日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

下ろした緞帳のすきまから、とはちと大袈裟ですが・・・。

2008-12-17 10:14:14 | 私の雑感あれこれ
主婦ではあるものの、仕事持ちであることを言い訳に、ついつい最小限の掃除で日々を送っていました。
先日の集まりで、耳にしたのです。
彼女はヘルパーさんをしています。
「生活介護(身の回りの掃除や食事の世話)の1時間で結構できるよ。繰り返していくと、少しずつ以前よりきれいになっていく」と。

そうか、と思ったわけです。
「私も、我が家を訪れるヘルパーさんになろう」と。
それで、時間を決めて、
心中でつぶやくのです。
「こんにちは。これから始めますからね」と。
時計の長針は12を差して、これから1時間だったり、2時間だったりを、余所様の仕事をしている気分で、「休まず」に働くのです。

前回のコメント日翌日から、そうして1週間。アハハ。
で、今朝は中だるみ。

確かに、カラス吹きも、ワックスがけも自分なりに完了。
片付いたかというと、疑問符がつかないでもありませんが(笑)。

面白感覚でやっています。
自分に檄を飛ばさないと、好きではないことにはなかなか・・・、のタイプなのです。

ブログ封印としておきながら、案山子の幕間からのおしゃべりでした。
それでは、年末へ向けて我が家ヘルパーとの兼業を続けます。

-幕下りる-

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師走も中旬。

2008-12-09 13:29:36 | 私の雑感あれこれ
なにやら気忙しくなってきました。
よって、「本年のブログ封印を宣言します」・・・なんと大袈裟な!

皆様
私にとっての大勢の皆様
本年はどうもご訪問ありがとうございました。
来年もよろしくお付き合いください。

この封印を解いた時、スケジュール通りの年末を送れたと、書きこめたらいいのだけれど・・・。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「氷川清話」の中から

2008-12-07 22:04:32 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
「マイ・ドリーム」のケニア滞在の著述は興味深く読めたので、つづきを書いておかなくては、と思いながら数日。

でも、こっち(文庫本の「氷川清話」の中の、勝海舟伝)の、このフレーズが、まったく時期にぴったりな気がして、ここに書きとめておきます。

抜粋
海舟がアメリカから帰国して、老中から尋ねられた話がある。
「そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」
このとき海舟は結局こう答えた。
「さよう、少し目に付きましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
つまり海舟がアメリカで把んできたものは「能力主義」という人事管理能力の方式にあった。血筋・家柄・身分・肩書で人を配置するのでなくて、能力相応に役割と地位を配分するというシステムである。

  引用ここまで

時代は1860年代、幕末。咸臨丸で行ったアメリカで見たものをと、問われて、勝海舟が答えた返答です。
-1860年アメリカはリンカーンが大統領に就任、その後60年代半ばまで南北戦争の混乱の時代
 咸臨丸の一行はワシントンを訪ねている(彼らが滞在したホテルは、現在もワシントンで健在でした)
 当時のサンフランシスコは人口6万人の港町とあります。行ったことはないのですが、現在の見聞きするイメージと随分違うものが想像できます。

海舟はアメリカ行きの前にも、オランダ人高官との交渉を重ねており、西欧の風を察していたというか、当時の日本では飛びぬけて外国通の人でした。
鎖国していた日本の窓口は長崎だけ。そこから僅かに入ってくる辞書、書物を丸写しして学んだ人(書物の借り賃も高く、2部写して、一部を売って借り賃を捻出したとか、持ち主が寝ている夜中の本があいている時間に書き写させてもらったとか)で、貧乏旗本の身分ながら、着実に力をつけていき、力の弱った幕府には、なくてはならない存在とまでのし上がった人物でもあったのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マイ・ドリーム」を読む  

2008-12-02 21:36:48 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
先月大統領選挙で勝利したバラク・オバマ氏が1995年に初版を出した「マイ・ドリーム」を読みました。
彼の生い立ちから、大学院入学前に、父親の国ケニアを尋ねたところまでですから、20代前半頃までの記述です。

昨今、大統領候補ということで、マスコミにも情報が随分取り上げられているので、おおよそは皆さんもご存知だと思います。
カンザス生まれの白人の母とケニア出身の留学生がハワイ大学で知り合い、オバマ氏は生まれました。双方学生。彼が1歳のころか、向上心の強い父親は、ハーバード大学への留学希望を優先させ、母子はハワイでの別居生活になります。そのまま親子は一緒に暮らすことなく、両親は程なく離婚。その後母親はインドネシア人留学生と恋仲になり、オバマを連れて結婚のためにインドネシアへ向かいます。
人種の違いにもおおらかな祖父母に育てられた母はにとっては、その地にあっては、その地の生活をという育てられ方をします。ただ教育を大切に思う母は、現地の学校教育だけではと考えたのか、毎朝4時起きで、オバマにアメリカの通信教育も施すのです。そして6歳、母親と離れてハワイの学校に編入。祖父母との生活が始まります。
母親から、同居の祖父母から、去っていったケニア人の父親の有能さ、魅力的な個性を聞かされて育ちます。
オバマの中での父親の記憶は、10歳のときにハワイに立ち寄った時の出会いのみ。白人家庭の中にあって、家族とも違う、黒人の少ないエリート学校にあってクラスメートと違う肌の色を意識せずにはいられません。自分は母親とも祖父母とも違う、アメリカの黒人とも違う、思春期に向う彼は孤立感を併せ持つ少年として育っていくのです。

つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼 俵萌子さん

2008-12-02 07:23:34 | 私の雑感あれこれ
今朝の新聞に11月27日肺炎で死去77歳との死亡記事。
そう、70代で、まだまだなのに、こんな形で死は訪れるのかと、記事の写真を眺める。写真の彼女笑顔。

俵萌子さんというと、若い世代では知られていないのでしょうね。
働く女性の旗手のような方でした。
それが、正しい判断かどうか、評価は分かれるでしょうけれど、
ワタシが20代のころに読んだ、彼女の話、コレまでに何度も思い起こしたものです。
彼女が新聞記者だったころ、小さな子供たちが布団で寝ている間を、踏まないように、そっと跨いで、仕事に出かける母親だったと。
そして、万一この子らに事故でもあったら、それはワタシの責任。その責任が降りかかってくるのも承知で、仕事を続けているのだ。
そういう趣旨だったように覚えています。
仕事を続けていくということに、自分はそこまで本気だという意味をも込めて。

子育て中、自分が二人いたら、という思いを持つことがある。
高熱で水枕に寝かせて、なんかあったら電話してね。
呼び出し音3回で切れる電話はお母さんの電話の合図。
それ以外の電話は無理に出なくてもいいから。
雨が降っても迎えには行けず・・・。

そんなときは、いつも俵さんの言葉を持ち出して、自分の背中を押していました。

そして、皆さんご存知でしょうか。
離婚時に、かつては女性は旧姓に復帰する制度でした。
現在は、離婚届で用紙に離婚後どちらの姓を名乗るか選択できるようになりました。
同業の俵孝太郎氏と結婚後に、「俵」姓になって社会で認知されている彼女は離婚後一律に旧姓に戻るべきというのは女性に不利益を強いることになると訴えたのは、俵さん、彼女だったと記憶しています。
そういえば、時代の旗手だった彼女の名前を聞かなくなって、随分になります。
77歳、早いような気もしますが、彼女のこと、生き切ったのだと、勝手に想像しています。

追記:今日は「マイ・ドリーム」の書評を書こうと思ったのに・・・、亦の日にします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸城明け渡し・・・またまた「篤姫」の話ですよ。

2008-12-01 23:03:33 | 私の雑感あれこれ
いよいよ江戸城明け渡し。
薩摩藩邸で、勝麟太郎と西郷の話合いの場面。
江戸が火の海になるかどうかの瀬戸際。
ドラマでは、篤姫が島津の殿様の書状を、西郷に見せたことが、大きく西郷の心を動かしたような筋運びだったけれど、

夫曰「ぼくの知る限りでは、あそこまで天璋院が関わっていたかな、と思い、勝海舟の話「氷川清話」をめくってみたけれど、確かにその時の記述はあるけれど、そこには天璋院の名前は出てこない、と。(ワタシはいつも、録画で観るのですが、先に観た夫が、本棚から取り出して、既に再確認しておりました)。

きっと、同じように「氷川清話」のページをめくったひとも他にもいらっしゃったのでは?
アハハ。
ドラマは作家宮尾登美子さんと、脚本家田淵久美子さん作の物語なのですね。

でも、ま、いいか。
戦という多大な消耗を避けて、国を開くことを選択した150年昔の人々が作ってくれた礎があっての今なのだと感心もしながら、学ばせてもらいながら、そして楽しませてもらっています。

明治30年頃、晩年の勝海舟から聞き取り書きしたものが、「氷川清話」その時代を思い浮かべながら、明日から読んでみようと通勤鞄に入れました。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぜんざいを作る。

2008-12-01 14:03:13 | 私の雑感あれこれ
なにをまた好き好んで…、と思われる方もあるかも(笑)。

小豆の収穫にちなんで、です。
この11月、初収穫の小豆で、赤飯を作り、さらに好物のぜんざいを作りました。

乾燥したさやから出して、鞘やら、ゴミやらの混じり物をとりわけて、不出来な粒を取り除き、虫食い粒やしなびた粒を取り除き、残った小豆粒を食料にしたというわけです。
庭に広げたシートで小豆を選別していると、手のひらから、落第と宣告されてこぼすのにもったいないものも出てくるのです。

オマエは確かに虫食いで、売り物としては及第点は上げられないけれど、でも虫食い以外の部分は、元気に育っているから、排除に忍びなくて、合格!

オマエは、少々小粒だけれど、色つやに難点があるわけでなし、寄って及第!

そんな声が心の中にこだまして、私の選別は、甘い甘い、おお甘です。
で、使うために洗うときにも、第2次選別が待っていて、水に浮く軽いものは排除。

ああ、こぼれていく小豆粒に未練の秋波。

そんなアレコレで、出来あがったぜんざい。
声を掛けた甘党仲間が、都合が悪といのことで(気まぐれ案山子の突然の声掛けだったし)、
ふふふ、ひとりで賞味、たっぷり賞味いたしました。

あとは、食べすぎないように、冷凍保存、です。
解凍はお正月、子供の帰省のころでしょうか。

因みに、11月のぜんざい作りは二度目。
一度目には夫も食べたのですが、なにせ辛党なもので、甘すぎるとのことで、お餅は食べても、小豆は残るのです。小豆好きには信じられない!
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする