日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

本日 退院。

2010-09-29 20:25:57 | 家族
昨日、MRI検査結果を聞いて、
今日、退院しました。

大勢の看護婦さんたちに、元気になったことの挨拶をして、
病院前のタクシー乗り場に。
娘は、自分の足で歩いて、外気に触れることも、不思議な感覚のよう。

退院祝いに、何が食べたい?
今まで外食ばかり、みたいだったから、自分で作ったカレーライスを食べたい、と。
娘の夫が、早速買い物にいって、何やかやと活躍していました。
そのカレーを3人で食べて、ワタシは帰ってきました。

明日からは、日中はひとりです。
若いから、ぐんぐん体力がついていってくれると、そう思っています。

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白いもの、1センチ余りのびた日々。

2010-09-24 21:55:12 | 家族
鏡を見る。
髪の根元が1センチ余り、白く延びている。
私は、髪が多くて、直毛ではなく盛り上がるタイプだから目立たないけれど、鏡の前で髪をとかしながら、ああ、この白髪が伸びている間が、病院のベットの娘のことばかり思っていた日々、だった、とつくづくその1センチ余りの白髪が愛おしくさえ思える。

・・・もうひとりの娘の結婚式直前で、美容院でカラーリングしてきたばかりだったのだ!

ああ、炎暑の頃だった!

今はすっかり秋。

一刻、一晩、一週間、なんとか無事で、回復に向かうようにと願っていたのに、今は、リハビリの調子を尋ねる日々。
今日は味噌汁を作った、と報告を聞く。

えっ!病院にそんなコーナーまで?

きっと社会復帰を助けるという趣旨なのでしょう。
ジャガイモと玉ねぎの味噌汁を作ったけど、全然疲れなかった、と。
味噌汁を普通に作れた、と喜ぶことがあるなんて、思ってもいなかった場面だけれど、
それで、いい。
この回復を喜びたい。

入院してから40日近く。
彼女には、事故で入院してから10日間程の記憶は途切れているけれど、
日一日と、会話をしても疲れなくなっていることに気づく、という。

脳が衝撃を受けたのだもの、記憶をつなげて会話することにも、エネルギーが必要だったのだろう。
着々と思い出して、自信を取り戻してきていることが、嬉しい。

追記

25日の土曜日に、担当医から電話があって、28日の火曜にMRI検査の予定を入れたので、そのあとは退院OKです、ということになった!
長かったけど、無我夢中でもあった。
「意識が戻った、認識できた」と、早々と、ささやかな変化にも喜んで来たけれど、
本人は、8月頃の記憶があまりない、という。
その時は、認識してしゃべっていても、後日の記憶に残らなかったり…、脳が混乱状態だったのだろう。
今も、耳鳴りがするというから、体調不良の日々もあろう。
本人が受け入れて、前に進むしかない。

ここまできたから、多分、大丈夫、です。
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司馬遼太郎著「明治という国家」上・下  読了

2010-09-24 13:31:32 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
「「明治」という国家」は、よくある、明治維新期を書いたものです。
登場人物の殆どは、かつて歴史教科書で覚えたことがある人物たち。
その歴史上の人たちが、そう、そうなのか、さもありなん、と、頷きたくなる解釈を加え、判り易く説明を展開してくださる。
なんという至福。
あっという間に、2冊を読了。

こんな本を楽しむご同類、いるんでしょうね~。
あっ、私が購入した本じゃなかった。
家人が購入したものを、ついつい先に読了したわけです。
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大嵐  大阪検察庁特捜部の証拠改ざん

2010-09-22 11:24:47 | 社会問題
検察庁特捜部は、時の権力者をも敵に回して、不正を暴く。
そんな毅然たる集団だと、思ってきた。
検察庁のなかでは、俊英の集まりだと。

これまで、権力の腐敗の物語は枚挙にいとまない。過去を記した書物においても、現実のニュースでも。
でも、それを取り締まる大元の検察庁のそれも特捜部のエースといわれていたらしい人が、
証拠のフロッピーのデータを修正するなんて。
証拠隠滅の悪を百も承知の立場の人がしてしまう、というのは、

元検察特捜部OBの堀田氏がコメントでおっしゃっていたように、「組織の持っている体質」のような気がして、空恐ろしい。

特捜部は数多くいる検察官の出世コースと聞いている。そのコースを駆け上っていくためには、ここまですることもアリ、なのだとしたら、
容疑者が真実を貫きつづくことの大変さ、は計り知れない。


これまでの検察庁の仕事の、殆どには証拠改ざんがなかったかも知れない。
でも、こういうミソをつけてしまったからには、信頼を取り戻すのは大変でしょうね。
トカゲのしっぽ切り、で終わろうとしないでほしい。

