日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

金沢に行ってきました。

2007-08-28 10:42:46 | 私の雑感あれこれ
大学の同窓会です。
卒業してから2回目、6年ぶりです。前回行ったときも早めに着いて、下宿を訊ねたり、卯辰山に連れて行ってもらったりしたのですが、今回は街を散策しました。
旧制四校のレンガ校舎のある辺り、中央公園と呼んでいたと思うのですが、昔の開放的な公園ではなく、木々もすっかり育って、その違いからか、閉塞感を覚えました。
レンガ校舎は、現在現代文学資料館として運営されているのですが、謳っている作家は、徳田秋声と室生犀星、ああ、中野重治の名前もみました。(入館していないけど)私が住んでいた昭和40年代も、これらの作家を地元のゆかりの人と、見聞きし、それから40年近く経っても、まだ同じ路線で、地元の…、と語っているところに、うーん、この業界の人たち独特の満足感に浸っているのでは…、そんな感想を思いました。秋声にも犀星にも詳しくないから、こんなことを言うのだと、お叱りを受けるかもしれませんけれど…。
そんな思いで、興味も薄げに歩いていると、公園の一角、四校レンガ建物の傍に井上靖の散文を記した石碑がありました。
メモしてこなかったから、私の勝手流な記憶ですが、こんな内容でした。

若い頃、北陸の夜の砂丘にひとり寝そべって、星空を眺めたことがある。
その時、流星がひとつ仲間から離れていった。
若い自分は、その星に若い自分の孤独を重ねて眺めた。
そして、
ずっと後になって、また、同じように夜の砂丘を訪れた。
また、流星が星々から、ひとつ離れていった。
そのときの自分は、(自分自身であり続けるために)定まったところから、離れようとする星のエネルギーを想った。

井上靖さんには、その子供の頃を書いた「しろばんば」中学生時代を書いた「夏草冬濤」、その後の「あすなろ物語」がある。
あすなろ物語を書いたあたりが、この四校時代を含んでいる。
その後、日本文学の重鎮のような存在になり、後年はノーベル賞に毎年ノミネートされ、受賞決定の連絡を記者たちと一緒に待つのが年中行事になったとか聞いて、興ざめもしていたけれど、この石に刻まれた散文を読んで、良いものを見つけた気分になりました。
上記の私の表現は、まったく舌足らずで、正確に伝えられないことが井上氏には申し訳ないのだけれど、公園を散策したときに、まだ古くはなっていない、あの石に刻まれた文章に足を止めた印をここに書き留めます。

そして、そのときのスケッチです。
残暑の厳しい一日でした。



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映画「父と暮らせば」を見る。

2007-08-22 13:58:02 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
原作は井上ひさし。「父と暮らせば」は舞台で上演中から新聞記事で気になっていた作品でした。
1948年の広島。
原爆の8月6日、ふとした偶然で命が助かった娘(23歳)と、亡くなった父の物語。
娘は、当たり前のように父に語りかける。当然、その父、というのは、現存しないはずだから、幽霊と言うことになるのだろうか。
その父と娘の、広島訛りの会話が美しい。
井上ひさし氏の舞台作品として書かれたものであることもあって、場面の殆どが父娘の家の中での会話。
娘役の宮沢りえの長台詞、彼女の風情が美しいこともあるからか、その話し振りにも引き込まれてしまいます。
日本の言葉って、こんなにも美しいものだったのか、と改めて思いました。
論理的に語りつくすのではなく、言葉の後先に、空気のように相手を思いやる「気」のようなものを纏っているようにすら感じました。
きっと、日本語のせい、というより、その父と娘のお互いを思う「気配」が、言葉を美しくしているのでしょう。

ふと、かつて、30年以上前ですが、テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」の家族の話を録音テープで聞いて、英語って美しいな、と感嘆したことを思い出しました(ビデオなんてない時代です)。
英語がわかるわけでもないのだけれど、抑揚、音調。音ですから、目には見えないのだけれど、美しいものに囲まれている、そんな気分になる会話のやり取りでした。

