連休を利用しての予約を入れているので、天候には当たり外れが出る。
今回は、熱海、沼津に各一泊だったのだけれど、富士山の姿にはお目にかかれなかった。
備忘録として記録しておきます。
車で新東名を走る。最初の目的地は、大磯の旧吉田茂邸。カーナビとスマホの両刀使いだから、ナビは盤石。苦笑 世の中便利になったものです。
できたら小田原城も初日に訪問してから宿に向かいたかったのだけれど、高速道路で事故渋滞があり、1、2時間は予定より遅くなってしまった。
雨の中の吉田邸。吉田茂が住んでいたときの屋敷は焼失して、近年建て替えられたものだけれど、終戦後のサンフランシスコ講和条約の当事者であった彼の来歴を紹介してあるので、興味深かった。2階の金の間と称されている富士山の眺望最高の部屋からも曇天しか望めず残念。
アジサイが雨の中できれいでした。また、バラ園もあるのですが、これもお花がいっぱい。我が庭と比べると、、、、と。やっぱり農薬散布の問題でしょうか。
熱海の宿。宿泊予約は相方まかせなのですが、スィートルームでした。
居室部分がクラシカルな布張りの応接セットの20畳超。ウォーキングクローゼットを挟んでその先にベットルームが勿論たっぷりの広さ。トイレが二つ。テレビも各部屋に。あちこちに棚もあり、どこに何を置くか、忘れ物をしないように、が気がかりでした。客室最上階なのに、眺望さっぱり。お天気の良い時にリピートしたい。
小田原城。豊臣軍と北条氏直(北条早雲から数えて5代目)との戦い、小田原合戦の顛末が紹介されていました。北条早雲の一代記を書いた司馬遼太郎の小説「箱根の坂」を夢中になって読んでいた時期があるので、記憶を引っ張り出しながら、展示物を見て回りました。小田原城に隣接して「報徳二宮神社」があり、祭神は二宮尊徳とのこと。境内あたりのカフェでカプチーノを注文。出てきたカプチーノに描かれた模様は、薪を背負った金次郎クンでした。笑
韮山反射炉と江川邸。日本各地の幕末頃の産業の礎を築いたものの一つとして世界産業遺産に登録されたとか。チケット売り場で、重要文化財になっている江川邸とセット購入されますか、と聞かれたので、時間もあるしという程度で、応じた。一昨年に代官屋敷を見たくて、遠州の黒田家という代官屋敷を観に行ったこともあるので、これも意味があるだろう、ぐらいの気持ちでした。
両者の建造物にはちょっと距離がありましたが、車移動なので不都合なし。
江川邸では、ボランティアガイドさんが丁寧に説明してくださり、江戸末期ペリー来航のころの幕府や蘭学を学ぶ人たちの立ち位置を想像しながら見て回ることができました。江川英龍(担庵)という名前も初耳(反射炉を作ろうと幕府に持ちかけた人だと、旅行前の下準備では知っていた)でしたが、佐久間象山や橋本左内などが江川塾に通っていたと。彼のほうが蘭学に置いては先人だったのです。
沼津の宿。同じ系列の宿なのですが、洋室をチョイスしたことで、海辺なのに山側の部屋となる。残念。ま、前日がデラックスだったので、こういうこともあり、と自分を納得させる。苦笑
夕食の金目鯛の煮つけは絶品。網焼きのアワビも実が厚くて満足。だけれど、ボリュームがあり過ぎで、海鮮どんぶりに載っているお刺身を全部は食べきれず残すほど。
もう今の自分は若くはナイ、とヒシヒシと感じる。
3日目は修善寺の源頼家の墓に向かう。
太平洋戦争前後、秀吉の時代の小田原合戦、ペリー来航の幕末、と時代の旅もしているわけで、今度は、どれよりも遡って鎌倉時代、です。
修善寺温泉の町並みは旧来の細い道路の温泉街で、広めの駐車場に車を置いて案内板を頼りに探す。あった、こっち、と思うと、源範頼の墓の間違い。一字違いだから、どっちでも、と思いそうだけれど、そんな人知らない、頼家の墓じゃないと意味がない、と相方。
頼朝の子供が2代将軍頼家で23歳で殺されて、弟の実朝が3代将軍になったのだけれど、実朝も鶴岡八幡宮で狙われ落命。公暁(頼家の子供)の企みかと語られているそうです。頭の中が混乱。頼家も実朝も北条政子の子供。公暁は孫にあたる。そんな身内同士で、命の狙いあいをしていたのが鎌倉幕府だったんですね~。この時代受験がらみでしか知らないもので。トホホ
私にとっての修善寺と言えば、夏目漱石なんですが、夏目漱石記念館に向かったのですが、なぜか道路が寸断されていて、あきらめました。
ああ、充実した歴史旅でした。
空間の移動もさておき、時間の移動が頻繁で(苦笑)、備忘録として残しておきます。
日本のどこを訪問しても、偉人の歴史館が作られていて、学芸員さんやボランティアさんの案内が用意されているって、この国も豊かになったものですね。
雨模様の日が続いているので、庭への水やりの心配はありませんでした。
ナエマの一枝を切ってキッチンの窓辺に。