日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「偽装請負」・・・そう表現すればいいのでしょうか。

2006-07-31 13:15:38 | 社会問題
働けど働けど我が暮らし楽にならずじっと手を見ている「啄木」があちこちに。
朝日朝刊一面トップで、あの御手洗さんのキャノンの名前があがっています。
以前に工場の改善・合理化を取上げていたテレビ番組で、キャノンの大分工場には、廊下を歩く速度を感知する設備が備わっており、移動に要する時間まで管理されているとありました。そこまで人を信用していないのかと、距離を感じたものです。

さて、一面トップの「偽装請負」この表現に、頷きました。
先日であった事例。
「3ヶ月の研修後はA社の正社員になります」といっていた彼がなったのは、社員ではなく、毎月働いた分だけを会社に請求して給料を貰うシステムだったのです。
「『請求書を自分が発行して、働いた金額を受取る』これって、社員じゃないよ」
「…派遣なのです」
「どこかの派遣会社の社員になったの?」
「…いいえ」
派遣会社という組織でもなく、彼はひとり親方の形で、そこの会社の仕事だけをするのです。
基本給(正しくは給与ではないはずでが)は低く抑えられていて、仕事を多く任されると歩合が増える仕組み。
仕事がないと、当初の想定の半分以下。
勿論勤務労働ではないから、深夜労働であっても、休日が極端に少なくても、本人が望んで仕事を請け負っているわけだから、させている会社がとがめられることはない。
ワーキングプアの集まりだから、歩合の仕事を欲しがって群がるのですが、そこではまた人間の常で、嫌われたら仕事が回ってこないというのも現実らしい。
よく私たちが耳にする会社なのに、同業他社との競争に勝ち残るために、ここまでしているのかと、開いた口がふさがりません。
かつては、職人とし技術を身につけるとか、この業界で10年20年とかの言い方があったけれど、マニュアルを叩き込んで、即戦力。不要になるとハイおさらば。
丁稚も番頭も遠いとおい昔です。
この現実を目の当たりにしていたものだから、「偽装請負」という表現を目にして、頷きました。
そしていろんなところでの現実だったのだと実感しました。
まさしく、ワーキングプアの世界です。

「カイゼン」は国際語になったとか、人間性回帰のためのカイゼンも大きな課題にして欲しいものです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニュースの隙間から

2006-07-27 07:55:42 | 社会問題
子供を橋の欄干から落とした経緯について、ニュースは「…ということが判りました」と、逐一知らせています。熱心に耳にしているわけではないので、というか、アナウンサーの真剣に伝える表情を見たくないので、むしろ遠ざけています。

ここからは、想像の話になるのだけれど、その人を「彼」とします。
「彼」は小さい頃から、学校の勉強にもついていけず、例えば、当用漢字も読み書きできず、数字にも弱かったり、物事を整理して考える生活習慣ができていない場合。
「彼」は約束が守れず、忘れ物が多いでしょう。何を約束しているのかを理解して約束するといより、目の前の人の求めることに応じることが「いいこと」と理解している節があったりもするから。
約束を破ったことを追求されると、「彼」は、多分「ウソ」を言うことで、その場から逃れようとすると思います。叱責が嫌なのは誰でも同じですから。
「ウソ」が度重なり、周囲は「彼」のいうことが信じられなくなり、その結果、必要とされなくなり、疎まれ、悪意で利用しようとする人が彼に近づいてくる。子供の頃からそんな位置付けで育っている人たちがいるのではないでしょうか。
30歳の人たちの中にも、50歳の人たちの中にも。
多くの人たちは、何故あんなことをするのか、何故見え透いた「ウソ」をつくのか、信じられないと、言います。
だけれど、本人にも説明できない、そのときの「彼」にその行動をさせてしまう理由があるのでしょうね。
これも「社会的弱者」のありよう。
だから他人に危害を加えたことを正当化できるものではありません。
社会は、数字に弱い人にも、お金を借りてでも消費が可能なことを呼びかけ、立派な車を持つことをステータスと宣伝しています。
そんな社会にあって、数字に弱い、物事を整理して考える生活習慣のない人たちは、容易に物を揃えることで、みんなと一緒にになれると思うのではないでしょうか。
他に自信がない分、より一層、人と同じ物を揃えなくてはと考える気持ちが強いかもしれません。
繰り返しますが、人を傷つけることは、絶対に正当化できるものではありません。
だけれど、文字で説明してあることが理解できず、金利が高いといっても、それがどこまで高いのか、何と比べて高いのかも理解できずに行動する癖がついている人たちのことを、私たちも報道する側も、ちょっと想像してみてほしいな、そう思ったりします。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「蛇イチゴ」を見る。

2006-07-25 06:05:41 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
普通の家庭、どこにでもあるはずの平凡な家庭、を謳い文句に幕は上がるが…。
サラリーマンにしがみつこうとしているらしい一家の主。
痴呆の舅の介護に愚痴をこぼすべきではないと、それも主婦の仕事と受け入れている妻・母。
自分の信じるところを子供たちに向かっても語りかける、スタンスのしっかりとした小学校教師の娘。
幕が上がって、実は平凡な普通の家庭は、仮の姿であることが次々と。
そこに救いの神現る、かと思いきや、インチキな世渡りをしている勘当息子。

筋運びに間延びしたところがないから、好感が持てる。音楽が流れない。
日本の映画でも、こんな作り方する映画があるのね、先日見た中国の監督チャン・イーモウ風に感じる(さては音楽不得意かななんて思ったり ※(笑い))。

後から、調べてみると
2004年28才の西川美和監督の初作品とのこと。脚本も彼女とのこと。

リストラされた50代の男の映画。
痴呆老人の介護にあけくれる主婦の映画。
親に感動された不良長男の映画。
どれも、どの切り口でも映画は作れそうです。
そして、この作品は世間では普通に見えるだろう家庭に育った、若い女教師の目から見える家庭を描いていました。

インチキ・嘘っぱち・犯罪の世界に生きる「お兄ちゃん」、遠くへ追いやってしまいたい存在なのだけれど、兄妹である証、それが幼いときの共通の思い出「蛇イチゴ」という設定。

※ 大学出たての頃、一度だけ、中学生の演劇指導(脚本選びから、演技指導まで一切全部)をしたことがあります。そのとき、そういえば「音響」というものがあった、とは思ったけれど、音楽音痴だからさっぱり自信がない。音楽の先生にお願いして、ストーリーを説明し、曲を選んでもらった経験があります(苦笑)。覚えています「ムソルグスキーの禿山の一夜」の頭の部分。
立派な東京のある区のホールで、さて当日上演の段になり、専門の照明係さんから指示を求められて、ここでもさっぱり判らない。
いくつかの照明のバリエーションを披露してもらったけれど、やっぱりストーリーを説明して、「おまかせ」してしまいました(苦笑)。
大賞は、あの「夕鶴」を演じたグループだったけれど、参加チーム監督の誰かが、うちの演じたのが賞を取るのなら納得だけれど、なんて小さく伝わってきたことが、私を「にんまり」させたものです。…「お世辞に弱い」は私の特徴です。
「十を知って一を教える」べきところを、「一を知って、二か三に膨らまして教えていたレベルでしたけれど」(またもや苦笑)
だから、音響のない映画に出会うと、あの時のことが思い出されるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先輩達の子産み・子育てエピソード

2006-07-22 08:36:02 | 私の雑感あれこれ
思考は容易に時代をさかのぼることができます。言葉には出さないけれど、なんども脳裏を去来する話があります。
そんな中のひとつです。

30年程前、私が住んでいた集合住宅の周りを、はじめての乳飲み子をあやしながら散歩していた時に、語りかけてくださった50代の女性の話。
「赤ちゃん、お母さんに抱っこされて幸せね。うちの子はね、親不孝な子だったわよ」と。
嫁ぎ先の農家の田植え時、赤ん坊は土手の籠(赤ちゃんを入れておく専用籠、名前があったと思うが…)に、入れて、私も田植えをしなくてはならなかったの。慣れない田植えで、しんどくてたまらないのに、土手の赤ん坊が泣いてくれたら、お乳をやるために休めるのに、まったく、うちの子は泣かないの。私辛くて、土手で休みたいのに…。お乳をやること、子供と一緒にいられることが楽しみだったものよ」彼女は過ぎ去った2,30年前を新米ママの私に語ってくださった。
「奥様お幸せね。赤ちゃんを存分に抱っこできて」