井上やすしさんって、本当に言葉の良い使い手、ですね。
こんな風に彼が言葉を紡ぐと、ポン、もうひとつポン、と日本人の文化の発進となるような作品が生まれるのかと思うと、作家ってすごいな、と思います。

映画、としても、描いている時代が時代ですから、色も抑えられていて地味なのですが、宮沢りえさんのか細い美しさがひときわ映えました。

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北風と太陽

2007-08-21 13:26:02 | 私の雑感あれこれ
誰もが知っている話です。
ちなみに、私がこの話を初めて知ったのは、幼稚園の時。
昭和30年、田舎の幼稚園でしたが、先生が模造紙にマジックで描いたお話がふたつ長押に張ってありました。
もうひとつは「ねずみの嫁入り」。
考えてみれば、どちらも甲乙つけがたい、わかりやすい話です。

結局は、「北風と太陽」なんだから…、という言い方を聞くと、私の脳裏には、あの丸テーブルを囲んでお弁当箱を開いていた頃が浮かび、食べながら見上げた、絵柄を思い出します。

娘曰く、「お母さん、私って、人からいろんなこと、相談されるんだ…、」そうです。
「特に、恋愛の相談が多いの。男性からも、女性からも」
で、最近の例
「何年も付き合っている(ここ数年は遠距離らしい)彼氏となかなか思うように連絡が取れなくって」の相談
携帯電話を持っていなくて、持ってほしいのだけれど、面倒でいやだと言い張り、困っているとのこと。

回答:しばらくこちらからの電話を我慢したらいい。
彼氏から架かってきても、出ないで、5回は無視すること。

案の定、電話がかかってきたそうです。
彼女、彼からの電話に嬉しくて、どうしようと、娘に尋ねたそうです。
出ては駄目。
彼女、我慢しました。
すると、また、電話。
また、電話。
と、今まで、彼からの電話はめったになかったのに、あっという間に5回の電話がかかってきたそうです。
こんなことなんるとは、彼女は驚いて、大喜び。
で、5回目の電話に、どう答えよう、と相談。
「忙しくって、電話に出られなくてゴメン」と、そっけなく返事するようにサジェスト。
で、彼氏の反応は。
彼女が電話に出ない、連絡が取れないことに、イライラして、あらぬ心配もしたようです。
で、携帯電話を持つための、面倒な諸手続きもすると言い出したとの話。

相談した彼女、ことの成り行きが、あまりに、娘の指摘どおりで、びっくりで、尚且つ大喜び、だったとのこと。

でしょ。
お母さん。
「北風と太陽」なんだよね。

お母さんが、心配したり、思うようにならないと思ったり、こうあってほしいと願っていることにしたって、きっと「北風と太陽」なんだよ。
そういう言葉を、置き土産として、8月中旬一週間帰省していた娘は、本拠地東京へ帰っていった。

このお母さん(私)にとって「北風と太陽」というと、あの幼稚園が出会いだったけれど、娘にとっては、いつどこで出会ったのだろう。
そういえば、あの子は小学校の図書館の本の殆どを読んだ子どもだった。

余談:女性からの相談は大抵うまく解決できるのだけれど、男性の場合は、なかなか思ったようには、うまくはいかない。
   何で?
   男性って、恋愛相談を普通、人にはしないでしょ。なのに「私に相談する」っていう、そういうタイプということで、その人自身が、あんまり…ね。
   ということでした。



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河野洋平衆議院議長による追悼の辞、転載です。

2007-08-16 13:14:25 | 社会問題
私がいつもお訪ねしている笹村さんのブログ「地場・旬・自給」に掲載されていたものを、転載させていただきます。
できたら、一人でも多くの人に、一読してもらいたくて。

