日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

おい、おい、・・・なんとまぁ。

2007-07-31 22:12:58 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
日曜日の朝日新聞記事「おやじのせなか」、親父を語る人、夏目房之介氏。
その親父氏はかの夏目漱石の長男とのこと。
小学生の長男氏は父漱石に、教科書をいきなり読ませられて、読めないと「バカヤロー」「馬鹿は嫌いだ」と言われたとか。
ああー、漱石さん。
そんな父親だったのか…と、財布の中の千円札の気取った紳士(※)の内輪話にクスッ(笑い)。
確か、漱石は50歳になる前に死んでいる。
年譜を見ると、長男が生まれたのは漱石41歳の時。
自分本位とか則天去私とかをかたる漱石氏は文豪のハズ…が、なーんだ、自分の子供に無茶言っていたと思うと、そんなのでアリ?、違うんでないの? と思ってしまう(笑い)。
房之介氏の父(漱石の長男)は小さいときのそんな境遇を恨んでか、作家漱石の印税で蕩尽の日々だったそうな。
あー。
ウッキぺディアで検索してみたら、
長男純一氏は「物覚えが悪いと、父から苛烈なしごきを受けた」とある。
なんと、あの文豪さんが・・・。
学生時代以来何十年も手にとっていないけれど、今度読むときは、この仕入れた情報が脳裏にちらつくだろうな(笑い)。

そういえば、文豪として並び称される鴎外は、極めて熱心な教育パパで、娘の勉強のために一緒に図書館通いするほどの父親だった、そんな話を読んだのを思い出した。

明治、大正の時代でも、生活に余裕があった家庭では、子供の教育に関心が注がれ、上手くいったり、いかなかったり・・・。
いつの世も同じってことでしょうか。


(※)お粗末!先ほどコンビニで財布から千円札を取り出して、ご尊顔の幾分ふっくらとしているのに、オヤッ!
馬鹿だねー、漱石さんはお札の顔を卒業されて、今は「野口英世」さんでした。
私の遠ーい記憶では、お札の板垣退助さんを持って、銭湯に通ったような気がします。
お歳がバレますね。



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脚本山田太一のテレビドラマ「遠い国から来た男」を見る

2007-07-26 10:35:58 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
その男、津山と奥村(?)たちは、60年安保の時に入社して4年目の商社マン。
その時大学に入ったばかりの女子大生と、津村は恋に落ち…。

諸事情が運命を変え、女子大生は奥村と結婚。
46年後、「遠い国から来た男」津山と奥村夫婦の人間模様。
ちなみに遠い国は中米。
定年後の夫婦のやり取りが、おかしい、というか、現実に見聞きする話と交差する部分が大、だったりして、60代、70代夫婦を観察している山田太一氏の観察眼が正鵠を得ていて、滑稽、…であり切実でもあり。

中米で農園経営をしている津山の生活を想像して、「自分も中米へ」と言い出す妻。津山の妻が去年死んだ、と聞いたこともあってのことだから、そこのところは、女性のチャッカリさ加減、感じます。
慌てふためく夫。
それなりに出世をした夫を持ち、衣食住に不自由しない老後の途中にある60代半の台詞「これからの20年、私がこのまま生きていても何にもない」
「私たちは、もう明日死ぬということもありうるのよ。それでも不自然ではないのよ」  (注:正確な台詞の再現ではない)
だから、女は…「確かに自分が」と実感ができるものを得たい…のだろう。
そういわれて、
夫は、家族を思ってシャカリキ働いてきた自分の仕事人生は、いったいなんだったのだろう…と、慌てふためく。

津山の男気のある気遣いで、その奥村の動転と、女の奔放を納める。

人間ドラマは、観察眼でできている、なんていうと、そんなこと当たり前、と言われてしまうだろうけれど、人間模様は面白い、そう思わせるドラマでした。

うーん、だけれど、私も50代の女。
彼女の台詞、理解できます。
昨今、団塊の世代向けと称して、あれこれ企画がありますが、どれもこれも、消化試合では、なんていうひんやりとした感覚が去来するところアリ、ですから。

