大学の同窓会です。
卒業してから2回目、6年ぶりです。前回行ったときも早めに着いて、下宿を訊ねたり、卯辰山に連れて行ってもらったりしたのですが、今回は街を散策しました。
旧制四校のレンガ校舎のある辺り、中央公園と呼んでいたと思うのですが、昔の開放的な公園ではなく、木々もすっかり育って、その違いからか、閉塞感を覚えました。
レンガ校舎は、現在現代文学資料館として運営されているのですが、謳っている作家は、徳田秋声と室生犀星、ああ、中野重治の名前もみました。(入館していないけど)私が住んでいた昭和40年代も、これらの作家を地元のゆかりの人と、見聞きし、それから40年近く経っても、まだ同じ路線で、地元の…、と語っているところに、うーん、この業界の人たち独特の満足感に浸っているのでは…、そんな感想を思いました。秋声にも犀星にも詳しくないから、こんなことを言うのだと、お叱りを受けるかもしれませんけれど…。
そんな思いで、興味も薄げに歩いていると、公園の一角、四校レンガ建物の傍に井上靖の散文を記した石碑がありました。
メモしてこなかったから、私の勝手流な記憶ですが、こんな内容でした。
若い頃、北陸の夜の砂丘にひとり寝そべって、星空を眺めたことがある。
その時、流星がひとつ仲間から離れていった。
若い自分は、その星に若い自分の孤独を重ねて眺めた。
そして、
ずっと後になって、また、同じように夜の砂丘を訪れた。
また、流星が星々から、ひとつ離れていった。
そのときの自分は、(自分自身であり続けるために)定まったところから、離れようとする星のエネルギーを想った。
井上靖さんには、その子供の頃を書いた「しろばんば」中学生時代を書いた「夏草冬濤」、その後の「あすなろ物語」がある。
あすなろ物語を書いたあたりが、この四校時代を含んでいる。
その後、日本文学の重鎮のような存在になり、後年はノーベル賞に毎年ノミネートされ、受賞決定の連絡を記者たちと一緒に待つのが年中行事になったとか聞いて、興ざめもしていたけれど、この石に刻まれた散文を読んで、良いものを見つけた気分になりました。
上記の私の表現は、まったく舌足らずで、正確に伝えられないことが井上氏には申し訳ないのだけれど、公園を散策したときに、まだ古くはなっていない、あの石に刻まれた文章に足を止めた印をここに書き留めます。
そして、そのときのスケッチです。
残暑の厳しい一日でした。
卒業してから2回目、6年ぶりです。前回行ったときも早めに着いて、下宿を訊ねたり、卯辰山に連れて行ってもらったりしたのですが、今回は街を散策しました。
旧制四校のレンガ校舎のある辺り、中央公園と呼んでいたと思うのですが、昔の開放的な公園ではなく、木々もすっかり育って、その違いからか、閉塞感を覚えました。
レンガ校舎は、現在現代文学資料館として運営されているのですが、謳っている作家は、徳田秋声と室生犀星、ああ、中野重治の名前もみました。(入館していないけど)私が住んでいた昭和40年代も、これらの作家を地元のゆかりの人と、見聞きし、それから40年近く経っても、まだ同じ路線で、地元の…、と語っているところに、うーん、この業界の人たち独特の満足感に浸っているのでは…、そんな感想を思いました。秋声にも犀星にも詳しくないから、こんなことを言うのだと、お叱りを受けるかもしれませんけれど…。
そんな思いで、興味も薄げに歩いていると、公園の一角、四校レンガ建物の傍に井上靖の散文を記した石碑がありました。
メモしてこなかったから、私の勝手流な記憶ですが、こんな内容でした。
若い頃、北陸の夜の砂丘にひとり寝そべって、星空を眺めたことがある。
その時、流星がひとつ仲間から離れていった。
若い自分は、その星に若い自分の孤独を重ねて眺めた。
そして、
ずっと後になって、また、同じように夜の砂丘を訪れた。
また、流星が星々から、ひとつ離れていった。
そのときの自分は、(自分自身であり続けるために)定まったところから、離れようとする星のエネルギーを想った。
井上靖さんには、その子供の頃を書いた「しろばんば」中学生時代を書いた「夏草冬濤」、その後の「あすなろ物語」がある。
あすなろ物語を書いたあたりが、この四校時代を含んでいる。
その後、日本文学の重鎮のような存在になり、後年はノーベル賞に毎年ノミネートされ、受賞決定の連絡を記者たちと一緒に待つのが年中行事になったとか聞いて、興ざめもしていたけれど、この石に刻まれた散文を読んで、良いものを見つけた気分になりました。
上記の私の表現は、まったく舌足らずで、正確に伝えられないことが井上氏には申し訳ないのだけれど、公園を散策したときに、まだ古くはなっていない、あの石に刻まれた文章に足を止めた印をここに書き留めます。
そして、そのときのスケッチです。
残暑の厳しい一日でした。