-以下、引用です。

全国戦没者追悼式での、河野洋平衆議院議長による追悼の辞<全文>
天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式が挙行されるにあたり、謹んで追悼の辞を申し述べます。
 終戦のご詔勅のあの日から62年の歳月が流れました。国策により送られた戦場に斃(たお)れ、あるいは国内で戦火に焼かれた内外全ての戦没者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧げます。
 今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれたものであり、私たちは日本人として、これを決して忘れてはならないと思います。三百万余りの犠牲は、その一人一人が、一家の大黒柱であり、あるいは前途に夢を持ち、将来を嘱望された青年男女でありました。残されたご遺族の悲しみを思います時、私は失ったものの大きさに胸が潰れる思いであります。
 そしてそれは、わが国の軍靴に踏みにじられ、戦火に巻き込まれたアジア近隣諸国の方々にとっても、あるいは真珠湾攻撃以降、わが国と戦って生命を落とされた連合国軍将兵のご遺族にとっても同じ悲しみであることを私たちは胸に刻まなければなりません。また私は、日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います。
 私たち日本国民が、62年前のあまりに大きな犠牲を前にして誓ったのは「決して過ちを繰り返さない」ということでありました。そのために、私たちは一人一人が自らの生き方を自由に決められるような社会を目ざし、また、海外での武力行使を自ら禁じた、「日本国憲法」に象徴される新しいレジームを選択して今日まで歩んでまいりました。
 今日の世界においても紛争は絶えることなく、いまも女性や子どもを含む多くの人々が戦火にさらされ苦しんでいます。核軍縮の停滞がもたらした核拡散の危機は、テロリズムと結びついて私たちの生存を脅かそうとさえしています。私たちは、今こそ62年前の決意を新たにし、戦争の廃絶に向け着実な歩みを進めなければなりません。その努力を続けることこそ、戦没者の御霊を安んずる唯一の方法であると考えます。
 私は、国際紛争解決の手段としての戦争の放棄を宣言する日本国憲法の理念を胸に、戦争のない世界、核兵器のない世界、報復や脅迫の論理ではなく、国際協調によって運営され、法の支配の下で全ての人の自由・人権が尊重される世界の実現を目指して、微力を尽くして参りますことを全戦没者の御霊を前にお誓いし、私の追悼の詞(ことば)といたします。

-以上、引用でした。

朝、彼のブログで、掲載されている、河野氏の文章を読んで、こんな政治家がいらっしゃることを嬉しく思い、全文を読む機会に恵まれたことをありがたく感じました。
そのあと、数時間して訊ねると、私と同じ思いの方もいらっしゃるようで、一人でも多くの方の目に留まれば、と思って、転載させていただきました。
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K君から聞いた話。

2007-08-12 16:26:42 | 私の雑感あれこれ
「今度ゴム園をすることになった」
「なかなか思うように話が進まなかったのに、20ヘクタールの内、2ヘクタール分の収益を村(行政?)に、納める約束をして、ようやく了解が得られた」

20ヘクタールっていうのは、サッカー場30個分の広さ、とか。
日本人の感覚では、広い。
で、ゴムの木を育てるのは、これから。
その国では、ゴム栽培はかつてなかったことなので、年に一度でも低温の日がある、全滅する。気温的には多分大丈夫だと判断したけれど、幼木は、猪や鹿に食べられる、という難問があって・・・。

ふぅーん。大変だね。
是非上手くいって欲しいけれど。
日本でも山間の畑地では鉄線を張り巡らしているけれど・・・。
広いから、とてもその費用が賄えない。

そっか、寝ずの番で見張り、っていうのも大変だね。
って、ところで話は終わり。

とにかく収入をえる手段としてやり始めるしかない。
接木した幼木を先ず沢山増やすところから。
作付け地は住居から遠いらしい。
どれだけ遠いか。
バイクで片道10時間。
えっ!車でいけないの?
今は雨季で、道路が水没しているところがあるから、車は無理、だそう。

で、当然、通うわけにいかず、父と息子が、作付け地の近くに小屋を建てて滞在する計画らしい。

まだ、姿かたちはないものの、上手くいったらいいね、と、夢想で終わらないことを願う。

でも、何もしないと始まらない。
一家10人程、収入をえる手段は、今のところないのだから。

その国の人から、夢うつつに聞いている気分であったけれど、そんな暮らしもある。これは現実。

熱帯なので食べるものは、なんとか賄えるのだろうけれど、それ以上の現金収入に繋がる手立てがない、誰か一人に現金収入があると、一族がそれに頼るしかない暮らし。
きっと、地球規模で考えると、この生活形態もめずらしくはないのだろうけれど、日本人から見ると隔世の感。