もっと、以前に聞いたこれも嫁の話。
3人目の子供を妊娠中、あまりにもつわりがひどくて、少し横になったの。
そしたら、お姑さんが、そんなに辛いのなら、○○医院で堕ろしてもらって来い。
戦争中の生活を支え、精一杯しのいできたのに、少し横になることも責められたと。あの時は悲しかった。と、その言葉が耳を離れない。

妙にこんな記憶ばかりはいいものだから、何の役にも立たないかも知れないけれど、ここに書き残しておきます。
私たちの国の母達は、こんな中で子供を産み育ててきたのだという記憶として。

先日、自分のかかわっているボランティア団体で、インドの暮らしで女性が知恵を絞って貯金することができるようになると、一家の中でも発言権が…、との文章を編集していたら、インドの女性の地位は、どうなのかしら、そこを説明してもらわないと、判らないのでは…、という意見もでる。
そりゃ、(本で情報を仕入れたり)インドのニュースを30年見聞きしてきた私たちと、白紙状態の若い世代では、語っていても通じないのだろうなと。
自分の暮らしを平均とするところから理解が始まっているから、不足することを知らない日本の若い世代には、私たち以上に想像が困難なのでしょう。
そんな「かみ合わなさ」は、いつの時代も、同時代であっても、たどった経験や本などで仕入れた情報の違いで、当然のことなのかもしれない。
次々と世代が若返り、かつての生活があり、今があるということがなかなか伝わらない。

どなたが読んでくださるかわからないけれど、先にあげたふたつの話。
私より更に以前の、2,3世代以前の、この国の女性が体験した現実です。
その世代があって、今がある、そう考えたものです。
ちょっと小耳に、の先進国ではなかった頃の話です。






コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パステルと白墨

2006-07-20 07:42:17 | その他
パステルでの絵を描きはじめました。
あのドガが踊り子を描いたパステル、のハズです(画材が同じでも…、笑い)。
でも、初めてなのに、描いていて、昔懐かしい気持ちもするのです。
ほら、黒板につき物のチョーク。白墨。そして、色チョーク。あれの雰囲気です。
昔、白墨で絵を描いたものです。そして、生活の身近にあった炭でも描きました。
筆を使わず、手で描く、この気分が郷愁を誘うのでしょうか。
指先で、ちょっとぼかしを入れたりするのは、あの「ぬりえ」で、女の子の頬をほんのり染めるときの気分。
あー、思えば、よく描いたものです。
記憶のひとつ。
それは落書きです。釜戸のたきつけを入れる木箱(側面が1m×1.5mはあったでしょうか)に、白墨で描いたときの気分覚えています。
縄跳びをする女の子の絵。
幼い私は考えました。
…確かに縄を飛ぶときは、足がまっすぐじゃないはずだから…。
そう言うわけで、足はカーブしています。でもなんかカーブの具合が変なのに、確かに飛ぶとき、棒たちではおかしいと、年端もいかない私は、棒たちでない女の子を描いた自分に納得していました。
でも、カーブが変…なのです(笑い)。
昭和30年頃の台所の暗がりにあったその木箱の絵、誰も消すことも無く、小学校に進んでしばらくたつと、その「一生懸命描いたのに変な足」のなぞは解けて(今でも再現できます)、クスッと自分に笑いました。

油彩、水彩からパステルへ、なんか白墨に似て、先祖帰りしているようで、指の感触が懐かしいのです。
只今休眠中の「私のスケッチ帖」にパステル画も加えようと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤愛子著「血脈」を読んでいます。

