日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

もうふた昔にもなるエピソード。

2022-04-24 08:06:34 | 子育ての周辺
先日おじゃましたお宅での雑談の中で、遠方に暮らす娘あてに手作りの総菜を冷凍で送る、という話題が出た。
最寄りのコンビニでは宅急便の冷凍品は扱っていないので、ちょっと離れているけれど、〇〇集配センターまで持っていく、との話。
すっかり忘れていたけれど、「ああ、そこには何度か行ったことがある」と思った。
持っていった荷物は冷凍品ではない。
「お母さん、お願い」と運転できない娘に頼まれて。
娘は自費出版のマンガ雑誌を発行していた。それなりにファンもいたらしい。
印刷所に確実に届けるために、深夜便に確実に送ってもらえるそこまで原稿を持ち込みたい、と頼まれたのです。
ファンからの郵便物はすべて局留め私書箱扱いにしていた。
今思えばハタチ前後でなんといろんなことを知っていたのだろうと思う。
どんな内容のマンガだったかは知らない。(多分マイナーな?)雑誌にも掲載されたこともあるとか。
自費出版だったから、いつもマンガ本の入った段ボールが娘の部屋にあったような。
これも遠い記憶。
自宅から注文者に発送する本が大量になると、郵便局から我が家に集荷に来てもらったりもしていたらしい。
そんなこともあって、郵便局の局長さんは、私の顔を見ると、しばしば「あの本を出していた娘さんは元気ですか」と一言あったりしたものです。歓迎していなかった私の間隙をぬいながらの自費出版だったので、私としては微妙な受答えをしていました。もう幾星霜。その局長さんも引退なさいました。
大学に復学すると決めて、部屋に残っていたマンガ本の詰まった段ボール箱をリサイクルセンターに持っていったときも車を出したから私が同行し、きっぱりとピリオド。

どこの家庭でも、さまざまなエピソードはあるものでしょう。
今思えば、あの時は我が家の、我がままでもなく目立った反抗期もなく青春期に入った娘のエポックだったと思い起こします。

ま、その後もアレコレの展開はあったけれど、彼女のどれもこれもペースなのでしょう。















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子育て中のひとこまから。

2020-09-27 08:25:11 | 子育ての周辺
前記事に描きましたが、昨日、アンネフランクの時代を生きた人たちのドキュメントを観ました。

私がアンネの日記を読んだのは、中学1年ぐらい。12歳ころでしょうか。本のカバーだったか、えんじ色だったのを覚えています。
読書好きタイプでもなかったのですが、出版社企画でしょうか、アンネ宛に手紙を出そう、とかの特集があって、書いたような気がします。
後年、買いなおした本はコレ。


当初出版された「アンネの日記」から編集しなおされたとか、話題になったりもしていましたね。

そして、この本を12歳ころの末娘に勧めたのを覚えています。
そのころは、仕事と家事で余分な時間がない日々を送っていました。
子どものお勉強を見てやる、ということも一切なし。
たしか、この子が幼稚園の時に「エルマーの冒険」を借りてきて読ませて、なんとか読みこなしたので、まぁ、大丈夫だろうと、本人の力にお任せ状態、でした。
特に、読書家というわけでもなし、普通。小学校時代は毎年のように学級委員になっていましたね。
ちなみに、子ども時代の長女は本の虫でした。それぞれです。

彼女が読み終わった~と私のところに持ってきて、つぶやいたのは、「なにも暗い話ばかりじゃない。普通の元気な子の話じゃない」と。
特に、感想を言い合うこともせず、そういう捉え方も当たっているね、ぐらいに思っていました。

大人の読者がこの本を手にするときとは違って、そこにいるのは収容所で行われた現実をまだ知る前のアンネなのですから。

幾星霜。

いろんなことがあって、彼女が母になったとき、その女の子の名前を、アンネ としました。

あらっ。

海外でも受け入れられる名前にしたかったのかしら。(そんな風潮があるころでした)

素敵な名前をもらった女の子、魅力的な人に育ってほしいと、願っています。


今ではすっかり「アンネちゃん」は、わが孫の名前になっていますが(笑)、この本を読んだ時の記憶が、残っていたのだろう、そう思ったりします。






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走馬灯のように、、、

2019-11-22 07:54:00 | 子育ての周辺
子育てのころのシーンです。

興味のない方はスルーしてください。

先日、防災センターに行ったとき、隣接している区役所のロビーに、防火週間のポスターの優秀作品が展示してあった。
連れの二人が、まじまじと見入って、上手だね~と鑑賞していた。

ふと、かつては、いつもポスターが入賞した、とか、校長室の前に貼られているから、とかで見に行ったものだと、思い出した。

どの子も絵が好き、ポスター制作は好きな時間だったと思う。
私は、仕事が中心で、子どもは学校任せ、それどころでなかった。汗

展示されたから、と聞いて、見に行く、を何度も経験しているのは親として幸せ者だったのだろう。

そういえば、パルサー材が欲しい、と息子が言ったことがある。

パルサー材って、どういうものかも知らない私に。
(今のようにネットで調べる時代ではなかった)

ホームセンターで買ってきたパルサー材で、息子は恐竜を彫った。
長さが足りなかったので、しっぽのところが切れていた。
多分、なんとかザウルス、なのだろう。

そのなんとかザウルスは、前足の片方に重心がのっている形で彫ってある。
本人は意図したのかどうかは、本人とも話題にもしていないけれど、「すごい!」と親ながら思った。
そのほうが、いかにも動き出すかのように見えるのです。

私だったら、平凡に掘るだけで、そこまではしていないだろうな、と。(その時の心中です)

今、私は孫のために、お絵かき帳にいろんな恐竜の走り描きをしたりします。
これは、○○サウルス。○○ドン。と白い紙の上に現れる姿に、喜んでくれます。

だだし、走りだしそうな姿にアレンジはちっともできません。

ただ図鑑をみてざっくり描くだけ。苦笑

鉛筆と用紙があれば、子どもたちは常に描いていたな~、と走馬灯は巡ります。


なぜ絵の話題に焦点が向いたのかというと、防火週間のポスターだけではなく、購読している新聞の朝刊の最終ページで語られている(
取り上げられている)絵が、昨日、今日と「好きだ」と自分に伝わってくるからです。
円山応挙、そして今日は円山派の絵師の作品。

今の自分は、こんなのに心打つんだ、と自分の心の中で反芻しています。

以前に、三千院でみた一幅の水墨画も思い起こします。

紙と書くものがあれば、目の前のものを描いて楽しめる。お得な気質を持っているな、と思います。

息子、娘たちも、今は忙しくしていても、やがては、思い出して筆を執ることがあるかもしれません。


今日の新聞小説では、正岡子規が夏目漱石に与謝蕪村を紹介している場面でした。芭蕉より蕪村が好みだと。そして、俳句は年寄りのものではなく、若い自分の心を揺さぶる、と。
・・・ただし、小説家伊集院静さんの小説での話ですけどね。

以上、雑文でした。





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なんの変哲もないコップだけれど、、、。

2019-11-21 13:02:20 | 子育ての周辺
夫が部屋の整理で出してきた不用品の山の中から、懐かしいコップが出てきた。

近年のことはすぐ忘れて、去年と同じ衣服を購入したりする間抜けになっているけれど、古いことは鮮やかに覚えている。


長女の幼稚園入園に際して準備した品物のひとつ。
末っ子が生まれた年だから、私は30歳。

女の子だから、赤やピンクっていうのに抵抗したくて、この色をチョイスした。笑
ランドセルも赤と黒しかなくて、性別で選択する色が固定されていた時代です。

拘ったからってどうなるものではないのだけれど、そこが私の「若かった~」時代です。
本人からも、みんなのようにかわいいピンクがいい、なんていうことはありませんでした。

もう40年も前のことになるのですね。

親の手作りを奨励するところがある幼稚園で、簡便な毛糸のベストを作ることがありました。
色は個々人のチョイスです。
そこでも、私、グレーの毛糸を選んでいました。もちろん女の子は、赤やピンク、オレンジ。グレーなんてひとりだけ。
でも、そのグレーのメリヤス編みに後日、ピンクの花を編み込んで載せました。花弁と黄色い花芯、そして緑の茎と葉っぱ。
私としては、傑作の1枚で、下の娘もお下がりで来てくれたものです。

