昨日の午前中に病院から電話があったので、と病状がより終盤になったことのメールが来て、電話でも話していた。
(病室には10分しか滞在できないらしい)
一旦帰宅して、再度病院から連絡あって駆け付けたところ、脈は止まっていたと。午後の1時のメールは死亡の連絡だった。
コロナで遠方から駆け付けるのはマズイだろう、という流れで、我が家の子供(孫)たちにはメールで連絡。
珍しく、即、息子から電話があった。
病院勤務だから、母の足指の多分壊死の状態などメールしたりはしていた。
仕事柄高齢者の死も多くみているだろうから、遠くはないとは思っていたと。
で、きっと、おばあちゃんは病院に入院していても、周りの人から慕われていただろうね~。どこへ行っても喜ばれる人だったと思うよ、と、懐かし気に話し込む。大学進学の際に我が家にやってきた以来、顔を合わせる機会がめっきり少なかったのに、息子の中のおばあちゃんのイメージはそんな風に定着している。
そういえば、脳梗塞で3か月ほどの病院生活の後、弟宅で暮らすことになったとき、弟の奥さん(Yさん)も、よく似たことを言っていたと思い出した。Yさんは長いこと教師をしていた人です。お母さんは入院していても、看護婦さんはたくさんの患者さんを担当しているけれど、ちょっと時間の余裕があったりすると、お母さんの部屋でゆっくり対応したりすると思うわ。患者さんとしても、いい患者さん、そばに行ってたい患者さんだったと思う、と語ってくれた。
なんという人(心の広いYさん)だろう、と思った。
沢山の生徒の相手をしてきたから、そこの微妙なところはわかるんですね。
そういえば、もう何十年も前のことも思い出しました。
弟(T)が、私にボソッとつぶやいたことがあります。
不思議なんだよ~。まったく、別の場所で、いとこのSちゃんとKちゃんから同じことを言われたことがある、と。
言った内容は同じ。
「僕にはお母さんが二人いる。自分の母親ともう一人はおばちゃん(私たちの母のこと)」
思春期から青年期にかけてのSちゃん、Kちゃんのココロの悩みのフツフツとしていた時に、彼らのココロの寄り添い役になっていたのでしょう。
そうだったね~。
まだいるかもしれない、母をかけがえのない人だと思っていた従兄弟たち。
私がまだ小学高学年の頃、母が従姉妹と真剣に話している風だった光景も覚えている。
近寄りがたい雰囲気で、なにも尋ねることはしなかったけれど、ずいぶん後になって、あの時はね、あの子は母親から結婚を猛反対されてギリギリの状態で、風呂敷包みひとつでもいいからといって結婚したんだよ、との話だった。その後、その夫婦は経済的にも恵まれて、母にも恩返しをしてくれていたと思う。
弟はたくさんの従兄弟たちの中の一番の年少なので、そんな顛末は聞かされていないし知らないと思う。
母のことを「おばちゃん」と(多分、自分の母親よりも慕うくらいに頼ってきていた人たちが、)あの人もこの人も、まだまだ知っている。ずっと、郷里から離れて暮らしているから縁遠くなっているけれど、おばちゃんに助けられた、という人がいるのを、ぼんやりと覚えている。
お葬式は、ウルトラ的にコンパクト。それでOKなのだけれど、昭和の40年代の頃の母とかかわった従兄弟たちを思いだしたら涙があふれてきた。
104歳の母よりも先に逝った人もいると思うけど、走馬灯のようにかつてのことが頭に浮かんできて、泣けてきた。
ほんのちょっとだけでも、「昨日、亡くなったよ」と伝えたい気持ちが湧いてきてしまった。従姉妹のHちゃん、おばさんが亡くなって(アメリカのツインタワーのテロの時がお通夜)以来、すっかりご無沙汰だけれど、連絡してみようかしら。
取り急ぎ。後日推敲。
(病室には10分しか滞在できないらしい)
一旦帰宅して、再度病院から連絡あって駆け付けたところ、脈は止まっていたと。午後の1時のメールは死亡の連絡だった。
コロナで遠方から駆け付けるのはマズイだろう、という流れで、我が家の子供(孫)たちにはメールで連絡。
珍しく、即、息子から電話があった。
病院勤務だから、母の足指の多分壊死の状態などメールしたりはしていた。
仕事柄高齢者の死も多くみているだろうから、遠くはないとは思っていたと。
で、きっと、おばあちゃんは病院に入院していても、周りの人から慕われていただろうね~。どこへ行っても喜ばれる人だったと思うよ、と、懐かし気に話し込む。大学進学の際に我が家にやってきた以来、顔を合わせる機会がめっきり少なかったのに、息子の中のおばあちゃんのイメージはそんな風に定着している。
そういえば、脳梗塞で3か月ほどの病院生活の後、弟宅で暮らすことになったとき、弟の奥さん(Yさん)も、よく似たことを言っていたと思い出した。Yさんは長いこと教師をしていた人です。お母さんは入院していても、看護婦さんはたくさんの患者さんを担当しているけれど、ちょっと時間の余裕があったりすると、お母さんの部屋でゆっくり対応したりすると思うわ。患者さんとしても、いい患者さん、そばに行ってたい患者さんだったと思う、と語ってくれた。
なんという人(心の広いYさん)だろう、と思った。
沢山の生徒の相手をしてきたから、そこの微妙なところはわかるんですね。
そういえば、もう何十年も前のことも思い出しました。
弟(T)が、私にボソッとつぶやいたことがあります。
不思議なんだよ~。まったく、別の場所で、いとこのSちゃんとKちゃんから同じことを言われたことがある、と。
言った内容は同じ。
「僕にはお母さんが二人いる。自分の母親ともう一人はおばちゃん(私たちの母のこと)」
思春期から青年期にかけてのSちゃん、Kちゃんのココロの悩みのフツフツとしていた時に、彼らのココロの寄り添い役になっていたのでしょう。
そうだったね~。
まだいるかもしれない、母をかけがえのない人だと思っていた従兄弟たち。
私がまだ小学高学年の頃、母が従姉妹と真剣に話している風だった光景も覚えている。
近寄りがたい雰囲気で、なにも尋ねることはしなかったけれど、ずいぶん後になって、あの時はね、あの子は母親から結婚を猛反対されてギリギリの状態で、風呂敷包みひとつでもいいからといって結婚したんだよ、との話だった。その後、その夫婦は経済的にも恵まれて、母にも恩返しをしてくれていたと思う。
弟はたくさんの従兄弟たちの中の一番の年少なので、そんな顛末は聞かされていないし知らないと思う。
母のことを「おばちゃん」と(多分、自分の母親よりも慕うくらいに頼ってきていた人たちが、)あの人もこの人も、まだまだ知っている。ずっと、郷里から離れて暮らしているから縁遠くなっているけれど、おばちゃんに助けられた、という人がいるのを、ぼんやりと覚えている。
お葬式は、ウルトラ的にコンパクト。それでOKなのだけれど、昭和の40年代の頃の母とかかわった従兄弟たちを思いだしたら涙があふれてきた。
104歳の母よりも先に逝った人もいると思うけど、走馬灯のようにかつてのことが頭に浮かんできて、泣けてきた。
ほんのちょっとだけでも、「昨日、亡くなったよ」と伝えたい気持ちが湧いてきてしまった。従姉妹のHちゃん、おばさんが亡くなって(アメリカのツインタワーのテロの時がお通夜)以来、すっかりご無沙汰だけれど、連絡してみようかしら。
取り急ぎ。後日推敲。