日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

すっかり秋も深まりました。

2005-11-29 07:02:56 | その他
晴れた日がずっと続く晩秋。
久しぶりに昼下がり官庁街を自転車で走ると、別世界へ迷い込んだような風景。
両手では抱えきれない太さの欅並木が降り注ぐ日差しを受け、紅葉した葉っぱはこまやかな陰影を作っている。
青い空と輝く葉っぱ。
わずかな風にも、その陰影は揺らぎ、沢山の葉っぱを舞わせる。
そう、もう既に街路は舞い降りた葉っぱでいっぱい。
かさこそと音をさせながら進む。
山の秋。
里の秋。
そして街中の秋。
折をみてスケッチしたいな。
今日は忙しいけれど、週末まで間に合うだろうか。


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我が家の洗濯機物語

2005-11-27 09:48:43 | その他
今朝は勝手が違う。
篭の中の洗濯物がいつもと違う。
「そうなんだ、絡まないように洗うということは、こういうことなんだ」と、自分に話しかけながら、洗濯物を干す。
タオルをつまむ。シャツをつまむ。ズポンをつまむ。
どれもスッ-と持ち上がって、「引っ張る」必要がない。
スゴーイ!

洗濯機を買うのは4回目。
【1回目】 結婚当初は独身時代の手洗いから洗濯機に変わっただけでありがたかった。
下宿時代はシーツもシコシコ手洗いしていたのだから。
排水ホースが外れて、階下のMさんにご迷惑をかけたこともありました。
あぁ、なんということを!まだ20代の頃の話だけれど、堪えてくださったのだなと思うところもあります(汗)。
【2回目】 1回目が故障のため急遽買い替え。沢山の洗濯物が途中でストップしたため、階下のTさんにSOSして脱水機を使わせてもらった記憶。連日のオムツ洗いで洗濯機なしでは1日も過ごせない時代だった。二槽式だったから、何度も洗濯物をあっちへやったり、こっちへやったり、当時は洗濯とはそう言うものだと思っていた。
【3回目】 子供らの衣類も大型化、連日かさばる洗濯物を1度にこなすには大容量が必要になって我が家にやってきたのは超大型の全自動。ちょうどステンレスドラムが出始めた頃。「衛生的です」という歌い文句は魅力的だったけれど、住宅ローン開始も間もない頃で、価格も重要要素となり本流の従来型を選択した。
そして【4回目】 それは昨日。「今度はいま流行の前開き式を買うぞ」と、意を決して出かけたつもりが、①所要時間が15分以上長い(出勤前の15分は貴重な時間差)。②蓋を開くスペースを考えると以外に場所をとる。ということで、あえなく却下。
同居家族が少なくなったことから、一回り小さい全自動に決めたのが23日水曜日。
そして休みの昨日土曜日に届いたというわけです。
洗濯を1日たりとも休めなかったから、50アンペア、60アンペアの境界をまたぐ引越しの度に自分で洗濯槽の羽を取り替えていたこともあったのに、今回は数日間洗濯お休み。
なんという暮らしの変化…。

風体の変化それほどなくて、一回り小さくなったことが、私にかつての家族構成を懐かしくさせていたのだけれど、それが、使ってみてびっくり。
お風呂の残り湯を使う装置が普通バージョンとしてついているし、出来上がって覗くと、洗濯物がほどけている、というか絡まっていない。
今までは、脱水時の回転で目が回って気絶しているような洗濯物を引っ張り出していたのに。
まさしく「プロジェクトX」の世界ですね。
誰が開発してくださったのかわからないけれど、知らないうちにここまで、まったくこの国の技術開発力ってすごいのですね。
10年前も充分文化的って思っていたのに、さらにさらに進んでいたなんて!
余所のご家庭では既に当たり前かもしれないけれど、我が家の今朝のびっくりの話でした。
そして思います。
あと何度洗濯機をかうことがあるのかと。
有限なんですよね。

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もう35年なのですね。

2005-11-25 21:05:48 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
しっかりと覚えているつもりですが、それは35年前のことなのですね。
今朝の朝日新聞の天声人語に、三島由紀夫の自殺から35年とありました。
その第1報を聞いたのは「大変なことになった!三島が死んだ!」と研究室に飛び込んできた4年生の先輩から。
「卒論、三島なのに!」と。
市谷の自衛隊で割腹。なんか時代との齟齬を感じるようなニュースでした。
何冊かの本を読んではいたけれど、そういえば「春の雪」を書き下ろしで読んだのが最後かもしれない。はたして三島由紀夫の書こうとしていたことのなにを理解したのか…。
そういえば翌朝下宿で手にした朝刊に衝撃的な写真が載っていました。
あの時から35年なのですね。
お城の中の大学、そう大学はお城の中にあった昭和30年代後半に建替えられた建物だったけれど、数年前の同窓会で卒業以来初めてその城下町を尋ねたときは、どの学部もすっかり取り壊されて公園になっていました。
その25日の夕方、研究室に飛び込んできた先輩の様子をしっかり覚えているのだけれど、勿論その研究室もあるわけはない。
その際に訪ねた下宿先は、私の学生時代も既に充分に古い、蔵を改造した学生下宿だったのにちゃんと残っていたから、消えていくのは必ずしも順番ではないということですね。
当たり前に月日は流れていくようで、実は順番どおりかどうか、判らないものです。
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なぜ完成まで誰からの告発もなかったのかしら。

2005-11-24 07:27:25 | 社会問題
「日差しのない日に知らない町を歩いていて、東西南北が判らなくなったときは、建物の造りを見たらいいよ。窓は南側にあるから、窓がどちら側にあるかみて、多くついているほうが南」そう教えてもらったのはテニス仲間の建築士さん。
テニスコートの隣にたった12階建てのマンションを眺めながら、
「ああいう建物はね、柱の太さが上と下とで違うの。だから壁芯で測ると同じでも、実際の部屋の広さは柱の太さの分だけ下層の部屋は狭くなっているんだよ」
「へぇー納得」と、ベンチに腰を下ろして耳を傾けたものです。
いわれてみれば当たり前、下層は上階部分を支えているのだから。
今耐震強度不足のマンション報道が盛んです。
また、チラッと目にしたテレビ解説なのですが、柱の太さが同じだとか…。
テレビ画面は図面を見せて説明をしていたけれど、なーんだか、と思いました。
建築に携わっていた人であれば、イロハの話なのに、建物が完成するまで多くの人が携わっただろうに、誰も進言しない。
協力して大きいことを成し遂げるのは得意でも、一人一人が目鼻を持って「おかしい」とかぎつける耳目や嗅覚に欠けているのでしょうか。
官庁でも、銀行やメーカーなどの大企業でも、内部告発ってつらいところなのでしょうね。内部告発の困難な気質体質に依っているとしたら、まだまだ類似ケースが無きにしも非ずのように思います。
そして、マスコミも同じ映像を何度も繰り返し流して、あおるような報道の仕方はやめて欲しいですね。
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日本のどこかで 今度は誰かが・・・

2005-11-21 21:41:20 | 私の雑感あれこれ
昨日の日曜日、東京国際女子マラソンで高橋尚子さんが1位のテープを切ったという。
肉離れを押しての出場。万全の体調とはいえない中で、プレッシャーとの戦いの中でのゴールイン。所用でテレビは見ていなかったものの、結果を耳にしたときに、とっさに「日本のどこかで、今度は誰かが、勇気づけられたことだろう」とそう思いました。
もう7年前になるのだろうか。
長野オリンピックのときの原田雅彦選手のスキーのジャンプを観ていました。
その前のオリンピックで原田選手のジャンプが不本意に終わったために日本の団体のメダルを逃がしたのでなかったでしょうか。
そして、自分の国長野での晴れ舞台。
またしてもメダル獲得が自分のでき次第という場面。期待が最高潮に達している中でのジャンプ。
日本中がテレビに釘付け、息を呑むように画面に見入る中に映像は会心のジャンプを映す。
一緒に観ていたのは息子。
「すごい!」と一緒に歓声をあげたあとに「よし!僕も…」と。
予期せぬ結果で浪人生活を送っていた息子は、プレッシャーを乗り越えて好成績を残した原田選手に受験に向かう元気をもらったようでした。
滑り終わって着地後の一瞬、身を縮めていたあの瞬間、きっとプレッシャーを乗り越えた自分をほめてやったのではないだろうか。立ち上がった原田選手はすっかりチームのキャプテンの顔だったけれど。
あれから7年余りですね。息子は医師としてひよこながら歩みだしています。
昨日の高橋選手のスランプを乗り越えての優勝に接して、息子のように勇気をもらった人日本のどこかにいるんだろうなと、そう思いました。
何年かたって、「あの時の…」とそう語る人が沢山いそうな昨日の出来事でした。
一番うれしいのは鍛錬なさった高橋さんご自身だろうけれど、おこぼれで元気をもらっている人も沢山いる、不思議な現象ですね。
観てもいないマラソンの話題で恐縮ですが「感動をありがとう」です。
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あの時のカレンダー

2005-11-21 07:12:29 | 子育ての周辺
我が家の冷蔵庫にいくつものメモが貼り付けてあります。
その中に2002年のカレンダーの切れ端(1月、2月分)も。
前年の12月下旬から、娘がひとり中国の陸路経由で雲南からラオスへ向かうといって出かけた時の足跡。
何十時間も汽車に乗る旅は、2001年の夏に体験していたから2度目だったけれど、その度ごとに心配なものでした。
「中国の僻地ではね、手足をもぎ取られて見世物にされた旅行者もいるのよ」と、その暮れの忘年会で、私に忠告してくれた人もいました。
そんな話を聞いて、母親の私はどうしたと思いますか。
「今晩は寝ないでいよう」「寝なければ夢を見ないで済む」そう考えて、床の中で時間をすごしたものです(勿論いくらかは寝たでしょうが、嫌な夢は見ませんでした)。
そんな冬の記録があのカレンダーの日付につけられた○印。
メールで連絡があった日の印です。
ローマ字入力されたメールの文言がどんなに短くても、あぁ、この日まで消息があったと安堵したものです。
「よくそんな危ないところに若い娘をやるわね」
こんな忠告は、当然なんだろうなと思うのです。
一方、「そんなに中国過疎地を危ないというのは、そこに住む人を疑っているということだから失礼だよ」と諭す声も近いところから聞こえてくるのです(土産話で聞いたいくつ者、ほほえましいエピソードに、人への気遣いのバリヤフリーを感じたものでした)。
そんなあれやこれやの心配の中、南京まで戻ってきたとメールが入ったときの安堵感というか、体が楽になったというあの感じはまだ覚えています。

そして、今朝カレンダーに目が行きました。
彼女、今週を区切りとして、新しい世界へチャレンジするとのことです。
命までとられることはないから大丈夫だよ(まあ、なんと表現の大げさな…)。
どこまでできるか判らないけれど、ワクワクしているからね。

道は自分で作っていくもの。彼女の切り開いてきた道は耳に聞くだけで、血肉となっているのは彼女自身の五体なのだから、こちらには判りません。
あの、カレンダーに○印をつけて無事を祈ったこともあるのだから、それに比べたら…、そう私の心を整理している昨今です。

脚注 ○印のついたカレンダー(よくある朝日新聞の)は捨て難く、切り取って残したものです。
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強度不足のマンションのニュースから

2005-11-19 08:11:14 | 社会問題
みんなが驚いているニュースが入ってきましたね。
最近建てられた数多くのマンションの耐震性が不足しているという話。
マンション住民が多いから、自分の問題として考えるとぞっとするのでしょうね。
きっと沢山の人がこれらのマンション建築にかかわっていただろうに、一人の人の誤魔化しを見抜けない、そこのところも不安です。
「仕事が欲しいために改ざん」、「低価格であれば仕事が取れた」
バックリベートや談合などとともに、いずれも経済力学が絡んでいて、背に腹は変えられぬの問題かも知れませんが、万一の場合の命の安全がかかわってくるのに、彼にとって万一が遠いものに思われたのでしょうね。
災害が起こる前に発覚したことが不幸中の幸い。
発覚していないほかの件がないかが次の課題ですね。
私が疑い深いのかしれませんが、大企業であっても、有資格者でも経済力学に弱い人がいるのをしっているから、そこのところ信じ切れないのです。

この件はマンション暮らしでないから、我が家の問題ではないのですが、実は、私は自分の家の屋根材が「カラーベスト」製であることが心に引っかかっています。
よくある屋根材で我が家だけが特に変わっているわけではないから、「まぁ、いいか」と、そのままにして10余年。
カラーベストって、アスベストの色つきかな、とも時々は思うのですが、室内剥き出しではないし…、さぁて、どうなんだろう。
まったく別の物質であればいいのだけれど、そっと、寝た子を起こさないように話題になっていないだけだろうか。
面倒くさがりの私は、特に調べもせずね今に至っています。ご近所のあの家もあの家もと、よくある普及品なのですが。



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仕入れた話

2005-11-19 07:57:47 | 私の雑感あれこれ
であって「わっ!」と思う一瞬がある。
それが目の前の人から聞いた言葉でも、本や新聞で出会った文章であっても。
昨日若い人のブログで見つけた私の「わっ!」の話です。

二人の兄弟が話しています。
兄者がぼやく。
「10年前、いや20年前に戻りたい。戻ってやり直せたら…」
弟者がいう。
「そう考えたい時ってあるよね」
「兄者が10年後にもそう思うときがあるのではないだろうか。その10年後の兄者が10年前に戻りたいと願って、その戻ってきたのが、いま目の前にいる兄者だとしたら…」
兄者
「うーん。弟者よ、さすが兄弟だね」

若い人のブログでは絵入りでしたが、新しく手に入れた「わっ!」です。
時々取り出して、掌の中で転がしてみることがありそうです。



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小春日和です。「落書き」と「ドラえもんのシール」から

2005-11-18 11:05:14 | 子育ての周辺
久しぶりに書斎の掃除をする。
日差しが随分斜めだから、部屋の奥のほうまで明るい。
結婚当初に買ったカラーボックス(転勤族には便利な組み立て家具、まだ残っていた)にも日があたって、モップをかけていると側面の鉛筆の落書きとドラえもんのシールが目に入った。
形にもならない落書きだから、長女ヨチヨチ歩きの頃か。
3人の子供がいるけれど、してはいけないところに落書きするのは長女の癖。そしてドラえもんのシール大好き子供だったのも彼女の特徴(数年間はドラえもんのシール付きのカレンダーがサンタクロースへプレゼントのお願いだった)。
鉛筆を持つのが大好きで、いつも何かを書いていたから彼女の左利きは治す間もなかった(笑い。はさみは危ないからお母さんのいるところで使いなさいといったせいか、右手使い)。
あの頃6畳間の白い壁が鉛筆の落書きでいっぱいだった(二人の子供を抱えて体調のよくないこともあったから注意するのもあきらめて、引っ越すときにペンキを塗るという選択をした)。
今日ここにある落書きも、その白い壁に落書きした時代のもの。
節分の鬼のお面を貼り付けて、「福は内、鬼は外」とやったのもその壁。
鬼のお面をつけるのが怖かったし、お母さんがお面つけて鬼の役をするのも嫌がった娘だったから。
まだ弟は小さ過ぎて、だから娘といっしょになって、壁の鬼に豆を投げてはしゃいだ記憶がよみがえります。
そして、彼女随分小さい頃からドラえもんの漫画が大好きで、
「私ね、学校って嫌なところだって思っていた。だって、いつものび太のように廊下に立たされるのだと思っていたから」
子供時代は本の虫で、鞄を放り投げて外遊びしてくれたらと願うような子供だった。
自分の泥んこの靴を示して「いっぱい遊んだって証拠だから、いいことなんだよね」と、勇んで報告した娘。
そういっていたのに、今もまだ学校というところに通ってます。

追記 
そう、「サラマンドラ」の歌を耳にしたのはこの頃です。
♪サラマンドラ、サラマンドーラ火の中の竜
大好きで、大好きで、歌詞を覚えたくて、紙に書いてこの落書きの白い壁に貼って、掃除しながら歌っていました。
子供は覚えるのに、音痴な私はなかなか覚えられなくて…。
今も、あのメロディー思い出すとにジィーンとなってしまいます。
歌詞、どこかで探せないかな。
詩も切なく素敵です。
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こんな話 2題

2005-11-18 08:05:11 | 私の雑感あれこれ
こんな話 その1
大学時代の仲間と談笑しながら街中を歩いていると、兄弟がやってくるのに気付く。
心のうちで「あっ」と。
言葉を交わさないで通り過ぎる。
そして彼は思う。
(兄弟に対して)あの時そ知らぬ振りをしてくれた、その気遣いをありがとう、と。
そして、同じようにそ知らぬ振りをした自分自身に対しては、その狭量であることを嘆く。白っぽかった彼は白人との友人関係の中で生きていたのでしょう。
彼ら兄弟はアメリカの黒人。少しでも黒人の血が入っていると黒人とみなされるので、殆ど白人に近い黒人もあるらしい。そして兄弟でもその差があるという。

この文章を読んだのは10年も前のこと。アメリカの著作業の方だったと思うけれど、名前は覚えていない。彼は通り過ぎた一瞬の心の葛藤を道連れに生きて来られたのでしょう。彼がその若者だった時代から幾年たってこの文章を書かれたのか。
それから随分経つのに、私の心に留まっている(その短文をコピーしておけばよかったと悔やまれます)。

そして、昨日ケーブルテレビであの「ルーツ」の続編を見た。
アフリカから奴隷船で連れてこられたクンタ・キンテから4代目の時代。

こんな話 その2
娘が付き合いたいと若い男性を連れてくる。
その男性は黒人とはいっても殆ど白人に見える。
若者は父親(義理※)から仕込まれた家具職人としてと生活していけると訴える。
父親は言う「ダメだ」と。
「黒人とはいっても、口元に特徴が残るだけで、殆ど白人だ。
白っぽい黒人は白人の家に入れてもらい執事になったり、馭車になって、俺ら黒人を酷い目にあわせたんだ。
だから、白っぽい黒人は嫌いだ。だからなんとしても認められない」と。
若者は失意で村を出る。

二つの話は時代が違う。20世紀と南北戦争後。
暮らしの端々で葛藤が生まれ、その人なりの価値観が育っているのだとおもいます。
遠い国の話だけれど、知らないよりは知っていたほうがいい。それが文章であっても映像であっても。時代や場面が異なっても、皆それぞれが抱えている葛藤の中で生きているのだと知らされます。
きっと、その葛藤が人を育てる一助にもなっていると、そう思うところがあります。

(※)当時の黒人女性は白人男性のもてあそぶ対象として扱われてもいたから、彼のいう父親は血のつながった親ではないと、娘の父は察してしまう。
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