偏屈なところは、昔からあるのでしょうが、今は、緩やか~に。苦笑

今は、リカちゃん人形がほしい、と望む孫娘に、買いそろえて準備しているおばあちゃんになっているのですから。

今どきのママたちも、それなりのこだわりで一生懸命なのでしょう。
今は昔になってしまいましたが、出てきたコップを目にして、若かりし頃のことを思い出してしまいました。







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そういえば、、、という話。

2018-06-24 09:39:12 | 子育ての周辺
5歳の孫が図鑑好きという。路線オタク、鉄道オタク、だったのに、宇宙の図鑑へと興味が広がっていっているらしい。

そういえば、息子が小学校1年の時が、ハレーすい星が話題になった年だったのを思い出した。
6月生まれだから、1年生の6月で7歳にはなっていたけれど、ハレーすい星を見ようと、何度か夜中に近所のマンションの廊下を望遠鏡を持ってウロウロしたことを思い出した。私、34歳。若かった~。一生懸命なお母さんだったのですね。

夫が転職したばかりで、主婦の私は倹約生活まっただ中。望遠鏡を買いたくても我慢すべきと判断して、望遠鏡を持っている息子の同級生を誘って一緒にウロウロしたものでした。今の私だとだと、なんと姑息(苦笑)と思うけど、ママ友としてツーカーだったから、よし、としよう。その後、飼えなくなったからと、彼女宅の手乗りインコのピーちゃんを貰い受け、ご老体になるまで長~く我が家で生き延びました。

お天気に恵まれず、72年ぶりに接近したというハレーすい星は目にすることはできませんでした。(※)
そのずっと後、子供たちが巣立ってしまってから、夫が望遠鏡を買ったので、今、我が家には望遠鏡はあります。

住宅街で眺望が良いとは言えない我が家ですが、ベランダからお月様ぐらいは見えます。
5歳児、夏にベランダで望遠鏡、となるでしょうか。

ついこの間まで、赤ちゃんだったのに、もう、そんな歳?

たまにしか会わないので、超特急で成長しているように思えます。


興味を持つかどうかは皆目 ?マーク
この5歳児のママが小学生の時、顕微鏡を買ってやったけど、まったく興味なしだった。
私が小学校時代(昭和30年代)、文房具屋のショーウインドウに陳列されている顕微鏡、毎日の学校帰りに覗いていたものです。子供はそれぞれです。思い込みで与えてもダメという典型的パターンも体験済み。トホホ

追記

(※)当時、天皇陛下(昭和)は、72年前のハレーすい星を見ているので、今回で2回目のハレーすい星を見ることになる、と聞いていたし、上記の記事を書きながら思い起こしてもいた。それが、今、たまたま、「日曜美術館」を見ながらPCに向かっていたら、横山大観が明治43年のハレーすい星を描いた絵の紹介があった。なんという偶然。ということで、追記しました。

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懐かしい文章。

2018-06-09 07:37:31 | 子育ての周辺
本棚整理で、古い雑誌「○の友」が出てきた。
1985年6月号。
4月に転居して、まだご近所にも不慣れなころ。長子が幼稚園入園以来購読していた雑誌です。
転居後は購読はしていなかったのですが、なんとなく懐かしくて、投稿欄に文章を送ったのです。

以下、投稿文

    少年の自殺
「デパートの屋上から15歳の少年が飛び降り自殺」というニュースが、テレビから流れて、それを見ていた小学1年生の息子が、「どういうこと」と聞いてきた。
「きっと、生きているのが嫌になって、死にたくなったのね。まだ子どもなのに」と答えた。すると
「僕だって、そんな気持ちになること、ときどきあるけれど、死なないだけだよ」という。
「そんなことあるの」と驚いてきいてみた。
「いつもじゃないけれど、たまに・・・」
「どんなとき」
「お母さんに叱られたとき。僕、お母さんに叱られると運が悪くなるのか、そんな日はいやなことばかりあるの。いじめられたり・・・」
 学校から帰ると約束した友達のところへ遊びに行って、6時まで戻らない。彼なりに充実した日を送っていると思っていたのだが・・・。
 子供が充実した時間をおくるために親と子の絆をつくってきたつもりなのだが、少年の自殺のニュースから考えさせられました。


以上。

6歳の子(生まれて6年で)、こんなやりとりしていたんだと、感慨深い。
親には口にしなくても、いじめを感じていたんだね~。・・・読み返すまで、すっかり忘れていました。

今5歳の孫息子も、不得手なことがいっぱいあって、彼なりに複雑なんだろうと、娘は言っています。
保育園児は、すでに自分の社会(仲間)をもっていて、傷つきもするけれど、そこは成長にかせない大事な場でもあります。
離れて住むおばあちゃんは、スキンシップの加勢はできないけれど、応援団だからね、と、心の中でエールを送ります。

それにしても、息子の工作物が捨てられない。
手先が器用で、工作大好きタイプだったので、ワクワクしながら作っていたのだろうと、想像したり、です。
リアルタイムのそのころは、私は仕事が忙しくって、学校生活は先生にお任せで、それどころではなかったのですけれど。
今はすっかり連絡なしの息子ですが、遠い日の息子への愛着、なんでしょうね。
そのうちに捨てます。アッハハ


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30年以上前を思い出す。

2018-02-14 06:54:08 | 子育ての周辺
日月と隣県のホテルで一泊。
花の季節ではないけれど、行きも帰りも2か所のフラワーパークに立ち寄る。

プロ職人さんのバラの冬時の剪定をみるのも勉強になる。

何度も訪れているパークなので、どこに何が、、、は勝手知ったるところです。 笑

花壇の手入れをしている何人もの人がおられました。シーズンオフのこの作業があってこそ、みごとな花を見られるのです。

ひとつ収穫。ワスレナグサが花壇の縁に等間隔に配置されていました。うちの庭でも、増えてしょうがない状態なのですが、不要なのは引き抜くのではなく、ほかの場所から植えたい場所に移植したのだと。
ワスレナグサとコンビで配置されていた草花もありました。聞くとエリシマムという花だそうで、花色、草丈などは考えられているのだろうな、とも。

これは2日目のフラワーパークでの話。

1日目のガーデンパークで。
公園内の地表は波打っており、陸橋がかかっている場所があります。

確かここだったよね、と夫が話し出しました。

そうです。しっかりとよみがえります。

84年に中部圏に引っ越してきて、1年目の旅行は別のところだったはずで、ここに来たのは2年目ぐらいだったのでしょうか。

85年。息子が小学校2年生かな。

この陸橋から下を眺めると、ショベルカーがありました。

工事の車大好きだった息子は、ショベルカーの存在に気付くと橋の手すりに体を寄せて、興味津々。

ぴたりと歩が止まって、なかなか動こうともしなかったこと、

子供用の遊園地よりも、この本物のショベルカーが彼に感動を与えているのだと、思ったものでした。

その時の工事で出来上がったであろう、噴水とモダンないくつに区切られた池。

30年余りという年月なんて、あっという間にさかのぼれる年齢になっているんです、ワタシタチ。

昨日の話題にした、電車オタクで東京の地下鉄路線図が愛読書(?)の男の子なんて、まだ5年しか生きていないのにね。





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年季が入ったお雛様

2016-02-22 07:24:44 | 子育ての周辺
何年ぶりでしょう。お雛様の梱包を解いたのは。
(娘が我が家にアメリカの女子大生をホームスティに連れてきたときに、日本文化の一片として、披露(大げさ?笑)したとき以来です)

何の変哲もない、というかきわめてシンプルなお雛様です。

でも、40年の年季入りになりました。

私26歳。ご近所の方に誘われて、木目込み人形のお雛様を作りました。
(セットがあるので、布を木目に挟み込んだだけです)