これが弾みとなって、
取り調べの可視化へ向かってほしいものです。

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手塚治虫の漫画「奇子」1、2,、3を読む

2010-09-19 21:12:15 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
手塚治虫に「奇子」という漫画があることも、今回勧められて初めて知った。
読み始めて、3冊を一気に読了。
戦後の昭和24年の下山事件や三鷹事件という、教科書でしか知らない戦後の占領軍が統治していた時代をモチーフにした作品。
またまた、先日読んだ井上ひさしの「一週間」が、戦後のシベリア捕虜生活を題材にしていたのと、場所は違えど混乱した時代を書いているので、漫画として登場人物の膨らまし方もさすがだけれど、知らない、戦後という時代を教えてもらえるという要素もあって、良かった。
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ニュースを見ながら

2010-09-19 08:23:19 | 私の雑感あれこれ
臓器移植で、難病から脱出できたひとのニュースが流れる。

「先月、交通事故で脳死になった20代の男性からの臓器提供を受けて・・・」

ドキッ、とする。
ウチは、回復した、快癒した、と喜んでいるけれど、

そうではない事態のひとがいるんだ、と。
ドナー、という言葉は当然知っている。
でも、その家族の、聞こえてこないけど、流されている涙、悔やんでも、叫んでも、元に戻らない、そういう悲しみが、どこかにあるのだと、

黙って、ひとり思っている。

ああ、命があることは、それだけで幸いなのだ。
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事故から1ヶ月と2日。

2010-09-18 11:12:51 | 家族
もう、入院中の携帯に電話ができるようになっている。
こちらからかけると,ラウンジに移動して掛けなおす。

例えば今日の回復具合。
リハビリも始まって、1週間前から同フロアは歩行OKになっている。
「ラウンジへ行こうと歩いていたら看護婦さんがネ、『お見舞いに来た人と変わらない歩き方だね』と言われた」と。
「看護婦さんも忙しそうだから、自分で記録できるところは、自分で書き込んでおくの」と。
おばあちゃんも心配していたけど、快復したと伝えると喜んでいた、と伝えると。
「事故に遭ったのは、おばあちゃんじゃなくて良かった。○(夫)でなくて良かった。わたしで良かった」と。
ナヌ?自分の子供が事故に遭ったら辛いでしょ。オイオイあなたはお母さんの子なんだよ!
と、、咄嗟に思ったけれど、
そこは、おさえて、オサエテ。(苦笑)
自己犠牲精神もあなたらしいけれど、自分の身を守るのは自分だからね。
そして、母親は子供のためにも、自分が事故に遭ってはいけないのだよ、と、
いつか、伝えようと思う。

そういえば、子供が学齢期の頃、万一ってことがあるから、夫婦で飛行機に乗ってはダメだね、と語っていたことを思い出した。

それにしても、ボツボツ退院が待ち遠しい日が来た、ということはすばらしい。
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井上ひさし著「一週間」を読む

2010-09-17 08:48:38 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
東京行きの新幹線の中でも、本を読む気力も戻ってきた。

井上ひさし氏がなくなってまもなく発行された新刊本。
もともとが雑誌連載されていたものが単行本になったもの。

シベリアに抑留生活された捕虜の一週間の話。
敗戦後60万人もの日本人が捕虜としてシベリアへ連行された。
その60万人の兵士は共産党政府下のソ連で、労働力として使役された。
その使役のやり方が、旧日本軍の管理機構を温存して統率するに任せたため、
捕虜たちは、寒さと、威張り腐る上官のもとでの生活となった。
日本人捕虜向けの、日本語による新聞(当然レーニン崇拝、スターリン万歳の路線)が発行されており、その任務につくことになった語学が堪能な主人公の一週間で体験した話です。

末尾には膨大な参考文献が列記してある。話は、井上氏の作話部分もあるのだろうけれど、
そうか、と思う仕入れも多々あり。
例えば、ジュネーブ条約で、捕虜に労働を強いてはいけない、というのは、将校クラスのことであり、兵隊はこの規定に当たらない(?)とあり、・・・そうなのか、と。それぞれ自国に都合の良い解釈をするのでしょうね。
敗戦当時の日本は、東京を始めとして都市部は壊滅しており、60万人もの兵士が帰還しても受け入れる対策も立てられなくて、ソ連が労働と引き換えに、食べさせてくれるのなら、ひとまずそれもあり・・・、という思いが、敗戦日本政府(あったか?)側にあった、と。
元来、ソ連(ロシア)は、極寒の地シベリアの労働力不足であり、囚人の労役としてシベリアでの労働力を確保していた。そんな国だから、敗戦国日本に捕虜の労働力による賠償を期待した、という見方。
本の記述では、ソ連は日本の捕虜に対しても、他のシベリア送りの労働者に対しても、同分量の食料を与えていた、と。しかしながら、捕虜の集団は、旧日本陸軍の階級性を利用して管理されていることから、「上官の命令は天皇の命令」のセオリーが温存されて、食料の均等配分はされず、上官は下級兵士から配給のパンなど食料を巻き上げ、充分に食べ、余りを売りさばいて、市中で、魚や肉を買って太っていた、と。
そう、将校は労働も免除されていたから。