先日のK君が語っていた話題が、その後何度も食卓の話題になる。
あぁ、なんとかゴムの木が育てばいいのだけれど、父子ふたりで、どうはじめるのだろう、想像も難しい。
そもそも5年ほど経たないと収益がでないらしいのに・・・。
でも、何もしないよりは益し、それしかしようがないから・・・。

ふぅーん、逞しいな。
ただ、そう思うばかりです。

その国には、よくJICAや世界銀行の人が来て、多くの援助をしてくれているそうです。でも、多分高予算をかけて水路を作っても、道路を作っても、JICAや世界銀行の人や国のトップへの経費に消えて、予算が消化されれば途中であってもそこで終わり、村人は高額の予算ほどの有益性の実感はないそうです。村人に作らせたら、低賃金だからもっと役に立つものを作れるのに・・・。
村人からのこんな声は届きません。
あぁ。




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こんな日々を送った母

2007-08-09 12:16:16 | 母のことなど
久しぶりに顔を見に行くからね、北陸に住む母に伝えた電話。

今日は大掃除なんだけれど、90(歳)を過ぎて、役立たずだから、自室で休んでいる、と。
そういえば実家の大掃除は、畳を炎天に干して、縁の下に風を通して乾かして…、と手伝いをしていた頃の、記憶が読みがえる。
昔の家だから畳が多い。1階だけでも、12畳、8畳、4畳半。
畳の下に敷いていた古新聞の埃を払うのも、炎暑の中での汗だくになる仕事だった…。

今日、仏壇の前で、昔の辛かった5年間のこと、また思い返していた、と。
昭和16年間からの5年間。
昭和15年生まれの乳児を抱え、満年齢で23歳の母。
夫が出征し、収入がない。
町で唯一の工場である紡績で働きたいと、姑に頼んだけれど、
「紡績は嫌いだ」とはねつけられる。
どうしようもなく思っている翌日、何もしないでどうして暮らしていくのかと、叱責。
はたと困って、ついた仕事が「砂利運び」という重労働。
電話口の母。
若い人は誰もいなかった。
殆どが男の人。
それも50、60歳の年取った、農家の普段から力仕事をしてきている人たち。当然、働き盛りは出征している時代。
そんな中に混じって、若い女の自分ひとりが、初めての重労働に耐えるしかなかった、誰にも愚痴をいわないでやりぬいた5年間を振り返ると、何回思い出しても、涙で胸いっぱいになるよ。
実家も歩いて15分程度のところにあるけれど、親には心配させたくないから、一切辛い話は聞かせなかった、という。

私は3人兄弟の真ん中で、女一人。
だから、何度も何度も、母親の苦労話を聞いてきている。
時には、またか・・・と、思うことも。
でも、90歳を超えても、母親の語る日々の過酷さは減らない。
毎日の辛い日々は、天から自分に与えられた試練だと、そう思ったから耐えられた。その試練を耐えたから、今、幸せなのだと、「今、幸せ」と言う言葉が出てくると、「よかったね」と相槌を打って、母との話は終わる。

今日、聞いた、少し具体的ことを並べてみる。

山に砂利を担ぎ上げる仕事の手間賃

砂利1貫(3.75キロ)につき5銭
1回で6貫(22.5キロ)を担ぐから、1度で30銭
母には1日5回が限度で、1日で1円50銭
働く時間は、早朝3時から午後3時の12時間
-本当に朝の3時か、と信じられなくて念を押したけど、そう、星が出ていた、と返事。なんと!
休日は特になし、で、雨が降ったら休み。
1ヶ月30日働いて、45円
雨の日が多いと、収入は減る。

戦時中とはいえ、労働環境に驚く。
同じ年頃の仲間は一人もいなくて、ただ耐えた。
給料袋は、封を切らずに姑に渡したから知らないけれど、労働単価から、ほぼどれだけの収入だったか、母の想像。
その収入は、姑と母と長男の生活費。