こんな感覚も飲み込んで、生きていくことなのでしょうか。
長く生きるということは。

追記
新聞で読んだ周知のことだから、追記するけれど、早稲田大学時代に同級生の女性を唐十郎氏と取り合ったという経験、こんな感覚も生かされているのかな、と下種の勘ぐり(アハハ)。

年老いても、若いときの思いを道連れにして生きているということ、でしょうね。


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深夜の電話コール

2007-07-21 07:45:11 | 私の雑感あれこれ
深夜1時過ぎに、電話のコール。
50代夫婦にとっては、嫌なものです。
目が覚めたから「イヤ」
起きなくてはならないから「イヤ」
ではなく、深夜に電話を掛けてくるとは、「余程のこと」が身内にあったのかな、と一瞬考えてしまうからです。

ところが、受話器をとるとFAX。
今頃?誰?と思ったけれど、流れてきた用紙の端っこが見えて、ほっとする。
ボランティアの事務連絡の部類だったから。

そして、思った。
こんなに遅くまで仕事をしている彼女を「ご苦労様」と。
でも、いまどきの30代には、この時間に電話機を鳴らすことは非常識にはならないのかしら、とも。

そして、つい先日聞いた言葉「近頃の若い人は、軽い意味で言葉を使うから…」
を思い出して、コレも世代間ギャップと片付けられてしまう、私達世代が受け入れなくてはならない変化なのか、と。

ふーん。
と考えながら床に入る。

ぼんやりと私が小学校に入る前の記憶がよみがえる。
そのころ私の母は働いていた。
暗くならないと母は帰ってこない。
私は困っていました。
「夜にツメを切ると、不幸が起こる」と言い聞かされ、そうなりたくない私はどうしたらいいのだろう。
よその私みたい子供はどうしているのだろう。
私の記憶にある最初の悩みです(笑)。

勿論、今の私は、必要であれば夜でもツメを切っています。
子供の頃聞かせられていた「しきたり」はきっと電球も普及していなかった時、夜は家の中全体が暗かった時代に、「暗がりでの爪切りは危ない」ところから来た言い伝えなのでしょう。(※)

だから、深夜の電話コールも、時代が変わって、深夜残業もある時代だから、エチケットと考えられていたことにも、変化があって「無問題」なのでしょうか?
そんなことを、思い巡らしながら眠りに入った。

ひとまず「余程のこと」でなくて良かった、と思ったのは、確かです。

(※)私の子供時代、部屋の照明が、電球から蛍光灯に変化したことを覚えています。
12畳の広い部屋の真ん中に電球(光源)が一つだと、人が動くたびに周囲の壁の、人影も動いて、慣れてはいても、いい気分じゃなかった。
若い世代は、その感覚分からないでしょうね。

追記
土曜の午前にお詫びメールが入っていました。
彼女、深夜までかかったけれど、仕事を片付けて、土日の休日を確保したかったのでしょう。
期限のある作業で、彼女の気持ち、分かります。
が、こんな思いの行き違いに、「世代間の差」なのかと思ってしまうところ、わたしが歳を重ねたということでしょうか。
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こんな国に暮らしているとしたら

2007-07-18 11:06:16 | 私の雑感あれこれ
日本では、収めた年金が宙に浮いたと、連日の報道。行政府のトップである安倍首相は「最後の一人まで、きちんと調べてお支払いします」と発言しています。

* * *

その国では、税金の徴収は、担当者が直接、事業者というか、例えば「お店」に出かけて、儲けの中から税金を払うように催促するそうです。
そして、
お店の人は、「儲からない」「利益がない」と主張します。
徴収担当者は、お店の人と交渉します。
「儲からなかったことにする」「そのお店は、そもそも営業していなかったことにする」
そう、報告することで、直接、「何がしかの謝礼を懐に入れる」