2006-07-19 06:32:19 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
血脈、佐藤愛子さん(大正12年生まれ)の65歳から12年間かかって書き上げた(多分どこかに書いてあった)大作、「血脈」上・中・下の現在上・中を読了。
彼女の家系、父佐藤紅緑の家庭事情、係累の盛りだくさんの人生模様です。
初めて読んだのは、連れ合いの破産がらみの話を書いた「戦いすんで日が暮れて」だったこと、いくつかのエッセーなどの小文などから、おぼろげな家庭事情を知っていたのは、きっと彼女の物を書くスタンスが、育った家庭を書くこと、自分の暮らし、親子関係を書くことをテーマにしてきたからでしょうね。
さて、これは大作。何故こんな話をオープンにするのか、そこの神経は判りません(親兄弟の名を使って、お金を得ようとするのが、この家庭の子供たちの特徴だったりして)。
明治40年代から、文芸・文壇で一世を風靡し、湯水のようにお金が入ってくると、人はこんな費消の仕方をするのかという、見たくない見本のような話です。
まぁ、お金が無くても、溢れる感情で路線を逸脱するタイプなのかもしれませんが、生き様に品格が見られないのです。我がままで品格の無い人が、子供を育てるとこうなるだろうという見本を4人の息子において実践しているところが、すごい。
一族は世間に対しては、名士である紅緑の息子、サトウハチローの弟であることで自分を大きく見せることにおいては、なにも違和感を感じず、ウソ・ペテンもまかり通ればもうけもの、という発想。戦意高揚の作品を書きながら、自分が戦争に行くには恐れおののく…。書いていることと本意と違っていても、そこの矛盾は無問題の神経で一貫している。サトウハチローの詩と佐藤八郎は違うということを、私たちは、ここまで欺かれていたのかと、それを知らされた気分です。
紅緑氏も、ハチロー氏も、そして愛子さんも、文章は滑らかです。
佐藤一族の中で、ひとり自分の世界をもっているかのように書かれている、彼女の母親シナの影響が強い愛子さんの書くものは、紅緑氏やハチロー氏のように才にあかせて売文風というスタンスと一緒にしてはいけないのかな。彼女の文章も結構パンチがあったりしたから、この本も読者サービスで脚色が…、だったら、誰かを傷つけてはいまいか。

でも、久しぶりに、ワープロ文章でない愛子さんの筆力は、語彙豊かで、ゆったりと文字の中にあそばせてくれます。
第2巻で父紅緑が死に、子世代、孫世代になるでしょうから、もう少し楽しめます。
大作でしっかり書かれている分、明治末期、大正、昭和、終戦の時代の潤沢にお金を手にした人のお金の使い方をみせてもらえました。こんな使い方が、文章家=インテリの相場だったら、まことに情けない。
家庭に書生や女中が何人もいて、乳母に育てられる、この感覚はいまの日本では稀有でしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「町長選挙」の話

2006-07-14 15:53:05 | 社会問題
8月に町長選挙があります。そういえば奥田英朗の同名の小説ありましたね。
実際のわが町の話です。
4年前の選挙では、いわゆる町民の健康づくりを謳い文句にした「箱物」を約30億円かけて作るかどうか、が争点でした。
国からの交付金をもらうためには、時期的なこともあるから、是非今このときに、と訴える候補者と、無駄な出費は避けるべきだと反対を主張する候補者の一騎打ちになりました。結果、数百票の差で、建設推進派が勝利して、建物は完成しました。
その後、国からの交付金がでないことが判明(こんな負担になる出費の件なのに、まったく調査不足ですよね)。
土地・建設の借金返済と、運営費で年間5億円かかるとのこと。
件の健康施設(足腰が弱った人が、水着を着て、水中歩行するもの)は、20人も入れば、いっぱいになるプールだそうです。世帯数1万4000弱の町で、1日あたり137万円の負担。あぁ。
とのことで、今回の選挙で出馬表明したひとりは、抜本的な見直しもふくめ、より全町民が有効に使えるように、と呼びかけています。

ところがです。
本人(現在町議会議員)自身が発行している「議員活動報告」によると
―― 以下引用 ――
新聞に(出馬の)記事が出てから、私を出馬させないよう直接的、間接的に実にさまざまなしんじられないようなことが起こり、いまも続いています。
私の人徳の無さが招いたことかもしれませんが、選挙というものは人の心の醜さが出てくるものだと痛感しています。
しかし、○○町を「住んでよかった町」にして、次の世代に引き継ぐため…。
以下略。

