日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

牡丹・・・習作

2012-04-30 17:13:04 | 絵画・マイギャラリー
今年購入した牡丹の初開花!

花びらがはかなげで、午後出かける予定があり、早々に一枚。
うーん、習作と断り書きを入れるワタシ(笑)

今日、某博物館で、日本画の牡丹図を見た。
昨日描いたばかりだから、判る。
この絵描きさん(多分有名な人なのだろうけれど)、葉っぱ大いに省略しているなー、って。
一輪の牡丹のために、栄養を取ろうとわが家の牡丹は、沢山の葉っぱを目イッパイ太陽に向けています。

結婚前に親に作ってもらった和服「絽の付け下げ」の図柄は、この色の牡丹です。呉服の絵師さんは上手いなーと、思う。

来年も花開けば、モチーフになってくれるわけで、楽しみです。
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孫たちが、遠方から駆けつけて・・・

2012-04-30 15:29:47 | 母のことなど
28日は、北海道と東京から孫たちがおばあちゃんの見舞いに行った。
私も誘われたが、5月上旬に顔を見に行くので、予定を変更しなかった。

「おばあちゃんの年齢でのこの程度の脳梗塞は、例えれば、(血流の)交通事故みたいなものだから、その部分が回復すれば、普通に戻れるよ」との孫医師の見立て(笑)。
「聞きなおさないで会話ができるし、大丈夫」とも。

兄の話では、高濃度酸素治療のせいなのか、以前より耳がよく聞こえるようになったのか、(母が)しゃべって、しゃべって!とのこと。
自宅では、一日中話し相手がなくて、声帯が衰えたら困るから、といって、毎日決まった時間に仏壇を前に30分お経をとなえていた。
入院してからは、状況が変わった!
お医者さん、看護師さん、リハビリの方々が、それぞれ自分の病状に合わせた対応をしてくれる。自分が中心に回っている、のです。
これは、母の初めての体験ではなかろうか。
いつも、喜んでもらうにはどうしたらよいだろうか、負担をかけていないだろうか、迷惑がられないだろうか、を優先してきた。
自分が、のびのび振舞えるのは、菜園や花壇の手入れ!
自分の好きなようにやりたいから、人をあてにはしない。
その主義でやってきて、ここ数年は世代交代の時期が来ていた。
それでも、可愛がっていた花壇に雑草が生えるのが気になって、5時間の草取りの結果が、今の入院、なのでしょう。
去年、一泊旅行したときも、実は夜中に心臓が苦しくなった、とこれは、あとになって聞きました。楽しい旅行を企画した私と弟を気遣ってのことです。

いつ、何があってもおかしくない年齢です。
この入院が、母の固定観念を解き放ち、デイケァ利用を受入れてくれたらな、と思います。
95歳で介護認定を受けたこともない、と言うと医療関係者は驚いていました。「長男夫婦と仲良く暮らしている」の形をはずしたくない。介護施設を利用する側になりたくない、という強い意志がありました。
一日中、話す相手がいないよりも、ヘルパーさんたちと話せば気も晴れるよ、となんど説得してもダメでした。

数ヶ月前、電話すると、
「今日はいい夢を見たから、何かいいことがあると思っていた。あんたからの電話がきた!」と、元気だった。
「5月に2度も行くからね」と電話していたのは、まだ倒れる前。
ま、(小学生時代、夏休みになると、10日ほど預けていた)わが子供たちも顔を出したことだし、私はこれから月イチで顔を出すことにして、聞き役をしようと思う。

「同居の家族が一番大変」を理解しているからね、兄ちゃん。



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「わが母の記」って映画が本日封切りらしい。

2012-04-27 16:27:31 | 母のことなど
ネット画面でたまたま「わが母の記」という文字をみて、自分の高齢の母のこともあって、ついクリックしてみた。
井上靖の原作の映画化らしい。
井上靖って言えば「しろばんば」や「夏草冬濤」で、洪作少年(井上靖)と育ててくれたおばあさんとの生活を書いた長編だった。中学校の国語の教科書にも取上げられていました。
両親は洪作少年をおばあさんに預けて、台湾だったかに長期赴任していたような記憶。
物語に母親の影はなかったのに~などと、思いだしたり。映画の原作については知らない。

若い人では知らない人も多いのでしょうが、井上靖は旧制四高をでて新聞記者になり、その後人気作家になった人です。
その旧制四高の建物が、改修保存されていて、その建物をスケッチしたことがあります。その建物のそばに、卒業生井上靖の詩碑がありました。その地の砂丘で星空を見上げながら、今と行く末を思う青年の心を詩にしたものでした。詩文では文豪井上靖も青年。いい詩でした。こんど同窓会で金沢に行ったら、友人にも、その詩碑のことを話題にしよう、と思っていました。

後年の井上靖氏の「わが母の記」は、どんな物語かは知りません。
自分の母とのかかわりは、誰にとっても、かけがえのないもの、なのでしょうね。
誰でも1冊は物語が書ける、とも言われます。
大正5年生まれの、私の母が生きた95年間もスゴイ激動の時代でした。
学制が変わり、円単位が変わり、家族制度が変わり、女性に選挙権が与えられ…、もっともっと、私の気がつかないちがい、の山積みでしょう。
母の生きてきた道のりを、脳梗塞で語り口は少し不自由になった気がしますが、聞き取りたいな、と思っています。








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時々電話あり

2012-04-26 13:30:50 | 母のことなど
母は入院中。
個室でする食事もリハビリの一環とのこと。
コレまでに2度、車椅子でリハビリルームにも行ったらしい。
見舞いに行った弟と携帯電話を替わって、母の声も聞く。
食事の介護の人、足のリハビリ担当、手のリハビリ担当と、それぞれの専門家がかかわって、介護、リハビリ初体験の母は世の中の仕組みに驚いている。
コレまでは、二階の自室から階下のトイレまで、痛い足をかばいながら通うのが日課だった。そんな母だから、夜中に定間隔で2度も紙おむつの交換に来てくれることを恐縮している。
長いだろうなー病院での一日が。
今あることをしようとこころに暖めている。それが気概で、シャキッとしてくれたらいいのだけれど。
先約だった友人との旅行をしたりして、「同居していないからできること!」肝に銘じています。
5月初旬に帰省します。

余話
今日、時間があったから、トコロテンを作りました。
天草汁を漉す袋は、子供の頃の見覚えを頼りに、木綿手ぬぐいの自家製を保存しています。
子供の頃母は海岸で拾ってきた天草を炎天の瓦屋根で干していました。時々天草を水に濡らして、裏返しを幾日か繰り返して、天草は乾燥し、白っぽくなっていきました。
その炎天の瓦屋根の作業をしたのを覚えています。
あの足の裏の焼けるような暑さを。
母から娘の私へ。残念ながら私から次には繋がらない、でしょうね~。








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新聞から 「原発コスト 国民意識に比例 」歴史社会学者小熊英二氏

2012-04-26 09:26:35 | 社会問題
今日の朝日新聞、論壇時評の記事から。

原発再稼動の是非の話題がマスコミで行き交っている。
昨今、報道番組系のテレビであっても、視聴率狙いの番組展開のようで、どこか引いた気分で眺める癖がついている。
現政権は「専門家に検討してもらって、最終的には政府の判断」で、再稼動を決めるらしいが、フクシマの事故で、原子力村がいかに政府とあうんの呼吸であったか、を知ったわけだから、いくら今回、専門家がお墨付きを与えたとしても、マユツバで身構えてしまう。
今日の記事は、原発のコストについて言及している。
私たちの(自民党長期政権)政府は、火力や水力と比べて原子力は低コストだから国は原子力に舵を切っていたと、事故が起きてからテレビはフリップを使って、視聴者に説明していた。
そのコストには、おそらく今回の被災者への賠償金は含まれていない。なにしろ想定外だったのだから。

記事抜粋

原発のコストは、たとえ一時的なゆり戻しがあったとしても、長期的に見れば、上がることはあっても下がることはない。下がるとすれば、人々のリスク感、安全意識、人権意識が低下し、専門家や政府の権威が強まった場合だけだ。
(略)
これから原発を作ろうという国は、政府の権威が強く、国民の安全意識と人権意識、発言力が低いという認識に立っていることになる。しかもそういう国も、長期的にはコストの上昇を避けられまい。


抜粋終わり

私たち日本人は、フクシマ原発事故を経験し(現在進行中でもある)、いかにコストがかかるものかを、身をもって体験中なのです。
東京電力が賠償するといっても、結局は国が賠償金の下支えをするわけで、国のお金、と言うのは、私たちの税金だったり、私たちが借金をしてのお金(国債)なのです。
それが実態という最中に、お抱え学者や縄張り意識の強い人たちで占められがち、という「専門家」の進言で政府が判断してGOサインするのは、まさしく、私たちの国を政府が「政府の権威が強く、国民の安全意識と人権意識、発言力が低いという認識」だからではないでしょうか。
①電力不足や電力料金値上げで逼迫する企業。
②原発で生活を立てていた人たちの今後。
電力会社に融資した銀行、電力株を買った保険会社、原子炉製造設備に投資したメーカー、国策として推進してきた責任を問われたくない官庁
これらが、原発再稼動へ向かわせるベクトルなのでしょう。

小熊氏は、『フクシマ』後のリスク感とコストに照らせば、展望のない事業にさらに金をつぎ込むのは無策であり、経済合理性はない、と展開している。
上記①、②を思うと、躊躇がまったくないわけではないけれど、撤退の場面なのかな、と思います。
過去においても頭を悩ませる難題はありました。将来振り返ることがあると、今もそんなときのような気がします。
ドイツが脱原発に舵を切ったように。

最近は、新聞ってどれだけの人が読んでいるのだろう。
年々購読者の年齢層は高くなっているのだろう、とも想像している。
そして、時評を読む人のパーセンテージは?。
学べたり、共感できたりすると、得した気分になるものだけれど。



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曇天の中門 -東大寺大仏殿の前-

2012-04-24 21:54:17 | 絵画・マイギャラリー
雨粒が落ちなくて良かった、と奈良公園をサクサク歩く。
大仏殿のあたりで、45分足らずの自由時間。
なんとか、ザクッとスケッチブックに収めたいものだと、4Bの鉛筆を走らせる。
門の庇の向こうに覗くのは萌え始めの若草山と思われるが、曇天は少し残念。
自宅に帰ってから色を置く。
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吉野の桜、ちょっと遅すぎだった

2012-04-24 21:28:48 | 絵画・マイギャラリー
直前の雨で桜は葉桜。上千本、奥千本が見ごろらしいが、ツアーでかつスケッチしたい我々には、桜の近くまで山を登る時間がない。遠望の桜でガマン。
予報では好天の望みなしだったけれど、お昼ごろには日が射してくれた。ラッキー!
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次、更新します。

2012-04-19 15:42:08 | 母のことなど
トップが写真では、ちょっと気恥ずかしくもあり、ですから。
日本の医療制度はすごいです。
3日目で個室に移動して、今日5日目で、嚥下のリハビリが始まりました。
なにせ95歳ですから、1週間も飲まず食わずだと、食べる能力も衰えると心配していたのですが、どうやら、プリンやらゼリーを食べる試みが始まりました。
看護師さんではなく、これはこれで専門の方だそうです。
よく考えられた仕組みだと思うし、高齢者の体力減退を知り尽くしたプロが関わってくださるというのは、本当に助かります。

病室には小さな有料テレビもあるそうです。
右手に力が入らないから、左手での操作になりますが、使い方をマスターしたとのこと。
95歳で新しい機械操作になるわけですが、好きな時にテレビをつけられる状態になったのはよかったな、と。
ベットの上での24時間は長いでしょうから。

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そして戦地からの写真。父です

2012-04-19 07:24:11 | 母のことなど
20代後半でしょうか。身長も高く、甲種合格です。
一人っ子です。ずっと、父が死んでからの昔話として聞いたのですが、妹二人が幼くして死んでいるので、祖母(明治21年生)は、大事に、危ないことはさせないように眼を光らせて育てたそうです。今で言えば過保護、でしょうか。
息子の帰りを希いつつ、自分は孫の世話をし、嫁は必死に生活費を稼ぐ。
母が、病に伏せた実母を見舞いに帰っても、実母は、顔を見て直ぐに(姑さんから叱責されることを慮って)「早く帰れ」と追い返した、とも。
ボケてはいませんから、自分の母親の病床のことも思い出しているでしょう。そのときの癖で、今病院のベットで臥せっている母も、もうここはいいから帰れ、って言うのですよ(苦笑)。

戦争があったり、貧しかったり、であっちにも、コッチにも、トゲが張り出していた時代だったように思います。

ちなみに、息子ひとりしかいなかった祖母ですから、初めての女の子である私には、甘かった、です。
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若い頃は長い戦争だった。

2012-04-17 20:44:58 | 母のことなど
実は、母は身辺整理を着々してきたひとで、
私の子供たち3人に制服の下にでも着て欲しいと、紺色の毛糸のセーターを編み終えて、毛糸の機械編みを終わりにした。
去年帰省したときに、私が子育て中に送った、ウチの子供たちの写真を貼ったアルバムを持ち帰ってくれと返してくれた。自分が死んだら不用品としてゴミになるだけだから、と。
そして、自分の古いアルバムにあった写真も、新しいアルバムに整理されていて、あなたが必要ならば持ち帰ってくれと見せてくれた。
大事な写真だけれど、身動きが取れなくなってからでは、紛れてしまうだろうから、との思いなのです。
で、私の元にある。
母は戦争中は20代だから、ドラマ「カーネーション」の主人公より少し若い。
私に語る戦争中の話は、辛い話ばかりなのに、写真の母は微笑んでいる。
父への慰問袋に入れるために写した写真だからだろうか。
今、母は脳梗塞でベットの中だけど、若い母の写真のブログデビューです。
娘時代の写真もそれなりにあります。私がいうのもなんですが、ビジンなのです。
今は、しょぼしょぼの目をして病院のベットで寝ています。
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