烏帽子と姫のティアラのようなものは、紛失しています。

今度、男の子ばかり育てた友人宅で女子会(苦笑)ランチするので、持参しようかな、と思いつき、引っ張り出しました。
立ち雛は簡便で助かります。
こんなこともないと、ずっとお蔵入りでしょうから。

40年たっても、お顔はそのまま美しい。
お人形夫妻の時間はストップしてますものね。







先日の日差し暖かな日に園芸店で、またまた買ってきました。
開花しているクリスマスローズ



すでに5株あるのですが、+1 です。
たまたま出会わせた園芸好きさんらから、クリスマスローズの育て方ノウハウを教わり、バラ談義のひととき、なんとまぁ、関心が似ていると話は盛り上がります。隣のそのまた隣市なのに、バラの季節にぜひ我が庭に見にきたいとおっしゃる方がいて、連絡先の交換をしたり。知り合いが増えていくって楽しいです。

気に入っているビオラの写真も。もっとビロードがかった発色で色も濃いのですが、カメラ技術不足でうまくいきません。


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なつかしいノートがでてきた。

2013-12-04 07:53:24 | 子育ての周辺
それらの絵本やオモチャ(積み木など)のいくつかは何度もの引越しの際も処分を免れ、納戸に収納してあった。
2歳の孫に、ママたちのお下がりの積み木や幾冊かの絵本を送ってやろうかと本棚をかき回していると、1冊のノートも混じっていた。

なつかしい。

1ページ目にはこうある。

3がつ25にち
○これからは でかけるときに ここにかいていってください。
○窓(まど)はしめてありますか。
○台所(だいどころ)のガスの火(ひ)はついていませんか。
 (お料理したあとは かならず しっかり 消してください)
○げんかんの カギをしめわすれないこと!

そして、子供たちの伝言メモが綴られていく。

3がつ26にち

まきちゃんちえいってきます ○○○

4がつ5にち

まきちゃんちえいってきます。きょういすがとどきました。○○○


4がつ11にち

あやこちゃんちえいってきます。○○○

略のところは、4年生の長男や6年の長女の伝言。
ひらがな文字で一生懸命つづっているのは、1年生になったばかりの末っ子の文字。
これまで幼稚園に送り迎えされていたのに、小学生になるのと同時に鍵っ子生活が始まったのです。
まだ自分から電話を架けることも出来ませんでした。
夫は開業のことで頭がいっぱいでしょう。当然私も助っ人です。でも3人の子の母親でもあるのですから、そちらも乗り切らなくてはなりません。

今時の人はご存知ないかも知れませんが、そんな時、俵萌子さんの話を思い浮かべたものです。
彼女は新聞記者でした。子供たちが眠っているときに出かけることもあったそうです。
そんな時、寝ている子を起こさないように、そっと身支度をしながら、「もし、子供に万一なんかあっら、私の責任なんだ(でも、その万一がないように祈るような気持ちで、今自分は仕事に行くんだ)」と。
※幾度も思い浮かべているうちに、私なりの解釈になっているかもしれません(苦笑)。
でも、あの時は、そんな子を持ちながら働いてきた女性の先輩の存在を思うことが、私の支えでした。
そういえば、新1年生は出勤第一目前日に中耳炎になりました。お医者さんへは連れて行きましたが、1日で治るものではありません。
それでも私の予定変更は出来ません(雇われている人とハードルが違うところでしょう)。
アイスノンに耳をあてて寝ているように言い聞かせて出かけました。
寝ている子を置いていくのは、後ろ髪を引かれる思い、まったく、でした。
事務所の場所探しから始まって、備品購入、事務機の設置など初めてのことをこなさなくてはならず、当時は、両親の気が張っているのを、子供たちも感じていたのでしょうか、「いて欲しい」の言葉はありませんでした。

電話が架かってきても、出なくていいよ。寝ていなさいね。
「3回呼び出し音がなって切れる」を繰り返すと、お母さんからの電話だからね。そのとき、もし具合がよいようなら、お母さんと話をできるからね。