奥田氏の小説では、双方が業者と癒着していて、どっちもどっちで、眺めいてる分には、笑える話でしたけれど、「現実に出馬させないための、信じられないようなことが起こっている」とは、情けない。
それをしているのは、町の数人の人たちなのでしょうけれど、なんとも情けない話です。

できてしまった借金は仕方が無い、でも、その状態で最善策をと、逐一説明されている報告書に目を通しているものだから、期待していたのに、この町の誰かが、それを悪意で拒絶しようとしています。
違った言い分があるならば、論戦を持ちかければいいでしょうに。

外側からは見えない、この町の混沌を見た思いです。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨の晴れ間に汗を流す。

2006-07-14 10:49:07 | その他
「雨季は植物を育む」って、実感です。庭が草ぼうぼう。狭い芝生にもにょきにょき雑草が目立っています。
早朝とはいかなかったのですが、先程まで1時間ほど、草むしり、芝刈り。
1輪の緋色の松葉ボタン、みーつけ。5株植えたのは1ヶ月ほど前。これからが彼らの季節。
紡錘型の葉っぱも梅雨時の水分と今日の日差しを受けて、四方に葉先を伸ばそうと元気です。
シャワーを浴びて、10時半。午前中はまだ残っています。
殆どの週日は仕事で自宅にいることがないものだから、天気が良くて、汗を流した後、まだ何かできる、この感覚好きです。
それでは。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイエット中 第2弾

2006-07-14 08:18:43 | その他
一里塚として、書いたのが6月28日。ここに2回目の印として。
ダイエット初めて、後数日で1ヶ月、現在マイナス3キロ。
あと、ふたターム(6キロ)ほどの減量が目標だから、なかなか先は遠いのですが、この夏中には実現したい、…その予定です。
この1ヶ月で判ったこと。
なんといっても、「今まで、いかに飽食していたのか」ということ。こんなに意識していてやっと、減り始めるのだから。
「成人の必要カロリーは2400キロカロリー」と覚えたのは遠い昔、中学生の頃。
その後、小学4、5年生の方が成人女性よりも、沢山カロリーを必要とする(すなわち、小学4、5年生よりも、摂取カロリーが少なくていい)、と聞いたのは30代の頃。

ところがところが、2400摂取路線を維持していたことになります。
生活習慣病コースから路線変更するためにも、覚醒の意味をこめて、お馬鹿な話題をブログに公開。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「至福のとき」を見る。

2006-07-12 07:49:27 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
2000年中国映画、監督チャン・イーモウ
「あの子を探して」を見たことがあります。中国農村地帯のこども達がかつてはわたし達の国でもと、懐かしさを覚えさせる映画でした。
同じ監督だということで、昨日BS2の録画で、「至福のとき」を見ました。
導入部にしても、そして各所に見られる画面切り替えがシャープで、展開が小気味良くて、説明っぽくなっていないところが好きです。
ひとつ思うのです。きっとアメリカ映画だと、バックに音楽を入れるだろうな、と。
さては、監督、音楽得意じゃないのかな、なんて邪推したりして(笑い)。
エンディングで、少し曲が流れましたけれど。
そっと、しずかに、「至福って、こんなときです」と、差し出してくれたような、面白おかしい、そしてやさしい、話でした。
「活きる」も、同監督作品なのですね。これ、お勧めです。
あの監督なんだ、と先程検索していて気づきました。言いたいことをしっかり押さえているのに、随所に「滑稽」も取り混ぜる器もあって、すごい作品だと思ったものです。
そういえば、「至福のとき」も、途中失明した少女を巡ってのドタバタで、少女の置かれている境遇は、先の見えない不幸そのものなのに、そこにじっくり歩調をあわせるのではなく、「滑稽味」の中に彼女を取り込んで、素敵な笑顔の場面を創り出す。見ているほうは、筋を追いながら、「至福」の答えにたどり着くっていう仕掛けです。
良かったです。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする