日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

バルト3国、ポーランド旅 その8

2024-10-24 07:35:39 | 旅行・休養
昼食をレストランで済ませた後、バスで一路、アウシュビッツに向かいました。
いよいよです。

ガイドさんはアウシュビッツについての書籍まで出版されているという専門家の方でした。
アウシュビッツには第1収容所と第2収容所があり、まず第1収容所へ。
これがアノ(これまでに写真やドキュメンタリーで目にしてきたところ)、という思いが私の中に押し寄せてきました。
ガイドさんの説明は非常に重たい内容ですが、その重さをも含めたような声調での説明に引き込まれました。
「働くと自由になれる」というアウシュビッツの門のアーチ。木の葉で読み取りにくかったけれど、本物のコレの場所に来ているのだ、と。
私たちが歩いている舗装されていない通路も、連行されてきた人の強制労働によってできたものだから、そのままの状態で保存されています、と。たくさんの収容棟が立ち並んでいるけれど、ここに連れてこられたユダヤ人の70~75%の人は収容されることなく、そのままガス室に連れていかれたということです。

次にビルケナウの第2収容所へ向かいました。ここは第1収容所の7倍もの面積になるということです。
 

一枚目は各国首脳らが訪れると花束をささげるところとのこと。
線路が建物の向こうまで続いている画像は、アウシュビッツ強制収容所が語られるときによく目にする光景です。
ヨーロッパ各地から貨車に詰め込まれて運ばれてきました。耳に残っている話としては、ヨーロッパ各地からユダヤ人が貨車で輸送されたのですが、オランダからここまでは1週間もかかったとか。その間に与えられた食事はパン1斤のみ。飢えや感染症が原因で貨車の中で亡くなる人も多かったそうです。そして生き延びでここまで来ても、70~75%は直接ガス室へ。調理に使う食器類が山となって積まれている一室があります。移動先の生活のことを思って荷物に入れてきたと思うと忍びないです。
たとえ収容室に入ったとしても収容された人たちは常に飢えに苦しんでいました。ユダヤ人収容者の管理をするのもユダヤ人。同じユダヤ人収容者同士なのですが、仲間に厳しい仕置きをしたほうが食事がパン一切れでも増えるらしく、それを期待してエスカレートしていった、ということです。
ナチスドイツはいよいよ敗戦とわかると、施設の爆破をしたのですが、その一部しかかなわなくて、今もここに残っています。敗戦で瓦礫となった街の再建用の資材として使おうという動きもあったのですが、この地を訪れた生き延びたユダヤ人がここを訪問して、自分たちの苦悩の証として残したい、と思いが通って今に至っている、とのこと。
生き残ったユダヤ人の有志にりより収容所の保存がスタートしたということです。
貨車の実物も残っています。本当にニンゲンのやったことなんですね。
そして、今も戦闘が止んでいないのが現実。
出口のところにBOOKショップがあったので、日本語バージョンを購入。
2冊で約3700円。両替したけれどほぼ使っていなかったズルチ(ポーランドはユーロ圏ですが通貨はユーロではありません)で購入しました。

この見学した日に、日本人の原爆被団協の組織がノーベル平和賞に決まった、とガイドさんから聞きました。
平和を希っているのですけどね。



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バルト3国、ポーランド旅 その7

2024-10-24 06:44:40 | 旅行・休養
クラクフのホテルを9時に出発。
クラクフはポーランド第2の都市。人口80万人。人口の4分の1が大学生という学園都市でもあり、教会、大学が多い(こんなところ京都にも似ているかな)。
中央広場に面する聖マリア教会と織物博物館
  

石畳の街路を転んではいけないと注意しながらテクテク。名物と言われているパン(オブバシャネーク)のお店も街路のあちこちで見かける。ガイドさんの後を連れ立って歩く14名。ユーロ表示の価格表示を円換算しては、「高!」とつぶやいたり。円安だからね~。

バベル城


チャルトリスキ美術館
大きな手荷物はもっていなかったけれど、コートをロッカーに預けて(QRコード管理でした)入館。
館内の照明が暗くしてあるので、シャッターを使わなければ撮影OKだったけれど、私のスマホでは撮影が厳しい。

件のレオナルドダビンチの「白貂を抱く貴婦人」はメンバーからライン送信してもらった。後日付け足したいと思います。
肖像画はこの美術館の創設者のイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人(1746年~1835年)です。彼女はポーランドが消えた激動の時代(※)を力強く生き抜きました。そして祖国復活を願う男性たちが不当にポーランドを奪ったプロイセンやロシアと戦うのを見て、「私は戦うことはできないが、せめてポーランドの文化を守りたい」と、一家が所有する財宝の保護と一般公開を決意した、と
ちなみに、「白貂を抱く貴婦人」息子が美術作品好きの母親のために買い求めたものだ、と聞きました。
(※)ショパンやマリー・キュリーの時代にはポーランドという国はなかった、というのはここと重なるということなのでしょうね。もう少し勉強する必要があります。⇒ ワタシ

昼食はレストランで。

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バルト3国、ポーランド旅 その6

2024-10-21 10:27:14 | 旅行・休養
追加しています。
ワルシャワのホテルで1泊。
これまで特に写してこなかったのですが、朝食バイキングはこんな感じです。果物は食べましたが、一貫して焼き菓子類は食べませんでした。


朝9時出発
これまではガイドさんの説明を添乗員さんの翻訳で聞いていたのですが、ワルシャワでは日本人ガイドさんでした。
流れるように(まさしく立て板に水の如く)解説してくださるので、聴く立場の私たちの気持ちも幾段がアップしたようです。
ナチスドイツの侵攻によるポーランドの建物はことごとくが壊されたけれど、ドイツ軍に占領された建物は自分たちが使うために爆撃せずに(受けずに)残っています、等の説明を受けながらワルシャワ歴史地区観光へ向かう。大戦後はソ連の影響下にあったので、そのころに作られた建物は地味で効率第一ですぐわかるという。

ショパンの像がある公園。


ショパンの心臓が奉られている聖十字協会。


ワルシャワの街並み。歩道にはショパンベンチが配置されています。ベンチについているボタンを押すとショパンの曲が流れます。
ベンチは夜来の雨粒で濡れていたので座れませんでした💦 これらのベンチは修理は頻繁に行われているらしいのですが、またすぐ故障するそうです。扱いが粗雑なのか、性能がイマイチなのか ? です。


ワルシャワといえば、もう一人の有名人、マリーキュリー夫人の生家もこの歴史地区のはずれにありました。現在は資料館となっているのですが、開館は12時からで、旅行の日程では入館をあきらめざるを得ません。建物前まで行ってきました。彼女の母親が寄宿舎だったこの建物の管理人をしていたので、キュリーはココで生まれ育ったそうです。大学もその後の研究生活もフランスなので、資料館としてはパリにもあります。ガイドさんの話では、最近はキュリー夫人と言っても、日本人添乗員から「目の見えない人ですか?」と聞かれたりして、世代ギャップを実感します、と。(ヘレンケラーと混同。時代ですね~)


時間は11時過ぎ。自由時間は1時間足らずあるもののキュリー夫人生家見学はあきらめ、ひとり参加の人と連れ立って、ワルシャワ旧市街広場の復元された建物内(第2次大戦関連の資料館になっている)を見学。4棟の建物の内部がつながっていて資料館になっています。


日本人ガイドさんからワルシャワの街案内で聞いた、『あっ、そういうこと!ね』を書き留めておかなくては。
私たち(私は)は、「ショパンもキュリー夫人もポーランド人で、、、」と思っていました。でも、ショパンの時代もキュリー夫人がこの街で暮らした時代も他国の占領下にあって、ポーランドという国は存在していなかった、ということ。そもそもショパンは若くして亡くなっているし。そうすると、あの「革命」という曲を作曲したときの思いは、、、と心を馳せたりしました。
隣接国が自分の住んでいる地域を統治しているという境遇は経験したものでないとわからないのでしょうね。幼いころに読んだマリーキュリーさんはソルボンヌに進学したけれど非常に貧しくて寒さをしのぐにも一苦労したとあったものです。
今は5年(4年?)に一度、ちょうど今の季節にワルシャワでショパンコンクールが開催され、世界中から音楽ファンが集まって街は熱気に包まれる、ということです。ショパンは後世に故郷の街に大きな役割を果たしています。

昼食はレストランで。またまた画像は1枚だけ💦 メニュー紹介の時は(好き嫌いがあるので 💦)メインディッシュに耳を澄ます癖があります。苦笑


昼食後にクラクフへ向かう。
クラクフは日本でいえば京都にあたる古都ということです。
クラクフの街は11~16世紀の終わりまでポーランドの首都でした。街のシンボルは竜で何かと竜がデザインされていたりしました。
18世紀にオーストリア領となり、いったんはクラクフ国として独立するが19世紀に再度オーストリア領となる。(オーストリア領とは、あのハプスブルク家ですね)


この街出身の著名人としては、クラクフ大学で学んだコペルニクス(1473年~1543年)がいます。
たまたま最近アニメ「チ。-地球の運動についてー」(フィクション)を観ました。コペルニクスより少し前の時代なのでしょう。15世紀の地動説が世に出ようとしている頃がテーマです。教会が社会の規範を教えている社会で、教会の意に背くことをにおわせるだけでも命を失ってしまう、なんという、、、、(拷問、生きたままの火あぶりの刑など)というシーンがたくさん出てきます。
市街広場をいくつも見てきたけれど、その場所は市場も開かれていたけれど、公開処刑も、、、と聞いていたので、あの場所が、、、と思い起こされたりして、言論の自由、民主社会の尊さをしみじみ思う、に尽きます。


クラクフには2連泊 肌着の洗濯が必須です。
食事画像2枚。


■ 旅日記がなかなか進みません。ギリシャや南イタリア、シチリア旅と違って、語られる時代が新しいこともあり、日本があの時代だったころのこの国では、、、といった想像ができるので、興味がより深くなるのかもしれません。
復習も楽し(有意義という言葉のほうが適切かな)です。

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バルト3国、ポーランド旅 その4

2024-10-20 07:25:46 | 旅行・休養
リトアニアのカナウスのホテルで1泊。
ホテルの前にも国旗。


朝9時30分にバスでカウナスの市内観光。カナウス城のあたりを巡っているときは、雨粒が落ちないものの朝もやがかかっていました。
カウナス城、旧市庁舎広場、ペルクーナスの家


昼食はレストランで。写真1枚。この赤かぶのスライスしたのが胃に優しいというか美味しかった。


昼食後にトラカイ城へ向かう。カウナスからバスで1時間20分
湖に面した美しいお城でした。


その後、首都ビィリニュスへ バスで約40分
ビリニュスのホテルは目抜き通りに面したところにありました。夕食前に数人連れ立ってショッピングモールへ。
通りへ出ると、目の前の広場でイスラエル軍のガザへの攻撃に抗議する集会が行われていました。パトカーが数台止まっていて、彼らの行動の見守り中。こんな集会やウクライナの旗を掲げている建物を目にすると、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザへの攻撃が今現実に起こっていることなのだと実感します。そういえばラトビアの占領博物館にひとりで入館したとき、自由に書けるメッセージボードがあったので、ちょっとだけ足跡を残してきました。

夕食はホテルのレストランで。
珍しく写真は3枚とっています。
シャッターを切ろうとすると「容量がいっぱいです」と表示されていたのですが、昼食時に若手メンバーさんに、その表示が出る原因をチェックしていただき、ストレージのうちで、不要なものを削除したので、気にせず写真を撮ることができるようになりました。ほっ。助かった~~。



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国境を越えてリトアニアへ

2024-10-19 08:12:57 | 旅行・休養
リガのホテルでテレビをつけてみる。

人口が200万にも満たない国で、テレビ番組はどういう風になっているのか興味があった。自国の専属放送もあるけれど、イギリスのBBCやフランスの放送が簡便にチョイスできる仕組みです。幼い時から多国語を学ぶハードルが低いでしょうね。
ホテルを朝8時に出発。リトアニアのシャウレイへ。バスで2時間40分
またまた草原。