そりゃー、お店も徴収官も両得だから、阿吽の呼吸、なのでしょう。
だから税収が上がらない。
だから社会保障どころではない。
だから・・・、
だから・・・、
が多すぎて、聞いていてシンドクなる。

* * *

何年か前、別の国で、観光バスの中からみた光景と聞いた説明。

街中には、警察官がバイクの男と何か話している。
この国では交通違反の反則金は、警察官が現場で違反者から直接罰金を取るのだ、と。
とすると、交渉次第で、反則金の内容は自由自在。
事情次第では、「なかったことも可」だろうし、警察官の懐は、捕まえた違反者の懐次第ということか。

* * *
日本に暮らして、この暮らしがこれが当たり前だと、そう思っているから、
公(おおやけ)が手加減次第でどうにでも・・・という国のことを見聞きすると、その理不尽を何度聞いても、あきれる。

でも、「日本のように、自殺率は高くない」から、不思議でもある。
暮らす、生きていく、そのことの捉え方そのものが、うまくいえないけれど、異質になっているのだと思う。


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この週末も、後日の思い出となる一日でした。

2007-07-17 12:39:52 | 子育ての周辺
お母さん、心配してる?
ある本で読んだのだけれど、と娘は語る。

二つの選択で迷っている時、そのひとつはハンディというかリスクがあり、もうひとつがそうでない場合、それはリスクのある場合を選ぶ、とその人は書いていた、と。
なぜかというと、選択肢としてその二つを並べたということは、二つの内容的を比べるとリスクのあるほうが、より魅力的という判断が既になされているということなのだから・・・。

うーん。そういわれてみれば、そうだね。

でも、今の私は、なにも心配はしていないし、全然迷うことなく決めてたことだから。

そういって、このお母さんの心配に付き合ってくれている。

昨日の新聞で教育者蔭山○○氏の記事が目に留まった。
「私はよく、考えがぶれないひ人ですね」といわれるけれど、振返って考えてみると、若い頃読んだ三木清の人生論ノートの「幸福について」の章の影響があるのかもしれません云々・・・と。

いま手元に新聞がないので、引用はできないけれど、もう一度人生論ノートを読み直してみようと思う。

確かに、娘の選択は、若さから来る大胆さにあふれているけれど、夢もあるし、将来振返っても、私はぶれていなかったと、多分彼女はそう思うだろう。

あっ、彼女は選択に迷ったのではなく、ダントツに決まり、そんな言い方をしていた。










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映画 「シックス・センス」 を観る

2007-07-13 16:24:01 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
シックス・センス」というのは、第6感、の意らしいと思いながら見る。
アメリカでは古い歴史を持っている町、フィラデルフィアが舞台です。

はじめから、ちょっと怖い、でも、でも、と見続ける。
やめようか、終わりにしようか、と思いながら見る。
児童心理学者で精神科医のマルコムとおびえた表情で学校でもいじめられている少年コール。
この少年って、別の映画「A・I」で人間そっくりなロボットという役を演じて、見てはしまったけれど、再度見る機会があったときは、あまりにも、辛くて見たくない、そんな思いを抱いた、あの少年。

そして、この映画では、幽霊が日常的に見える、という役を演じている。
なんとまあ、と引きずり込まれてしまうから、この少年の演技力はすごいのだろう。

「この映画を見た人は、その結末を人に言わないでください」というのが、キャッチフレーズ、だというけれど、
その終わり加減のところ、学芸会の帰りの車の中の場面を少し、自分用に書き留めます。(これから見ようと思う人は、読まないでください)

車は、事故に遭遇して渋滞中。

母親との会話が、ジーンとくる。
「僕は幽霊が見える」と、母親に語り始める。
(死んだ)おばあちゃんにも会ったよ。
ママは子供のときおばあちゃんと喧嘩したことあるね。
それで、ママはおばあちゃんがママの舞台を見に来てくれなかったと思っているかもしれないけれど、おばあちゃんは(舞台を見に)いったよ。幕に隠れてみていたんだって…」
   略
ママは、おばあちゃんのお墓にも行ったよね。
おばあちゃんは、「毎日だよ」って言っていたけれど、ママは(お墓で)おばあちゃんになんて聞いたの?