極寒の地での肉体労働はさぞきつかっただろう、自分の父親も23年に帰国した兵士だったから、それは忘れたことはない。
で、この本で、知らなかった捕虜の仕組みを仕入れた、そんな思いです。

日本語新聞では、共産党のいかにすばらしいかを喧伝し、共産党を賛美しないと帰れないぞ、帰してもらえないぞ、そういう風潮がまかり通っていたなかで、
望郷の念を持ち続けて、いかにこころもとなかったことか。

翻って、帰国した捕虜たちは「シベリア帰り」ということで「赤」のレッテルを貼られ、社会復帰に不利益に働いたというから、理不尽極まりない。

戦争という、生の暴力の場に置かれ、思想洗脳というもう一つの暴力の中をいきなくてはならなかったのか、と、父親たちの時代を思う。

自分の父親がシベリア捕虜生活経験者であることで、コレまでも何冊が本を読んできたけれど、これはこれで、教えてもらうことのある本でした。


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ワタシとブログ

2010-09-15 11:52:53 | 私の雑感あれこれ
言葉で考えているからか、書きながら整理しているところがある。
そういえば以前i「お母さんは、喋りながら考えている」といわれたことがある。
書きながら考える方が、ちょっとは進歩したのだろうか。

今回はブログのコメント欄をシャットアウトしながら、
自分でブログに支えを求めていた。
自分の話し相手になる自分が欲しかった。

矛盾だよね、とも思いながら、
アンネ・フランクが、キティ様と書きだして、毎日日記を書いていたように、吐露する相手が欲しかった。

余談
そういえば思い出した。
今ベットにいる娘が小学生か中学生だったかの頃、言っていた。
みんなアンネフランクの日記というと、戦争の暗いイメージと結びつけるけれど、日記はなんだか違う。書くのが好きな女の子で、日記の中身は特別ってことないよねー、と。
アンネの日記を読まないでイメージしている人よりも的を得ている、と思ったものだ。

そして、ふふふ、ワタシも中学生の頃、アンネ・フランクにあてに手紙を書こうとかの企画で、文章を書いた覚えが・・・。

アンネがそうしたように、あてもない誰か、または、もう一人の自分へ、かもしれないけれど、そういう相棒が時には必要になる。
誰もがそうではないかもしれない。
けど、ワタシはそういうタイプ。

だから、ブログがあって、よかった。
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ククッ!情けない。

2010-09-13 16:12:52 | 私の雑感あれこれ
暑い中、ものともせずに最寄駅から病院までテクテクあるいた。
バス停まで300メートル、バスでその最寄駅前まで行って、そこから10分だから、どうという距離ではない。
面会時間を待ち構えるように急ぐ。
で、足の裏が靴ズレ、というか水ぶくれになった。
ま、痛いな、とは思っていたけれど、我慢して歩いていた。
汗ばんで、ふやけて、水ぶくれが…、と想像はしていたけれど、
ココロここにあらず、だから、治る痛み、想定できる痛みは、心配の圏外だった。

で、昨日の夕方には、足を引きずりたくなるほどになって、疲れ果てて自宅にたどり着いた。
熱を持った足の裏を冷やして、眺めてみたら・・・
500円硬貨程の水ぶくれが、ふやけてつぶれて、肉色が覗いていた!
破けた皮膚の下には、薄い膜用のものがはっているから、絆創膏で固定すれば、無問題なのだけれど、この二日間、痛い、痛い、と足を引きずりながら、その実態を確認しようとも思わなかった、これが、今の私の心境。

で、笑われた。
自分の体重の重みで、足の裏に炎症まで起こしていると!

なんと脆弱な足の裏か!

そういえば、若いころにも、呆れられるほどのエピソードが・・・

高校時代、学校の水泳実習でプールサイドを歩いていた時、足の裏が痛くなり、医務室に行ったことがあった。
正確には足の裏というより足指の裏。
プールサイドのコンクリートのザラザラで、すりむけていたのでした。
赤チンを足指の裏や、指の付け根にホオズキのようにチョンチョンと塗ってお終いって話なのですが、我ながら情けなかったことを思い出しました。


コメント (2)
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