十字架の丘を訪問。おびただしい数の十字架の山。出店で十字架を購入すれば祈りをささげることができる絵馬のようなものです。
遠足らしい小学生がたくさん来ていまた。売店には小学生のお小遣いでも購入できそうなお土産が並んでいて、日本の観光地とよく似ています。丘の途中に空き缶を前にしたおばあさんがいたのでユーロの小銭を入れてきました。



またまた草原をカウナスに向かってバスは行く。車窓の風景とレストラン。レストランのデザートがほぼ生クリームでとても食べきれない。こんなのが2、3回続く。この国の人は生クリーム好きなのだろうか。


カウナスは一時リトアニアの首都機能(首都ビリニュスが占領下にあったので)があったところです。
第2次大戦中に日本領事館の副領事に杉原千畝さんが赴任されていた領事館です。


領事館の安全が確保できないから退去するようにと日本の外務省から指示が来て退去するその途中でも、命のビザ(通行証)を書き続けたというカウナス中央駅も訪問しました。建物にウクライナの国旗も。バルト3国ではウクライナの国旗を掲げているところが頻繁にみられました。自国にとっても切実な問題なのだとひしひしと伝わってきます。


この時もまだ、スマホの画像の「容量がいっぱいになっています」の表示が出て、シャッターが切れないことがしばしばで、古い画像を消去しながらやりくりしていました。私の反省事項です(´・ω・`)

カナウスのホテル着
ホテルに到着後に近所のスーパーマーケット(MAXA)に買い物に。海外旅行ベテランの皆さんは手慣れたものです。うっふふ
わたしも大分慣れてきました。








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タリンを半日観光して隣国のラトビアへ

2024-10-17 07:38:29 | 旅行・休養
再度の追加あり
タリン空港で待っていた大型バスに乗ってタリン歴史地区へ。
ツアー客は14名なのでいつもゆったり利用です。
トームペアの丘へ直行。メモ用に持参しているボールペンのインクが出ない、ハッ! お土産店の中を巡っているとボールペンがあったので、さっそく調達(2ユーロ)。今もESTONIAの文字入りのボールペンがPCデスクの目の前にある。ほっ。

トームペア城


次はアレクサンドル・ネフスキー教会。

みてから旧市街へ。
(行く先々で教会を観たので、その名前は旅のしおりに雑記したメモをみないと出てこない💦)

デンマークが支配し、その後はスェーデン、次にロシア、そのあとにドイツと占領されてきた過去を持った国です。

リガの街角に立つ自由記念碑に込める思いの重いことを想像する。


レストランにて昼食。またまた画像を撮り忘れで、最後のデザート1枚だけ💦


昼食後に隣国ラトビアのリガに向かう。約300キロ、5時間余り 車窓から見える光景は緑一色。牧草地なのでしょうか、野菜など耕作されている感じではありません。
 

夕食はホテルのレストランで。
このホテルに2連泊なので、まだ1日分だけれど、とりあえず肌着、靴下を洗濯し、「don't disturb」にした。
部屋の窓から見えた景色。

数人で近所のスーパーマーケットへ。
海外旅行通の皆さんなので、こんなお店でサクサクとお買い物。

翌朝(10月6日日曜)
朝9にホテルを出発。ダウガヴァ川に川霧が立ち込めていて、気分は異国を旅してる~というモードになる。ノーム注意報が出ていたらしい。
バルトのベルサイユと言われる『ルレンダー宮殿』(1736年~40年)へ ルレンダーは首都リガから1時間余り。

ロシア女帝アンナの寵愛を受けたビロン公の建造。アンナ女帝没後に次の皇帝の摂政になるもまもなく失脚。後年親ドイツ系のピョートル3世が即位すると再び宮廷に呼び戻され、エカテリーナ2世から公爵位を授かる。
第2次大戦での爆撃は受けていない。しかし建物は倉庫やその他施設として利用されており、かつての宮殿として装飾等を復元したもの。
宮殿内のレストランで昼食だったのですが、画像は1枚だけ💦


昼食後リガに戻り、歴史地区(世界遺産)観光をする。
旧市街、大聖堂


聖ペテロ教会


ブラックヘッドギルド。外国人商人のために建てられた集会所です。ハンザ同盟の施設。元の建物はナチスドイツにより破壊され再建されたものです。


スェーデン門 


ラトビア市庁舎広場の「占領博物館」
この日の見学後(夕方5時ごろ)1時間ほどの自由時間となった。近くに占領博物館がある。入館したいな、と思ったけれど、時間が時間だししまっているでしょう、と諦めがちに添乗員さんにボヤいたら、聞いてみましょう、と言ってくださり、建物へと向かう。
閉館は6時なので、全体の見学には時間が足りないけれどそれでもよかったらOK、とのことで、ここで見学しないと後々後悔するだろうと思って、ひとりで見学することにした(8ユーロ)。展示写真を観ながら、グーグル翻訳機を使いながら、いくつかの説明、解説を読んで回る。第2次戦争時のラトビア人のおかれた立場の悲惨さを知る。
占領博物館というネーミングをつけること自体に、この国の経てきた過去の悲惨さが推し量れる。
兄弟でありながら、かたやドイツ軍兵士、かたやソ連軍兵士と反目する立場で戦場に駆り出されたケース。スターリンのポスターに銃弾を撃ったということで長期拘束されたとか。プロパガンダが徹底しており、国際語であるロシア語が奨励され、ラトビア語では職に就くのも不利益な状況。だからバルト3国の人たちはロシア語が使える、とのこと。
そして、いまも隣国ウクライナとロシアで戦闘が行われており、意図せずに戦士にならざるを得ない人が出ていると思うと悲痛な気持ちになります。私たちはなぜ学習できないのか、と。

話は飛びますが、タリンでの女性ガイドさんもリトアニアの女性ガイドさんも、1989年8月23日に行われた人間の壁(3国約600万人のうち4分の1の人が参加したという)に加わったとのことでした。
人間の壁は3つの国の首都タリン、リガ、ビリニュスをつなぐ約200キロに及んだそうです。私はテレビニュースで見ていた記憶があります。
その後の90年代早々に3つの国は独立することになります。

ホテル着後に外のレストランで。相変わらず写真は1枚。


この旅の間に、メインディシュが鶏肉料理というケースが4回ありました。トホホ
1度は別メニューを頼みました。
メニュー表には4種類。そのうち下から2番目のハンバーグセット16ユーロ(約2600円)。
ビーフステーキ系も2種類あったのですが、前の旅のビーフステーキ以上のものは期待できそうもなくて(あの時は最高でした!)、がっかりしたくないので、下から2番目をチョイス。出てきたハンバーグセットをみた皆さんは「おいしそう」と言ってくださったのですが、ボリュームがありすぎで食べきれず。カリカリに揚がったフライドポテトを皆さんに食べてもらいました。
別メニューを追加してもそれほどの満足も得られないし、、、ということで以降は、チキンはメンバーさんに食べていただき、私は取り合せ野菜類だけを食べることにしました。ベジタリアンという人たちもいることだし、これでなんの不都合もありませんでした。






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10月13日夜にバルト3国、ポーランド旅から帰国(帰宅)しました。

2024-10-16 10:02:21 | 旅行・休養
日曜日帰宅。翌日はジム、火曜日は仕事と普通の生活に戻っていますが、10日間旅の振り返りを残しておきます。

空港集合時間は20時20分。時間に余裕をもって自宅を出発。スーツケースは前々日に宅急便で発送済みなので持ち物はデイバックだけ。前回と同じ空港なので、手荷物の受け取りも、ツアー受付にも慣れてはいます。というか、添乗員さんも各自に搭乗手続き書類一式を渡すと、各自でチェックイン済ませてきてね、という感じ。もし海外旅行ツアー参加が始めてだったら心細いだろうな~、と思ったりした。スーツケースを預けてきて、次は搭乗ゲートの番号と時間を各自に確認して、それぞれ自由行動。飛行機の出発は22時50分。