母親は
「おばあちゃんはママを誇りに思っているかって・・・」

かつての自分の母との葛藤の日々を思い起こした母親、いじめにあっている息子を抱えて子育てにも自信を失っている母親は胸がいっぱいになる・・・。

She said that it’s evry day.
Mama,what do you question?

Are you proud of me?

なんだろうか?
と、ひとり、ぼんやり反芻している。

2度見ると、そういえば、という複線が、ちりばめられている映画でした。
でも、怖ーい。




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こんなことも考えられている・・・。

2007-07-11 14:28:19 | 私の雑感あれこれ
週日にその大型スーパーに出かけたことがなかったので、初めて知りました。

-イエローレシートキャンペーンー
というのをやっていました。
通路に7、8人の人が襷をかけて、手にはボックスを持って、お願いしているのです。
私、最初は素通り。
軽食コーナーで一休みしていたら、「イエローレシート・・・」と、声が耳に止まり、目の前のレシート、そういえばいつもと違って「黄色」。
あー、買い物した後のこのレシートをボックスに、という呼びかけ、のようです。

お客には、ちょっと足を止めるわずらわしさがある程度で、レシートに記載された買い物金額の1パーセントが、その大型スーパーを運営している企業から障害者団体へ寄付されるそうです。
ふーん、そういうやり方もあったのかと、私、その日のレシート3枚協力。
聞くところによると、毎月11日はこのキャンペーンをやっているという。
にこやかに説明してくださったのは多分障害者のお母さんと思われる人。
私は、こんな場が、実は弱くて、白状すると、鼻の奥がツーンとしてしまうのです。
パートさんの時間給10円アップにも厳しい試験を課したりして、シビアな職場なのだと聞いていますが、企業もいろいろ健闘しているな、なんていう気分で帰宅しました。

できるところから世の中に貢献する。
結構、身近にも、できることがある。
そういえば、夫も「金銭問題で困っている人の法律相談は無料」としています。
貢献できる、という役得を得ているのですから、それで見返りはある、そんな人、そんな組織が、頭を持ち上げ始める。
世の中、捨てたものではないでしょう。

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もし、あなただったら・・・。

2007-07-11 08:15:13 | 私の雑感あれこれ
★寄付をする側
あなたが高齢の資産家で、身よりもない一人暮らしだったとしたら。
そう思って、読みすすめてください。

あなたは役に立つように遣ってもらおうと、公立病院に1000万円寄付しました。
1000万円はそれなりのお金です。
その後、あなたは身体を悪くして、その病院に入院しました。
20日ほど経って、「退院してください」と言われました。
一人暮らしのこともあり、今の状態で、即一人暮らしに不安です。
もう少し入院を継続していられないかと頼みました。
返事は、「それはできません」だとしたら・・・。

一人暮らしで老いを迎えている自分にできることと思って、高額の寄付した、良いことをしたと満足感で暮らしていたのに、その病院は、彼女にとって寂しい返事を投げ返してくるが病院でもあったのです。

もし仮に、私だとしたら1000万円の寄付は超高額、きっと忘れることはないでしょう(現実に寄付するかどうかはともかく(笑い))。

病院の担当医は、彼女が高額の寄付者だとは知らないと思います。
また、高額の寄付者と一般の患者との間に差をつけるのも、それはそれでどうかなとも思います。

若くない自分が、「自分の財産をいつかは入院することもあるだろう病院に1000万円寄付する」と言う場面を想像してみてください。
こんな場合でも、杓子定規な対応でよしと受け入れられることができるか。
元気な時と違って、気弱で心細くなっているときに・・・。

勤務医である担当医が、「どの患者も同じに治療する」は当然だけれど、よく言われている公立病院の赤字対策には、寄付は願ってもない収入であるのも現実です。

うーーん、どうあるべきなのでしょう。


皆さんのもとにも寄付を募る郵便物が届くと思います。
寄付を募る側の配慮も、要検討かもしれません。

★寄付を募る側
-その1-
最近、国立大学が独立採算になったとかで、某旧帝大からは、よく寄付を集める郵便物を送ってきます。
ざっと拾い読みしていたら、「寄付金10万円以上をした人は、総長と会う機会を持てる」ということが書いてありました。
「この感覚、何だろう?」と、ちょっと笑えました。
そりゃあ、天下の某大の総長だから、会って握手したら記念かもしれません。
でも、「10万円以上の寄付で…」とセットになっている、そのことが、滑稽です。
「知識の塔」のトップが、自分の大学で育った知識人を、総理大臣と握手したがるお歴々のように、一緒に写真に納まりたがっていると想定しているのかしら。
まー、人様々だから、「とにかく寄付をより多く集めたい」そんな思いでの提案が、募金委員会で通った、と言うことでしょうね。

「痩せたソクラテス」ではやっていけなくなったのでしょう。
ご苦労様です。
(ちなみに私の卒業大学ではありません)

-その2-
最近、何度か、こんな郵便物もきます。
「ユニセフに寄付することを遺言で書き残すのはいかがですか」というお誘い。
夫の仕事柄、遺言の相談も受けるだろうと想定しての郵便物でしょう。
みんな、どの団体も、どうしたら財源を確保できるだろうと、あれこれ考えているのでしょう。
でもネ、最初に書いたケースのように、寄付するときは、やさしく誘いかけてはきても、あとは大勢のひとり、というか、どこに消えたか分からなくなるってのが、実情と、ぼんやりそう考えたり・・・。









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またまた社会保険料の件で

2007-07-10 07:38:36 | 社会問題
社会保険料として雇い主である会社・事業主は、被雇用者である従業員から厚生年金保険料と健康保険料を控除して給料を支払っています。
雇い主はその従業員からの預かり分と同額を負担して(4万円控除されている場合は、8万円)を、社会保険事務所に毎月収めているのです。(⇒毎月口座引き落としで納付etc.)
大企業でたっぷり余裕資金があるところでは無問題なのでしょうが、資金繰りに困った零細企業の場合、この納付がきつくなるケースを多く見てきました。
従業員20人、30人規模、いえ、そこまで大きくなくても、売り上げが落ちても、借入金の返済はしなくてはならない、給料は支払わなくてはならない…。
となると、さしあたっては、毎月ウン百万円の社会保険料納付が後回しになってしまうのでしょう。
ラジオニュースは、「雇い主のところで留まったままになっている社会保険料の実態調査に入る」と報道しています。

やっと、調査する気にになったのだ、そう思いました。
できたら、「臭いものに蓋」をしておきたかっただろうけれど、支払い(給付)の面を精査することになったからには、徴収(納付)の実態を確認すべきという道理なのでしょう。
まだこれからいろいろなことが明らかになると思います。
ずさんな仕事振りが明らかになった社会保険事務所、徴収においても、ぬるーい、ような気がします。←そうでないことを願いますが…。

☆滞納事業者が増えると厄介だから、一旦脱退(会社を清算?)して、従業員を国民年金扱い(トラックの運転手など、運送会社の従業員ではなく、仕事を請負って、した仕事分に対応して支払う、一人請負いの形をとるケースなど)にして、事業者の半分負担を免れる方法、社会保険事務所も暗黙の了解だと、耳にしたこともあるし…。

考えてみれば、やくざ担当の警察官がやくざの世界に詳しくなるように、社会保険料を徴収する立場の社会保険事務所職員は、納付が困難な零細企業の気持ちに精通するわけです。
ミートホープ担当の検査官がミートホープと通じているように…。

なんか、昏い話ですが、でも調査することになったとラジオニュースは伝えているのですから、実態が分かるとすると、それは良いこと、一歩前進だと思います。

会社員は会社丸抱えで、保険料も雇い主が半分負担して、一旦会社に入れば安泰、会社が傾いても、容易に解雇もできず、こんな制度だから、会社員は、会社に従うだけでその仕組みを理解する機会を奪われ、シンドイ経営者は、正規社員を雇うことをためらうのだと、そう思っているのです。
仕組みを知ることもなく、夫の扶養家族である主婦は、夫の年金で暮らしていけるから、と漠然と年月を重ねているのです。
少し前までは、夫が自分の年金分も払ってくれているから、という解釈もまかり通っていたのです。

多くの日本人が会社員という形で働くようになって、40~50年経ったのでしょうか。
植木等さんが「サラリーマンは気楽な稼業」と歌っていた時代は、右肩上がりのスタートだったのでしょう。
「臭いものに蓋」をしてきた社会保険事務所、団塊の世代の給付が始まろうとしている今、蓋を開けたら、納付の実態は?

でも、避けて通れません。
「蓋を開けてみよう」今日のニュースはそういうことだと聞き取りました。
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それでも・・・。

2007-07-09 11:54:16 | 私の雑感あれこれ
毎日毎日遅くまで残って翻訳の仕事に追われている。その疲れが、身体の芯に溜まったようで、効率が上がらなくなったから、今日は少し早めに切り上げた。

大変だね。
仕事が増えたことで、格別の見返りもないのに、ご苦労だね。
と、相槌。

でも、この仕事をしたおかげで、翻訳もこなせるし、通訳もやっているから、スキルはあがったと思うよ。
留学しただけでは、(ビジネスの現場の)実際には役に立つように翻訳はできないと思うし、今の仕事だから力がつくと、私はそう考えて、精一杯している。
本社からの指示に応える仕事はできていると、自分ではそう思っている。

就職超氷河期に、東京官庁街の職場に決まって、ホッとしたのもつかの間、
安定よりも、自分にできるものを求めるのだと、飛び出していった、娘。

今日は身体の芯まで疲れた状態、と聞くと、何で社会保険にも加入していない職場に飛び込んで…、とつい思ってしまう、このお母さんの不安を追い払おうと、元気に話す。

大丈夫。私は今の職場で満足しているから。
お金も不足しているわけではないし、これで十分。
今の仕事に移ったことを、よかったと、こんな仕事が向いていると、そう思っているから。

そういって、切れた電話を、何度も反芻している、この母親。

目の前の山(課題)を、真剣に、誠実に乗り越えようとすることが、力をつけるのだと、そのことを彼女は知っている。
いくつかの、自分で能動的に選択してきた体験が、彼女のかけがいのない財産になっており、次の体験への針路を決めようとしている。

ふーん、それでいいんだね。
と、私は自分自身に答えています。

かの指揮者で作曲家のバーンスタインの話を思い浮かべたりします(※)。
自分の櫂で漕いでいるということは、こういうこと、なのだと、もう一人の自分と語らっています。

娘の握っている櫂が、どれだけ力強いものかは分からないけれど、私にできること、しなくてはならなのは、彼女を信頼すること。

(※)アメリカの作曲家で指揮者のバーンスタイン氏が、質問者の問いかけに答えたした返事の話。
問い「どうしたら、あなたのようになれますか」
バ氏「きみが私のようになるのは無理です。なぜなら、きみは、その質問をしたから」
どのようにしたら○○になるという考え方で、自分のような道は開かれない、ということを伝えたかったのでしょう。
結果として、道はできたかもしれないけれど、バ氏は、既にあった道を辿ってきたのではなく、自分の判断、選択、覚悟が必要だという意です。







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