紙飛行機5,6枚拾ったけど、私だったら一枚残さず拾うだろうなー、そうすると絵にならないだろうけど)
手はたくさん見えるけれども、窓が高いから姿は見ることは出来ない。手だけがいつまでも別れの挨拶を送っている。
バスに乗ろうとした時、「僕も連れて行って」と幼い少年ペピノは叫ぶ。一度は「学校へ帰りなさい」とは言うものの、いつまでも去らないペピノに、動き出したバスは止まる。
マチューはペピノを抱えるようにバスに乗せ物語は終わる。
その日は土曜日。やっぱりペピノが待っていたものは土曜日にやって来たと。
ひとり学校を飛び出して追いかけた幼いペピノはしっかりと選択している、自分を守ってくれると人は誰かと。

持ち物は小さなカバンの楽譜だけという不遇のマチュー。やったらやり返すという殺伐とした思考しか育つことのない寄宿学校の荒れた少年達。
双方の出会いによって、少年達は素晴らしい歌と歌ったという体験を持つことができ、マチューにとっても宝物となったに違いない。
時代遅れのくたびれた衣装で飛び回る少年達の画面を国境を越えて多くの人が感動するのだから、映画ってすごいし、人っていいものですね。









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事後報告(本のこと)など

2005-04-20 22:34:17 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
母に「鶴見祐輔の本」のことを尋ねたら
「いい本だったよね。いい話だった。息子の名前はススムだったね」と、覚えていたものの
「近頃目にしていない。もう何十年も前に人に貸して戻ってこなくなったのじゃないかな」ということで、残念。
戦前のリベラリストの男性が家族をテーマに書いた本だったと思うと、なおさら読みたかった。
小説の中味はまったくの創作物かどうかも殆ど覚えていないのだけれど、鶴見祐輔氏のまなざしを辿りたく思っていた。

戦前の教育を受けた亡神谷美恵子さん、犬飼道子さんらを育まれた父親像はどうだったのだろうと思う。
さかのぼって、7歳の娘をアメリカ行きの船に乗せた津田梅子さんのお父さんのことも。

「そんなこと知ってどうする」と声が返ってきそうだけど。

そして、私が暮らす周りでは
「男の人って仕事で夜遅いでしょう。疲れているのだから(その他のことを)期待しちゃあ無理よ」とう現実。
家庭や子供のことは女性(母親)達が殆どを任され、家庭の母親が最終教育機関に入学するまでは受験勉強優先で、その後は男性と女性の役割を区分する考え方で子供に接するのが主流のように見受けられる。
それほど父親は忙しいのか。

そんな気持ちもあったから、前述の本を読んでみたかった(しつこいね。笑)。
そして、私には自分がそうではないくせに、志強く生きた人たち、育った人たちのの姿を、時代を超えてでも、そして遠目にでも、眺めてみたいという、幼い心が残っている。







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「母」と「子」

2005-04-20 06:44:45 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
遠い記憶。
大人用の本を始めて読んだのは、母が手渡した本あの2冊だったような気がする。
「母」と「子」。
著者鶴見祐輔。布張りでそれなりに分厚かったのに価格50銭とあったので、随分昔の本だなと思ったことを覚えている。
母が結婚前に読んだ本だろう。
娘が生まれてから、これらの本を読める年になるまで待っていたのだろうか。
その時私は中学生。
一気に読んだことは覚えているが、中味の記憶がない。
昨日、著者のことをネットで検索してみた。
社会学者鶴見和子さん、哲学者鶴見俊輔さんの父で学者、政治家、文筆家、そしてリベラリスト。
鶴見俊輔さんも既に高齢で、そのお父様だから私達の世代では知っている人も限られるだろう。

(少年鶴見俊輔さんの悪童ぶりをご自分で書かれたものは読んだこともあるけれど…)
(高齢の鶴見和子さん曰く私の時代の学者は、欧米の学問の翻訳をし紹介するのがおもな仕事だったと…)

そんなお二人を育てられた方、戦前のリベラリストの方が書いたというその2冊。
子供が巣立った今、もう一度読んでみたくなった。
明日電話で母に尋ねてみよう「あの本はあるかと」
母88歳。
私が少女のころに贈った詩集をまだ自分の部屋の本箱に持っていたから、きっと持ち続けているに違いない。

ちなみにネットでは「子」2,000とあった。古書価格なのだろうか。あの時の本には50銭と書いてあったのに。




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遠い国フランスで

2005-04-19 07:37:53 | 私の雑感あれこれ
「自由に生きる」-フランスを揺るがすムスリムの女たち-(ルーブナ・メリアンヌ著)を読んでいる。
著者はモロッコ移民2世、自分の暮らす街区社会(モロッコ移民らのイスラム社会)、その社会の外側のゴーロワ(フランス白人)社会が、モロッコ系フランス人女性であることで当然のごとく制約される現実を打ち砕こうと解放を求めて高校生(リセアン)運動を起こしていく過程が書かれている。

遠い国の話である。
ほんの数日しか歩いたことはないけれど、パリの街には「人種の坩堝」ってこういうことを言うのだなという印象が残っている。
地下鉄で合席になったりすると、アジア人の顔をした自分はどう見えているのだろうと最初は緊張したり。「そうなんだ、世界の都会ってのはこういう風に、人を受け容れるのだ」と、翌日からはさも常連のように地下鉄の改札を通ったり(無理しちゃって、笑い)。
通りすがりの観光客には何にも判らないけれど、白人の国に暮らす有色人種は大変なんだろうなと、さらにフランスで生まれた2世3世は…。
目の前の座席では若者が分厚いマンデラ大統領の本を黙々と読んでいた(勿論中味はフランス語で判らないけど、表紙の写真とマンデラの文字だけは読めた)。
アラブ系、アフリカ系、アジア系もゴーロワと混在して暮らす社会。
遠い国の話。
そんな街もあると
旅をすることで肌で少しわかる。
そして本を読むと少し知ることができる。

偶然NHKの世界遺産を尋ねる旅でモロッコの特集があった。
年頃になると男性と道を歩いては噂になる。立ち話をしても「売女」とののしられる、ただ忍従を求められるとメリアンヌが書くイスラムは映像には出てこない。
歴史的世界遺産の取材は負の遺産の取材まで映像化困難なのだろう。


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お堀の向こう側からのメッセージ

2005-04-18 22:18:09 | 私の雑感あれこれ
去年社会人になったばかりの娘と勤め先の建物をぐるりと一回りしてから、葉桜の官庁街を抜け皇居のお堀を歩いたのは丁度今ごろだった。
4月中旬春爛漫、お堀端には小さな花が咲き誇り見事な景観が目の前に広がっていた。
2月にパリロンドンの母娘旅をしたばかりだったこともあり、娘は「皇居は宮殿でしょ。日本の宮殿もすごいね。ベルサイユやバッキンガムとは違った風格だね。すごーい」と言いながら、沢山の人が行き交う皇居前広場まで歩いた。

今日の新聞に皇居にお住まいの紀宮さまの誕生日を伝える記事があった。
結婚を控えて皇女としての最後の誕生日と言うこともあってか、例年より紙面が広い。
宮様の回答文書の中は、母親を気遣う思い出溢れている。
「皇后さまは耐えがたいお疲れとお悲しみの中で…
誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすら生きておられた…
皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、誰に頼ることなくご自身で癒されるしかないものであったと思いますし…」と。

なんと切々と母親を語られるのだろう。暖かい家庭と伝えながら、(皇后さまは)未だに癒えない痛みも持っておられるのではないかと察する娘心。

皇后さまの言葉として「誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互い認め合いながら、懐かしみあい、励ましあっていくことができれば…」と引用なさっている。

お堀の向こうの松の林に囲まれた宮殿から発せられた母を思う女宮様のメッセージが新聞に載った。
古来宮殿からのメッセージがどんなものなのかは知らないが、日本の女宮様のメッセージは心にしみる。




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黄色い帽子

2005-04-18 07:14:29 | 子育ての周辺
4月は真新しい黄色い帽子が目に付く季節。
お昼の休憩で外へ出た時に、ぴかぴかのランドセルを背負った黄色い帽子姿を見るとドキッとしたものだ。
「ただいま」「お帰り」という言葉が飛び交っているのだろうなと想像しながら、ひとりカギを開けている娘を思っていた。
「私はね、毎日家に帰ると大きい声で『ただいまー』って言うんだよ。そうすると、もし泥棒がいたとしても、逃げていってくれるかと思って」と、ぽつんと言ったのは鍵っ子になってから3年目の頃。
判っていても誰もいない家に帰る寂しさ、不安。普通に暮らしていると親はうっかりしていても、当人にとっては毎日のことだったのだ。
土砂降りの雨に濡れて帰った時、近所の娘の友達のお母さんが、「うちの娘のもので着替えさせたけど、あれだけ濡れてちゃ、1年生自分で着替えられないね」と、「どんなに濡れていたか絞らないで置いた『ほらっ!』」でも、その目は暖かかった。
風邪で学校を休んでも家でひとり寝かせて出勤。電話の呼び出し音3回鳴らすとお母さん。どの子供ともそう取り決めて、他からの電話と区別した。

黄色い帽子にドキッとしなくなってもう大分になる。
今も当時の私と同じような思いの母親達はいるんだろうなと思う。
そんな時期も遠い昔となって子供らは巣立っていった。
今、大変の最中にいるお母さんになにか出来ることはないだろうかと考える。
頑張っているお母さんを暖かく眺めていること。
応援を頼まれると勿論出来る範囲で引き受けたい。声をかけてください(但し週日は仕事で地元にはいないから無理かな)。
子供が大学生になった頃、濡れた下着の件でうれしかったことを話題にしたら、手助けしてくれた彼女すっかり忘れていました。彼女も自宅隣接の事務所で仕事をしている税理士さん。
「いっちゃあなんだけど、お宅は共働きなのに、子供いい子に育ったね」こんな言葉も、時には耳に入ってきます。こんな言い方では他意がなくとも、グサリです。
両方やるって、大変です。でも、両方の喜びもあるからめげないでねと、若いお母さんに伝えたい。
夫婦で育てているという自覚は勿論だけど、こまごましたこといっぱいある(あった)からね。
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今中国に観光旅行に行くこと

2005-04-17 10:59:15 | 私の雑感あれこれ
連日中国での反日デモが報じられている。
間近のゴールデンウィークに中国観光旅行を楽しみにしている人たちも多いと思います。
国を越えて旅行をするのは楽しみも格別だとおもいます。
旅行会社へ申し込みは簡便化され手軽になってきています。
相手国との関係が穏便であれば、それでなんら問題がないかもしれません。
しかし、今の時期中国との間では、「デモが…」「投石が…」と、報道されています。
もしあなたが今渡航するのだとすれば、そんな場所に出向くのです。
「それでも行かなくてはならない用件があるのか。」
「デモや投石の現状に紛れ込む可能性を了解しているのか。」
と、自分に問うていただきたい。
事故に遭遇した時
「旅行会社が大丈夫と言ったから」とか、
「国が渡航を止めていないから」というのは理由にならない。
自分の判断力で選択するというのはこういうときだと思います。
それでも行く必要があるのであれば、自分の責任で出かけて欲しいと思います。
「イラクの戦場へ行った青年達とは程度が違う」ではなく、「自分の身は自分で守る」という基本スタンスを取るべきだと思います。
国も渡航禁止とまでは行かないにしても、観光旅行などについては現状を踏まえての行動をとのメッセージを出すべきではないでしょうか。
だって、中国は暴動の責任は自分の国にない(日本に原因がある)といっているのが現状なのですから。

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ラオスの凱旋門

2005-04-17 09:54:26 | 私の雑感あれこれ
卒業旅行にひとりでラオスに行ってきた娘の見せた写真には凱旋門が写っている。
「日本にいるラオス人の友達に見せたらね」と話は続く。
その凱旋門はアメリカが作ったそうだ。
「実際の材料費はこの門10個作れるほどかかったらしい」という。
というのは「建造のための材料を用意しても、用意してもいつのまにか減っていってしまい、完成までにそれくらいかかった」という話。
その友人が言うには
「凱旋門が完成する頃には、あたりの民家がみんなきれいになっていた」とのこと。

社会主義の国ラオスは地理的にも中国とのつながりが強い。中国の援助で行われている造成工事の砂利の見張りの仕事をしていたラオスの友人と話の中で「結婚した○○がこの砂利分けてくれないかって言ってきたんだ」という話もあったという。
見張り役の彼はそんなことに応じる人ではないけれど、ラオスでは結婚したら半年は女性の家族とともに暮らし、その後男性は新居を造る慣わしがあるという。
とすると、工事用の資材が格好のねらい目になるのだろうか。
大学を出ても留学していてもラオスではやりたい仕事がない。
この国ではルールを守り建設的に暮らし達成感を味わえる道がどこにあるのだろう。

この話だけでは寂しいから、もう一つ。

日本では毎年3万人を超える人が自殺していると話した時、ラオスの友人曰く「そんなに辛かったらラオスに来て10年ほどいて、元気になって日本に帰ればいいのにね」と。
鳥インフルエンザでニワトリを失って、ウサギで生計を立てようと思うと(知人から2匹分けてもらってこれから増やす計画らしい)語りながら、みたこともない豊かな国日本の自分から命を絶つ人の数を聞いて、「ラオスに来れば…」と提案してくれる友人。

生きる楽しみを見つけるのも力なのですね。
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