昭和21年、あまりの過酷な労働をしていることを見かねて、人から紡績工場を勧められる。そのときは、何故か姑も反対しなかったので、工場勤務となる。
結婚前は仕事場で指導する立場で働いていたこともあって、臨時工から、1ヶ月足らずで本採用になり、教える係に抜擢、砂利運びの重労働とは、体の疲れ具合が格段に違った、という。
工場では、給料のほかに住宅手当、扶養手当、割り当ての畑(※)も与えられ、給料袋の中身も、以前より分厚かったと思う、と母。
-ここでも、母は給料袋を自分で開けずに姑に渡しているので、金額は知らない。
(※)当時は食糧事情が悪かったことから、工場の空き地を畑作地として、従業員に作付けを認めていた。

昭和23年7月下旬、夫のシベリアからの帰還。

「シベリアに連れて行かれると、殆ど帰ってこられない」なんて、気軽に口にする人がいて、腹立たしかった、といっていた頃も、まだ20代。

幾年月。
好きな花も思いっきり作れたし、幸せだった、と続く。
今は、花が咲いてても、(足が不自由で)そばまで行くのがままならなくなって、ここ2、3日見ていない、と。

また、今度来たら、話聞いてね。
うん、行くからね。
そういって、受話器を置く。










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映画「ビルマの竪琴」を見る。

2007-08-08 13:00:49 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
1985年製作の水島上等兵を中井貴一が演じているもの。
「ビルマの竪琴」はそれより以前にも多分映画化されているように思うし、第一、国語の教科書か副読本かで、扱っていた物語だったから、私達世代(若い人たちは、何歳ぐらいまでだろうか?)の日本人はどこかで耳にしたことがある話という印象だと思う。
8月という月は、戦争の話題がテレビにもよく取り上げられる。
先日も玉砕の島、硫黄島の生存者のコメントをテレビで放送していました。
私たちに戦争の体験を語ってくださる方は、常に年配者であり、その方々も80歳代が殆どになってしまいました。
その方たちは、どの方も驚くほどの記憶で語ってくださるのを聞きながら、その話の現場にいたときは、その語り部は20歳前後の若き兵士だったのです。
青春の真っ只中を「戦に行くべし」以外の選択がない時代、そのときの体験をずっと、心にとどめて生きてこられたのだと、そう思って画面を眺めると、理解しきれないのだろうな、と考え込んでしまう。
そんな、昨今の私に、昨日「ビルマの竪琴」でした。
若い水島上等兵が、多くの亡骸を置き去りにはできないとして自分自身に下した結論は、彼の生き方の選択。
日本への帰還船の中で、仲間が言った台詞「上官は水島の帰りを待っている家族にどう説明するんだろう…」
戦争のなんと罪作りなことか・・・。

日本兵も敵軍であるイギリス兵も、好きで戦をしているのではないのに、流れに巻き込まれるしかない一兵士には、判断の余地はない。

戦後の30年代に教科書にも掲載された話。
戦争のやりきれなさを描いている話なのに、
でも、それからもずっと、次の世紀になった現在まで、戦争のない時代はまだ来ていない。
映画の地ビルマも、今はミャンマーと呼び名も変わって、アウンサンスーチー女史も軟禁状態と、時折新聞で知る。

なかなか、良かれと思う方向に向かうことの困難さを思う。
石坂浩二が上官を演じるこの部隊に、暴力も理不尽もなかったことが、少し心をほのぼのとさせる。



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市民ギャラリーで絵を見る。

2007-08-05 22:08:10 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
真夏の日曜日。友人に誘われて街中に絵を見に行く。
普段、仕事で街中に通勤しているのだけれど、そうまめに展覧会めぐりをすることもなくなった。
気の向いたときに、ふらっと立ち寄ったり、友人のお誘いに乗ったりする程度。

で、今日の収穫は2枚のパステル画。
市民ギャラリーで予定のグループ展を見終わり、隣の部屋も覗こうかしらと、見やった時、目に飛び込んできた風景画。

靄だったか霞、だったか、そんな題名だった。
森といえばいいのか、林なのか、道が画面中央から奥に向けて、見るものの視線を辿らせ、画面中央が木々の幹の向こうに明るくぼんやりとした、朝もやを思わせるひと時を描き留めている。
木漏れ日に当たるのだろうか、一箇所明るい色が置かれているが、多すぎもせず、控えめで、その控えめ加減が静けさを語っている。
画面を立てに10本ほどの幹が、太く細く、手前に中ほどに、輪郭もぼんやりと、描かれている。その木の種類を語りもせず、見るものも知ろうとも求めず、ただ、その静かさと、霞の色合いを満喫できる。それで充分。
木がよく描けているからでもなく、奥行きを表現できているからでもなく、風景をこんな風に表現できるのだと、そう思える絵に今日出合えたことが、嬉しかった。

贅沢なことに、画集に載っているような有名な絵を見る機会も度々ある。
でも、今日にように、作者は素人絵描きさんであっても、好きな絵に出合うと、結構何年間も、心のポケットにしまいこんで、時々思い出したりする癖が私にはある。



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舛添要一著「永田町VS.霞ヶ関」を読む

2007-08-03 10:35:13 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
著者舛添要一氏は参議院議員になる前、テレビのTVタックルでよくお見かけした、国際政治が専門の元大学の先生です。
今回が6年の任期の改選期ということもあり、選挙前の今年5月に出版された本。

安倍首相もそうだけれど、名の通った政治家の皆さん、よく考えられた、(殆どの場合、自分を売り出すための)題名を付けて、時期を得て出版なさるから、その類なのかもしれないけれど、あまりその手の本を読んだことがないので、比較はできない。

この本、読みやすい。
現在の永田町と霞ヶ関の解説本として、分かりやすい。
東大の教養学部で教えていらっしゃった先生というキャリアだろうか、自分に好都合な話に偏るのではなく、素人の読者に、こう説明したら理解できるだろうか、という視点で書かれてある。

威張っていない。
自分が属している自民党の「仕組み」、国会議員の「仕組み」、官僚と大臣の「仕組み」が、なるほどと頷ける。
力を蓄えるためには、毎日の研鑽が必要であり、その場として、毎朝の各部門ごとの部会が開催されている、とのこと。

私は、たまたまこの本を目にしたわけだけれど、国民にこんなに明朗に解説できる人が、政治に関わっていると思うと、少し元気になる。

「地盤・鞄・看板」で、政治をやられたら叶わない。
政治家が力を付けることによってこそ、霞ヶ関に頼るのではなく、霞ヶ関を利用できる、行政府をもてるのだろう。

一票を投じる資格しかないけれど、やがてはよくなる、そう思いたい。

PS.本の発行時期が時期だけに、現政権ヨイショの文章になっているところも確かにあります。



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「緑のオーナー制度」・・・もうそんな月日が流れたのですね。

2007-08-03 07:45:03 | 社会問題
朝のテレビニュースで、林野庁募集の「緑のオーナー制度」の話題
信州大学の野口教授 「国が言うのだから間違いないだろう、と言うことで信用したのだから、補償問題になっていくのだと思う」
えぇ!おかしいな。
昭和59年から平成10年にわたって募集がなされた、「緑のオーナー制度」の話。

募集が始まったその最初の頃。
一口50万円。私自身は、「あーぁ、捨て金かな」思ったけれど、「緑の森を育てるのに自分が一役買っていると思うと楽しいから」と説得されて、家人が申し込んだことを覚えている。
結果、落選して出資はしなかった。
その時点で、森林育成はおいしい話ではない、損しなければ儲けもの、とウスウス分かっていたハズ。
そもそも「投資のお誘い」だから、どこにも元本保証と書かれてはいない。

それなのに、専門家としてコメントを求められた上記教授は、補償も止むを得ず、なんてことを口になさるとは…。

国が詐欺のようなことをしたのならば、賠償問題もアリだろうけれど、「投資」と持ちかけたのだから、それを理解して応募したと解釈して差し支えないと、私は思う。

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