税関審査後はラウンじにいく。7月にもラウンジを使っているのですんなりと行けた。ひとり旅っぽい人に声を掛けたら、同じツアーだとわかって同席しておしゃべり。7月に南アフリカへ行ったと言ったら、彼女は先月(9月)に南アフリカに行ってきたそうだ。マイナーな旅先だと思っていたので、ビックリ! おどろくほど頻繁に海外旅行に行かれている方だとわかりました。
ま、ひとりでも話せるひとがわかると心強い。
ラウンジはアライアンス毎に違う。彼女は別の旅行会社のラウンジよりココがいいわ、とは言ったけれど、私は別会社のほうが品数豊富だった記憶が、、、。ま、口にはしませんでしたけれど。

航空会社はフィンエア。クロアチア進攻があってからロシアの上空が飛べなくて、目指すヘルシンキは北極海周りとなりました
約13時間。ヘルシンキから待ち時間約3時間。乗り継いで約30分でエストニアのタリンへ。
 

ヘルシンキ行きの13時間で2回の食事があります。写メは1枚だけ。コレは着陸1時間ほど前の朝食バージョンだったと思います。
途中映画鑑賞2本。字幕付きか日本語吹替じゃないとアウトなので選択が限られます💦
最後の1枚はタリン空港を出たところ。人口130万ほどの国なのでこじんまりとした空港でした。




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いよいよ旅行モード。

2024-10-02 07:12:40 | 旅行・休養
昨日は出勤日。週1とはいっても、やるべきことはやらなくては。
で、帰宅後は今週の金曜日深夜の出発です。いよいよ旅行モードになっています。
昨夕に添乗員さんから確認の電話。気温は日本より寒いとのこと。2月上旬の地中海旅の寒さ、7月下旬の南アフリカ旅の未明のサファリツアーで車を飛ばした時の風の冷たさ、を反省しているので、今回は備えているつもりです。
スーツケースは今日中に宅配便で出します。スーツケースの中はまだ余裕あり状態ですが、はて、忘れ物はないか? の心境。

添乗員さんに質問したのは参加メンバーのこと。ツアー参加者は14名、ひとり参加は5名、ビジネスは4名、とのことでした。
そういえば男性女性は聞きませんでした。
想像ですが、ひとり参加者が5名ということは、残りは9名だから中には3人参加の方もいらっしゃるということでしょうか。
私はビジネスだから、私以外にもひとり参加のビジネスの方がいらっしゃるということですね。これまでも機中でツアーメンバーと連れ合うということはないのですが、ちょっと気になります。ま、いいか、ですけどね。

今日は美容院に行く予定。買い物もしておきたい。今日も明日も普段通りにジムにも行きます。
ふたり家族なので、食事や洗濯は手抜きできないけれど(お掃除は結構手抜きしています💦)、使える時間が多いとは思います。
加齢により(💦)テキパキはできなくなっているのでしょうけれど。

バルト3国でも歴史地区巡りだし、ポーランドでは大悲惨な場所の訪問。人が編んできた歴史に触れる旅です。あまりにも酷すぎることをしたのもヒト。そして未だにやむことがなく戦争となってしまうのもヒト社会なんですね。










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元気なうちの海外旅 バルト3国とポーランド

2024-09-09 07:31:13 | 旅行・休養
連日のように旅行のパンフレットが届く。
その中に、アウシュビッツ見学のコースがあるのを目にした。行こうと思えばこの私でも可能なのだ、と思ったらしきりに行きたくなった。それが6月ごろだったかしら。
バルト3国とポーランドを巡る10日間の旅。体力的には10日が限度、というかそれで充分という心境です。フィン航空なので中部国際空港からヘルシンキまでひとッ飛び。そこからバルト海を挟むエストニアに飛びます。そのあとラトビア、リトアニア、ポーランドと南下します。
日々ざわざわしている生活なので、ザザッな下調べなのですが、3つの小国にそれぞれの言語があるというのは、市場は限られてくるので経済はどうなっているのかしら? EUに加盟しているからそこのところはクリアできているのかしら。興味があります。
そういえば、と思い出して、検索してみました。

人間の鎖

バルト3国の独立

私は70代なのでリアルに1989年のころのニュース報道の記憶があります。もう35年たっているのですね。あの鎖に加わった人たちも35年経過してまだまだ社会で活躍中のことでしょう。
そういえば、ベルリンへ旅した時は2000年ころでした。ガイドさん(名前はマジィダ?さんだったかな)が東西ドイツが統一されて10年になります。今ベルリンのあちこちで工事中が目立ちますが10年後にもう一度訪れてください。きっともっと復興したベルリンになっていると思いますので、と。もちろんその後のベルリンにはいっていません。
あの人間の鎖を作ってソ連からの独立を勝ち取ったバルト3国の35年後を訪問してきます。ロシアとウクライナが今の状況で、と気がかりでないこともないですが、行くことにしました。

ポーランドでのメインはアウシュビッツ見学です。小心者なのにあえてそこに、と声がかかったりもしますが、修学旅行であり社会勉強です。ツアー旅です。ドキュメンタリーではしばしば取り上げられる内容ですが、普段話題にすることがないテーマなので、この旅に行こうと思ったメンバーはどんな人たちなんだろう、興味があります。




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南アフリカ旅 その4

2024-08-22 10:18:40 | 旅行・休養
追加あり

7日目
いよいよケープ半島観光。好天に恵まれ最高の日よりでした。気温が低いので私は厚手のダウンコートです。


途中、ネルソンマンデラさんが27年間も拘留されていた島がこの方向にあります、とかの説明を受ける。南アフリカの辿ってきた歴史は厳しい。

ボルダーズビーチではたくさんのアフリカペンギンにも出会いました。
  

海辺が見渡せるレストランで昼食。コースはいつも前菜、メイン、デザートなのですが、写メをしたりしなかったりで雑です💦


その後、ウォーターフロントへ。


ホテルもあるという大きなショッピングモール街を自由行動。指定された時間に所定のレストランで夕食。

ここのステーキは絶品でした。各人に焼き方を尋ねられるのですが、「ミディアム」と応えると、ミディアムのうちでもレア気味なのかウエルダム気味か、ど真ん中のミディアムか、とまで確認。ど真ん中のミディアムにしたのですが、分厚いお肉なのに焼き具合は見事。ただし250グラムは食べきれませんでした。もったいな~い。

8日目
好天続きだったのに、この日は雨模様。
バスでカーステンボッシュ植物園に向かう。途中でボーカーブ・マレー地区に立ち寄る。
インド航路の貿易が盛んな頃に香辛料などの商いの中継地となっていたころの街。インド、マレー半島からの労働者が住んでいたところは、現在カラフルにペイントされて保存地区となっています。

冷蔵庫もなかった時代、肉の防腐効果としても香辛料は必須だったのでしょうね、

ケープタウンの街をバスの車窓から。
ケープタウンの市庁舎。ネルソンマンデラ氏が市庁舎で演説したときの像が市庁舎のバルコニーにありました。ここでの演説に世界中からも首脳が集まったとのことでした。


珍しく食事(ランチ)のコース画像があるので。前菜とメインとデザートです。メインディッシュはチキン。わたしがあえて伝えなくても、添乗員さんの配慮でフィッシュに変更されていました。それでもボリュームがあるクリーム煮風ソテー食べきれませんでした💦


ケープタウンから国内線でヨハネスブルグまで移動。旅の最後の宿は帰国便の空港が近いヨハネスブルグのホテルです。
空港に向かうバスの車中からバラック建ての集落が見えます。こんなエリアを何か所も目にしました。


空港近くのホテル着。
出国のための空港の近場のホテルと聞いていたので、スタンダードレベルのホテルかと思っていたのだけれど、十分にリッチなホテルでした。画像なし。
一旦荷物を部屋に置いてホテル近くのカジノエリアの高級ホテルレストランで最後の夕食。メインのお肉のステーキは前日よりさらにボリュームアップの300グラム。お肉好きさんだったら大喜びだろうけれど、とても食べきれません💦(もったいない)
そのレストランは誕生日にあたるお客様へのお祝いセレモニー(なんという表現したらいいのかしら)をやっているレストランで、私たちのツアー参加者のおひとりも誕生日該当者だったので、レストランスタッフの大勢の皆さんの合唱+プレゼントデザートもあったりして祝ってもらえました。

9日目
朝8時半にバスでホテルを出発、ヨハネスブルグ国際空港へ。
南アフリカの街中ではクレジットカードは使えるけれど、自国通貨ランドだけで米ドルは使えません。でも空港の免税店では米ドルOKとのことで、ここでの買い物で持ち合わせている米ドルを使おうと商品選びしました。レジで20ドルと言われてので、10ドル紙幣を2枚出して「ちょうどよかった~」と思っていたら、何のことはない、南アフリカ通貨のランドコインでおつりが返ってきました。
「!」店員さんは旅行者にわかりやすいように、米ドル紙幣〇枚必要ですよ、といったわけです。ちょうどぴったりじゃなかった、というわけ。まぁ、私も一緒にいた人の参加者さんも「アララ!」とは思うものの、細かいことは言えません。💦
で、もらったおつりは、添乗員さんにもらってもらいました。彼女はまた南アフリカに来るでしょうから。

11時20分発の飛行機でヨハネスブルグから香港に向かう。(飛行時間12時間40分)
機内では疲れが溜まっていたいたのかトイレの回数が多くなる。1列シートなので助かる。
映画をみる時間もたっぷりあるのだけれど、日本語字幕付きか日本映画に限られるので、見るとしても片道でせいぜい2本ぐらいでした。

10日目
香港着。乗継時間約4時間。
行くときにも立ち寄った空港なので、ちょっとは勝手がわかった(かな? 苦笑)。
お土産を買うという気持ちもないので、休憩したくてラウンジに向かう。ビジネスクラス用のラウンジは4つある。「行き」の時は広い空港内を探すのに手間取った。今度はスムーズにシャワーありのラウンジを見つけることができた。
シャワーは順番待ちだったのでパス。シートに腰を下ろして一息つく。香港なのだから麺類があるハズとウロウロ。担々麺とワンタンメン(いずれも小サイズ)をお腹に入れる。麺は日本のものとは違っていたけれど、ようやく口にした汁物にほっとした。

香港から中部国際空港へ(飛行時間約4時間)
ヨハネスブルグから香港までの(赤道を超えての)長時間と比べたら気楽な感じのフライトでした。


去年の海外旅の際に、南アフリカへ行った方々がおられて、「南アフリカは黒人の国だと思っていたけれど、白人が多いのでイメージ変わった~」というような言い方をしていらした方があった。
そういうものかな、とも思っていたけれど、ヨハネスブルグの観光がないコースだったからでしょうか、私が廻った今回のアフリカ旅で接した方々は、空港でも、観光先でも、ホテルでも黒人の方でした。白人の方いらしたかな?(思い返せば、8日目のカーテンボッシュ植物園のガイドさんが白人の方でした) そんなイメージです。そして言語は英語。皆さん母語はあるのだけれど、外国人との会話は英語で、ということです。添乗員さんと現地ガイドさんは英語だけれど、ガイドさんが地元の人と話しているときは現地語だった(添乗員さんにもわからない)と言っていました。ホテルやレストランのシステムは私たちが利用しなれているシステムとほぼ変わらず、です。世界各国との交易がますます盛んになり経済発展の勢いがついていくのだろうな~、と思いました。
朝、ホテルのラウンジでの集合時間を勘違いして早めに来てひとりウロウロしていたとき、なんとかメンバーの部屋に電話をつないでくださったり、お客様に対応してくださる気持ちは一緒。解決してニコッとなる表情も国は変われど一緒です。
よい旅でした。
スマホの写メ撮りがずさんだったのか反省点かな。でも、写メをとるのが目的じゃないから、と自分に言い訳したりして💦

















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