そんなことを言い含めて、出かけました。
勿論、私は早退、地下鉄のコンコースは小走りです(笑)。

そんな昭和62年の様子を窺えるのノートが手元に。なつかしいというか、当時がいとおしい思いにもなります。
25年以上経過です。無事というか、多少の混乱はなきにしもあらずだったけれど、みんな巣立っていきました。

苦労や失敗が人を育てるって本当だね、と夫婦で語ることがあります。
今抱えている懸案事項が、また自分を育ててくれるのかと、そういう風に捉える癖が出来たように思えるから、不思議です。

積み木と絵本(配本されていた「こどものとも(年少版)」や「はらぺこあおむし」)は発送しました。アルコール除菌用スプレーできれいにして。







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今日1月17日

2012-01-17 08:42:59 | 子育ての周辺
あの1月17日から17年が経ったとテレビは報じている。
あの日私は普段どおりに仕事に出かけた。外から帰ってきた人が「テレビが神戸の火災の様子を写している、神戸は今も大変なことになっている」と聞いたのは、お昼近くのデスクワークの最中だった。
夕刻帰宅して、行く筋もの煙を挙げている映像を見たことも覚えている。

でも、私の関心事は、実はカテゴリーとしては「子育ての周辺」だった。
眠れない夜を過ごしていた。
白状します。
わが子のセンター入試で思わぬ結果だったことを聞いて、ガッカリの極限に達していた。
長らくの親バカで、聡明な子だと確信し、受験で壁にぶつかるタイプだと思ってもいなくて、結果を受け入れられなかった。
眠れぬ夜を過ごし、まだ暗い中、たまたまトイレにいるとき、グラッとときた。
それがあの阪神淡路大地震だった。
その後知ったことだけれど、倒壊家屋の下になって、迫ってくる火に、命があるのに援助を断念せざる得なかった話は、今も思い起こすと胸をしめつける。
次々と被災地の様子が報道され、支援に出かけるボランティアの話題を耳にしながら、申し訳ないけれど、今、私は、情けないけれどそんな心情ではない、と思って眺めていた。

結果として娘が入学することになった大学は、現役ならば推薦でラクに合格可能な大学に決まった。
聡明な子のハズと思い込んでいたワタシ。親(私)の欲目丸出し状態だったから、彼女の大学生活も、晴れやかなスタートではなかった。それではあんまりだと、夫は入学式に列席した。
彼女の気持ちはどうだったのだろう。
どんどん親(私)に心を閉ざし、大学に通っているのか、サボっているのか判らない状態になっていった、のだ。

彼女は利発な知恵者で、よく喋る母娘だったのに、あれは調子のいいときだけの話。
彼女がつらいときには助けていはいない。
そんな烙印を私は持っている。

わが子らの大学生トップバッターだったのに、私の器量のせいで晴れやかなスタートとはならず、いつもギスギスした日常だった。そんな中で、彼女は昼夜逆転の生活になっていった。
・・・この昼夜逆転の生活状況も、親子間を引き続きギスギスさせ続ける原因となった。
やがて、ペンネームで活躍していると知るまでは・・・。
黙して、自分の世界を開いていたのです。

幼児から、彼女はいつもいい子、でした。
争いごとがキライで論理的。5つ6つの頃は、なぞなぞが解ければ満足なタイプでした。
いわゆる、「忘れ物ない?」も「宿題は?」も一度も話題にしたことなく、本人任せに育てた、子育ての楽な子供でした。
その筋書き通りで、親がこの大学を、と薦めたつもりもなかったのです。
でも、親の期待に応える良い子であろうとしたのでしょう。
数学が大好きで、暗記物が不得手。
だから、大学受験では撃沈。まったく大苦笑です。
(それでも、今はある資格保有者のため、有利な条件で仕事をしていますが)

因みに、高校受験のときは、試験後の合格発表前に、家族で初海外旅行をしようと企画していました(なんとまあ!ではあります)。申込んだけれど、湾岸戦争でキャンセル。浮いた費用は、彼女の高校1年夏の、アメリカホームスティー費用となりました。

あれから17年。
世間のメモリアルデー1月17日になる毎に、マイメモリアルデーもやってきます。








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