日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

ちょっとずつ慣れていく。

2024-10-31 08:25:03 | 私の雑感あれこれ
暑さが遠のいたと思ったら、急にひんやりモード。早朝はエアコンONにしている夫。
ネットサーフィンしていた、海外でのwi-fiのレンタルのオンライン店舗に行きついた。
前回の海外旅行の時に、ひとり参加の方が利用していて、現物を見せてもらいました。空港でも手続きできる、とのことでした。
宿泊ホテルやラウンジではwi-fi使えるけれど、そのほかは多分ダメなのだろうと半可通ながら理解していました。
でも、屋外でもグーグル検索ができなくもない。⇒高額料金が発生している? そこのところ疑問を持ちながら、、、でした。
だから、どうしても使いたいという時だけはグーグル翻訳の利用はしていました。
wi-fiにつながっていないところでグーグル使う⇒別料金料金発生かも ?
めったに確認していないけど、海外旅行した月の使用料金明細高かったから。

今日検索していたら、事前にレンタルwi-fiを申し込んでおいて、当日に出発空港で受取り、帰国後に空港で返却というシステムがあることを確認。値段もリーズナブルです。バッテリー付きのを選べば、充電も気にする必要はなくなります。
次に行くときは利用しようと思った。
私の海外旅行がよりラクになると思うと、うれしい情報でした。

話は変わって庭。
毎年、5月はこぼれ種の苗を移植したワスレナグサが花壇を埋め尽くすのですが、こぼれだねの姿が見つからなくて期待できません。
園芸店へ行ってビオラの苗でも購入してこようかな、と思案中。
はっさくの木にぶら下げていたコチョウランもそろそろ室内に入れようと思います。












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何をするでもなく、、、。

2024-10-30 16:12:26 | 私の雑感あれこれ
雨が上がって草取りしなくては、、、なのだけれど気が乗らない。
2週間前に蒔いたスイトピーの発芽率はまずまずです。一緒に蒔いたデルフィニュームは発芽ゼロ。
アリッサムが元気になってきました。こぼれ種がたくさん発芽して喜んでいたのだけれど、鉢やプランターに移植したのは、夏越しできずに全滅。日陰に移動すべきだったのに、鉢やプランターの移動をさぼってしまった💦
朝日の中でバラ、ジュリア。実物はもっとベージュ色です。
2年前に移植したツワブキが花芽を持ち上げ始めました。もとにあるツワブキは勢いがイマイチ。もっと増やしたいと思っています。
ツワブキとシュウメイギクの庭に、と構想しているのだけれど、シュウメイギクは日照不足で株が減ってしまいました。隣地の藪がきれいになったので、来年には期待したいものです。
夏の暑さが苦手なインパチェンスが元気になってきました。ハッサクの実がずいぶん大きくなって重さで垂れてきました。今年も豊作だと思います。


午前中にきんぴらを作って、午後早々からおでんの差準備り取り掛かり、夕飯は今年初めてのサンマの塩焼きです。近所のスーパーで買ったのだけれどサンマは小振り。朝どれの大根のおろしがたっぷり添えられ、食欲の秋です。
日本の食事はおいしい~、とつくづく思います。我田引水というのでしょうね。苦笑

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わからないものです。

2024-10-29 07:20:07 | 投資関連
日曜日に総選挙の結果が出て、株価暴落するだろうなと心構えしていたのに、誤算でした。
市場はすでに与党過半数割れをおりこみ済みで下がっていて、今後の展開が見えてきたことから上昇に転じたのでしょうか。
👆 素人の域なのに💦、いっぱしのことを言っているワタシ。恥

今年の8月初めに株価の大暴落で見た1日でのマイナスの数字に耐えた、というのも経験(マイナスの経験ですけど)。少しぐらいであわてなくなりました。まだ暴落前の数値には戻っていませんが、、、。
株価が戻っていないことを腐っていると、配当取り(インカムゲイン)が目的なのだから株価自体の変動は含み益(損益)に過ぎないから気にすることはない、と。
そりゃあ、そうだけど、、、。

来年のNISA戦略もYouTubeで見かけました。私としては、年初に購入した個別株はマイナスに終わりそうなので、路線変更しようと思っています。
リアル社会で👆 の話題ができないから、ボソッとつぶやいた次第です。

話は変わって。
最近は転んで骨折とかヒビが入ったという話が耳に入ってきます。
かつては、高齢者は転ぶと骨折する、というのは情報の一つでした。今や、自分の問題になっているのだと思います。
テレビで相撲を見ても、他のスポーツを見ても、あの人たちはぶつかっても、転んでも、骨折しないんだ! ということに、妙に感心する変な私です。同じ人間のつもりでも、骨の数は同じでも、その材質が違うのですね~~。⇒ 当たり前だ! と失笑されそうですけどね。
重い植木鉢をもって階段を上り下りするごとに、ここで転んだら骨折になるかも、と思うようになりました。
素焼きの鉢をもっての階段昇降は日々筋トレしている夫に頼むことにしました。
何かあったら、海外旅行どころではなくなりますからね。





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初「モリンガ」を食す。

2024-10-28 08:49:20 | 健康
夫がスーパーフードと知って、種子を取寄せしてまで育ててきたモリンガ。私はなんど聞いても名前も定かじゃなかった💦
室内で冬を越し、夏を庭で成長し続けた我が家の1本の木。鉢が小さくてひっくり返ったので、根元から30センチぐらいを地植えにして、ついている葉っぱを全部摘み取った。その摘み取ったはっぱを今朝スムージーにして食した。

モリンガは知っている人が少ないと思うので。
クリックしてみてください。

モリンガ

スーパーフードらしいです。
もちろんスムージーに入れたのは、生の葉っぱ部分です。
医食同源。私たち夫婦の健康の助っ人となってくれますように。





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つれづれに。

2024-10-28 07:57:50 | 私の雑感あれこれ
最近は贅沢しているな、と自分でも思っている。
あの昭和の時代を思い起こすと、格段の差に驚くしかない。
エピソードを書こうと思う。
昭和35年か36年ごろだと思う。私は昭和31年に小学校入学しています。
春のそのシーズンになると友達3人でヨモギ摘みをしたものです。母親が普段使っている買い物かごをそれぞれ持って集まります。
その自然素材で編まれた買い物かごにぎっしりいっぱい摘み取って、和菓子屋さんにもっていくと、かごいっぱいあたり5円になりました。多分、私の現金収入の最初じゃなかったかしら。(アルバイトという言葉も知らなかったし、なかったころでしょう)
3人集まっておしゃべりには花が咲くし、たくさん摘めるところの検討をつけたりするのも楽しいことでした。
和菓子屋さんが買い取ってくれるという情報をどこから得たのかは覚えていません。でも、2シーズンほどはやった記憶です。
5円の価値ですが、5円で安いほうのアイスキャンデー買えたかも。確かアイスクリームは10円でした。

多分、そのころに重なると思うけれど、エピソードをもう一つ。
そろばんを習っていました。週3回通います。その塾は1部~3部に分かれていて、3部は上級者(商業高校生が多かったりした)が占めていました。で、先生が簡単な課題を与えてテストをします。そろばんのテストではありません。日本の長い河川を順番に10本書き出せ、とか、内閣改造が行われたけれど、大臣の名前を書け、なんていうものです。それでクリアすると月謝が30円だったか50円安くなるのです。もちろん個人経営の先生の思い付きなのでしょう。ちょっとばかり安くなったのが得意だったのを覚えています。

人口2万に満たない田舎(農村ではない)での生活でした。小学生にとっては自分の身の回りが世界ですから、それを貧しいとも感じることなく普通だと思っていました。
それから思えば、すっかり遠くへ来てしまったものだと思います。
卒業文集に「行きたいところは『スイス』。永世中立国だから」とたくさんの旧友が書いていました。私はどう書いたかしら? みんなそうなんだ、と思ったのを覚えています。
あの頃の教室は、天気の日は照明がついていなかった。雨の日になると照度計でルックスを計測に来て、レベル以下だと蛍光灯をONに。電力が不足していたのですね。日本はまだ先進国ではなかったのでしょう。

👆 時代を経て、今、海外旅行に行こうと思えば行ける、ありがたいことだと重々自覚しています。




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この年頃の微妙。

2024-10-26 07:44:23 | 私の雑感あれこれ
ジムで顔を頻繁に合わせる人、めったにすれ違うことない人、様々です。
で、昨日は「お久しぶり~」とあいさつする人と短い立ち話をした。
「旅行に行ってきたのでしょ、話を聞きたいわ」の彼女の明るいあいさつの後、彼女の場合は、、、と。

「多分、私はもう難しいわ」と。
「お宅はご主人がお若いから大丈夫だけれど、ウチは主人が83歳で、ひとりで留守番させられないと(もちろん(遠距離、長期間の)旅行には無理だし)思う。だって、この歳になると1年1年違ってくる。何が起こるかわからないもの」と。

そっか、そういうことにもなるのだ、と。
(我が家は同年齢、数か月私が年上。よって微妙にまだ前期高齢者です 苦笑)

先日のバルト3国旅の時にも、奥様と同行の80代の男性がいたけれど、奥様はコレが最後かな、とか口にしていらっしゃるのが耳に入った。70代はそんな微妙なころなんですね。
去年から一人参加旅の遠距離、10日間の一人参加旅をすることに決めたけれど、ひとりで出かける私の気持ちのどこかに「もし、わたしがいなくなっても生活していかなくてはならないのだから、10日ぐらいの不在が不便というのは、克服すべき、、、」という気持ちがあった。
身近で奥様をなくされて一人暮らしの70代男性もいらっしゃるし。
そんな私だから、👆 で家を空けられない、という心境は、聞いて初めて、そういう展開もアリなんだと思った。
我が家の場合は、まだ夫は平常の仕事、畑作業、体力づくりをしていること自負しています。
なので何が起こるかわからない、は「ない」と思っていました。
でも、「ある」らしいです。?!?!

私がいないと、アルコールのブレーキがかからなくなるので飲みすぎて体調を崩したそう(今回だけしゃなく、学習しないみたい)です。
そんなの「あり」ですか?
私がいることが、アルコールセーブになっているらしいです。
ふだん私が「酒量を少なくしたら?」というと「口を出すな、自分で考えている」と機嫌が悪くなるのに、それでも私の姿があることが、ブレーキになっているとは、おかしいというか、なんでしょう、コレは?
自分の身体のことは自分で分かる、という説の人で、一生健康診断に行かないタイプです。
その癖、痛風の薬は欠かせないのですけど💦 (私的には「アルコールを自制できないために身体に無茶している」と思っています)

私たち夫婦はまだ(もう)70代半ばだし、そんな伴侶のアルコール制御のために、旅行ができないはないだろうと、もうちょっとひとり参加旅を続けたいと思っています。














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そういえば1年後です。

2024-10-25 07:56:26 | 健康
去年の10月上旬に心臓カテーテルアブレーション治療をしました。
順調に済んで、それからちょくちょく長旅に出ているので、まだ1年しかたっていないのね、という気持ちです。
今回は1年経過後の心臓検査でした。2週間遅くなったのは、旅行優先のため、予約日を変更してもらった💦💦
検査結果は良好。不整脈は出ていない。なんだかの脈は時々でているけれど、コレはそれほど気にしなくていい、らしい。
心房も小さくなっています、と。
もうずいぶん前から、心臓の写真を撮る機会があるたびに(めったに撮らないけれど)拡大している、といわれてきたのに、「小さくなっている」とは拡大がおさまってきているのだから、すごくうれしい。
「これで普通な並みになったのですね」と返す。
かかりつけ医を訊ねられたけれど、あるようでない。常備薬もないし定期的に病院に行っていない。
「今後は特定検診は受けるようにします」と応えてみたけれど、特定検診では不整脈の検査はしないので、役立たないと。
専門医としては、不整脈手術を受けた高齢者をその後の定期点検なしに放置しておくのはよいことではない、らしい。
なので、また1年後に同じ検査をするという予定を入れることにしました。
これで心臓に関しては、このお医者さんが主治医です。
で、消化器内科の予約も来月に入っています。
これも去年やったB型肝炎の検査の定期チェックです。私としては、同じ症状だった母親からの感染だとすると、母親が104歳まで生きたし、症状が特にない私は大丈夫だと伝えたのですが、専門医としては野放しにしておけないのでしょう。
肝炎についてもチェックが入るようになりそうです。
右目の調子も悪くなってきて、来月受診予約を入れました。
まぁ、こんな風にチェックを入れて点検しながら長持ちさせていく、ということですね。
なんだか車の定期点検みたいです。
そういえば、身体は乗り換えが聞かない自動車みたいなものだ、とどこかで聞いたような覚えがあります。
最後まで適正な手入れして乗りこなしていかなくてはね。
大事なことは、日々上質のガソリン(食事と運動)を補給することだとも思います。





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バルト3国、ポーランド旅 その9

2024-10-25 06:56:23 | 歴史探訪・城巡り
クラクフのホテルを9時15分に出発。
2連泊したホテル。枕チップとして相場の金額と(この国でしか使い道がない)細かい金額のズルチを置いてきました。


ヴィエリチカの岩塩坑へ向かう。バスで45分

坑内の気温は14℃前後で一定している。
11世紀から岩塩堀が始まり、18世紀には現在の形になっていた、とのこと。
13世紀から20世紀の半ばまで、ここで岩塩を掘っていた。
14世紀ころにはポーランドの財政の3分の1は岩塩からの利益といわれるほど国を支える産業だった。
地下64m から372m まであり9層にわたり、距離にして300kmになる。
動力として馬も活用されており、地下に降りた馬は死ぬまで坑内で働いた、と。
行き交うたびに鉱夫たちの交わす挨拶言葉は、おはようでもこんにちはでもなく、「神の御加護を」だったと。命がけの熾烈な作業の毎日だったと想像できます。


お土産に岩塩(2種類)を購入。
そのひとつは岩塩の白い塊がゴロゴロと入ったもの。岩石、鉱物好きの孫が興味を示すかな、と思って。
今回巡った地方のお土産品の王道は「琥珀」なのですが、装飾品の琥珀はお値段が高いし、廉価なものは本物かどうか? だろうと、買いあぐねていました。地下165m のところで17ズルチだった同じものが、地上の路上店で同じものが10ズルチでした。この値段の差はなあに?ま、地下で購入した思い出入り、ということにしておきましょう。苦笑



昼食はレストランで

クラクフの空港へ向かう。
乗継地はフィンランドのヘルシンキです。飛行機で約2時間

ヘルシンキから中部国際空港まで約12時間。
細切れにしか眠れなくて映画鑑賞2作品。
機内食は2度出ました。ディスプレイにあるマークの操作にも慣れて(苦笑)、途中で飲み物とスナックも注文してみました。多種類のワインなども選べるのですが、なにしろ下戸なもので私には縁がありません。


行きは北上して真っ白な雪で覆われたグリーンランを窓の外に垣間見ましたが、帰りはカザフスタン、中国の上空を飛びました。


中部国際空港で荷物の受取を待っているときに、ビックリが起きました。
なんと7月旅の時の添乗員さん(去年の5月の初めての一人参加旅で初めて出会って、非常にお世話になった方)と目が合いました。ええっ!
彼女は仕事中。ほんの少し会話しました。
私の姿をヘルシンキの空港で見かけたそうです。
彼女も同じコースだったのかしら(別会社だし、わたし不義理した?)と、一瞬思ったのですが、彼女はヘルシンキ経由でオーロらを観る旅の添乗をして帰ってきたところでした。
感激屋の彼女は涙ぐみ、奇遇を喜んでくださいました。



長々と綴りましたが、元気に旅行できたことの足跡として記しました。






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バルト3国、ポーランド旅 その8

2024-10-24 07:35:39 | 旅行・休養
昼食をレストランで済ませた後、バスで一路、アウシュビッツに向かいました。
いよいよです。

ガイドさんはアウシュビッツについての書籍まで出版されているという専門家の方でした。
アウシュビッツには第1収容所と第2収容所があり、まず第1収容所へ。
これがアノ(これまでに写真やドキュメンタリーで目にしてきたところ)、という思いが私の中に押し寄せてきました。
ガイドさんの説明は非常に重たい内容ですが、その重さをも含めたような声調での説明に引き込まれました。
「働くと自由になれる」というアウシュビッツの門のアーチ。木の葉で読み取りにくかったけれど、本物のコレの場所に来ているのだ、と。
私たちが歩いている舗装されていない通路も、連行されてきた人の強制労働によってできたものだから、そのままの状態で保存されています、と。たくさんの収容棟が立ち並んでいるけれど、ここに連れてこられたユダヤ人の70~75%の人は収容されることなく、そのままガス室に連れていかれたということです。

次にビルケナウの第2収容所へ向かいました。ここは第1収容所の7倍もの面積になるということです。
 

一枚目は各国首脳らが訪れると花束をささげるところとのこと。
線路が建物の向こうまで続いている画像は、アウシュビッツ強制収容所が語られるときによく目にする光景です。
ヨーロッパ各地から貨車に詰め込まれて運ばれてきました。耳に残っている話としては、ヨーロッパ各地からユダヤ人が貨車で輸送されたのですが、オランダからここまでは1週間もかかったとか。その間に与えられた食事はパン1斤のみ。飢えや感染症が原因で貨車の中で亡くなる人も多かったそうです。そして生き延びでここまで来ても、70~75%は直接ガス室へ。調理に使う食器類が山となって積まれている一室があります。移動先の生活のことを思って荷物に入れてきたと思うと忍びないです。
たとえ収容室に入ったとしても収容された人たちは常に飢えに苦しんでいました。ユダヤ人収容者の管理をするのもユダヤ人。同じユダヤ人収容者同士なのですが、仲間に厳しい仕置きをしたほうが食事がパン一切れでも増えるらしく、それを期待してエスカレートしていった、ということです。
ナチスドイツはいよいよ敗戦とわかると、施設の爆破をしたのですが、その一部しかかなわなくて、今もここに残っています。敗戦で瓦礫となった街の再建用の資材として使おうという動きもあったのですが、この地を訪れた生き延びたユダヤ人がここを訪問して、自分たちの苦悩の証として残したい、と思いが通って今に至っている、とのこと。
生き残ったユダヤ人の有志にりより収容所の保存がスタートしたということです。
貨車の実物も残っています。本当にニンゲンのやったことなんですね。
そして、今も戦闘が止んでいないのが現実。
出口のところにBOOKショップがあったので、日本語バージョンを購入。
2冊で約3700円。両替したけれどほぼ使っていなかったズルチ(ポーランドはユーロ圏ですが通貨はユーロではありません)で購入しました。

この見学した日に、日本人の原爆被団協の組織がノーベル平和賞に決まった、とガイドさんから聞きました。
平和を希っているのですけどね。



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バルト3国、ポーランド旅 その7

2024-10-24 06:44:40 | 旅行・休養
クラクフのホテルを9時に出発。
クラクフはポーランド第2の都市。人口80万人。人口の4分の1が大学生という学園都市でもあり、教会、大学が多い(こんなところ京都にも似ているかな)。
中央広場に面する聖マリア教会と織物博物館
  

石畳の街路を転んではいけないと注意しながらテクテク。名物と言われているパン(オブバシャネーク)のお店も街路のあちこちで見かける。ガイドさんの後を連れ立って歩く14名。ユーロ表示の価格表示を円換算しては、「高!」とつぶやいたり。円安だからね~。

バベル城


チャルトリスキ美術館
大きな手荷物はもっていなかったけれど、コートをロッカーに預けて(QRコード管理でした)入館。
館内の照明が暗くしてあるので、シャッターを使わなければ撮影OKだったけれど、私のスマホでは撮影が厳しい。

件のレオナルドダビンチの「白貂を抱く貴婦人」はメンバーからライン送信してもらった。後日付け足したいと思います。
肖像画はこの美術館の創設者のイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人(1746年~1835年)です。彼女はポーランドが消えた激動の時代(※)を力強く生き抜きました。そして祖国復活を願う男性たちが不当にポーランドを奪ったプロイセンやロシアと戦うのを見て、「私は戦うことはできないが、せめてポーランドの文化を守りたい」と、一家が所有する財宝の保護と一般公開を決意した、と
ちなみに、「白貂を抱く貴婦人」息子が美術作品好きの母親のために買い求めたものだ、と聞きました。
(※)ショパンやマリー・キュリーの時代にはポーランドという国はなかった、というのはここと重なるということなのでしょうね。もう少し勉強する必要があります。⇒ ワタシ

昼食はレストランで。

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