日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

今年の初めと終わりに

2005-12-31 08:33:36 | その他
昨日、高校時代の友人から電話。
Hさん宅から喪中欠礼のはがきが届いた、Hさん亡くなったと。
彼女が大分前に癌の手術をしたのは知っていました。だけれど2年前に顔を会わせたときは、回復して数年転移も無くてよかったねと、明るく旧交を温めた記憶だったのに…。
娘の大学の入学式に出席したときの話。
彼女曰く「あんなに沢山の学生がいても、原石は少ないのだなって思った」「殆ど石よ」
と、彼女笑いながら話していた。
彼女も理系、お嬢さんも理系。
「きっと彼女もキュリー夫人に憧れた時期があったんだろうな」と、ひっそり思ったものだ。
そうして、すっかり病気の件は終了していたと思っていたのに、彼女自身のための喪中案内が来るなんで。
12月19日没とのこと。
12月20日午前7時に、このブログに汽車通学した仲間と「女子大生亡国論なんてねーと、話していたと書いていたわたしだけれど、その話していた相手だった彼女が最期のときを迎えていたなんて、言葉もありません。
今年は歳初めにも同い年の友人自身のの葬儀に列席しました。
そしてまた訃報を知りました。
引き止めたくてもどうしようもないことがあることを、ひとつひとつ学ばなくてはならないのですね。
一緒に汽車通学した彼女、雪道を北アルプスを眺めながら登校したあの頃が浮かんだことが不思議です。



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「大地」の人々・美齢を育てた彼女への思い

2005-12-28 22:16:47 | その他
昨日はエアコン取付工事が昼中に入ったため、仕事一日休み。

あのパールバックの「大地」の第3巻の(文庫本では4冊目)を引っ張り出して、お気に入りの箇所を探した。
頭の中では、あの辺りの、左ページの…と、記憶に残っているのになかなか出てこない。

私が始めて「大地」を読んだのは15年以上前。こんな長編をなぜ手にとったのかは覚えていないけれど、3代にわたる物語りの初代が一杯の手桶の水を大切に大切に使いまわすはじめ頃の場面からぐんぐん引きずり込まれるように読み進んだものです。
終章辺りの王虎の第2婦人だったか、愛蘭の母(美齢を養女として育てた人)の理性に出会い導かれるような思いをしたものです。

そんな感覚を覚えているものだから、再読したくなって文庫本を買い求めたのは7,8年前だったでしょうか。
その愛蘭の母(美齢の養母)の台詞にもう一度出会いたいと思って、本屋で文庫本の4冊目を手にとって、手始めに開いたページ(しおりが挟まっていた)が、私の求めていた、そのページでした。
なんと?何で?とびっくり。
「誰かが、私のほかにも誰かがこのページを読みに来ていたのかしら」
思い込みの激しい私は、そう思った程でした。

そして偶々時間があった昨日、またそのページを探そうと書斎から引っ張り出したのですが、何度検討をつけて、ページをめくっても巡り合えません。
3度目を読み直しなさいということかもしれません。

幼児から中国での生活が長かったパールバックのこの本、1930年頃出版とのことですが、私にとってのこの本は、そしてパールバックは「金(きん)」※です。

なぜ、今、中国のこの物語かと…。自分の中ではわかっているのです。
あの「ワイルドスワン」のユン・チュアンさんの「モォ」(毛沢東のことを書いた本)や「中国農村調査」という、悲惨な現実を著した本がいま私の周りにあり、彼の国の厳しい情勢はさもありなんと思うのです。
そして、他方中国企業の日本事務所で働き出した娘のことがココロにかかっていないというのは嘘になります。
娘から中国には「どんなところにあっても金は金(※)であり、光輝くものだ」という意味の諺があると聞きました。
きっと、娘の接する個々人については、彼の国の人々も輝きを失っていない人もいるはずだと考えています。
そして、彼女も「金の卵」かも知れないのだから、そっと見守るしかありません。
だって、留学をし、日本企業の上海支店でインターンシップも体験し、各地への一人旅も経験し、本でしか知らない私よりも中国の人たちと接してきたのだから。




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猪口邦子氏と榊原英輔氏

2005-12-28 07:39:52 | 私の雑感あれこれ
一昨日の夜間の経済番組で両氏がゲスト出演(チラッと見ただけで正式番組名知らず)。
話題は少子化問題。
昨日の朝日新聞1面トップも、「総人口 初の減少」とあるし、ますます脚光を浴びる話題なのだろう。
猪口氏は担当大臣に就任したことから、あれもこれもと対策用の考えを、自分の少子化食い止め策を披露なさろうとするのだけれど、どっこい榊原氏は肯んじない。
腰をすえて、いやーそれは…と、言葉を返されるものだから、猪口氏はカチン!である。
一瞬落ち着かれるのだけれど、自説拝聴してくれる講演会でもなく、大学の講義でもない。勝手が違って困っておられるようでした。
「いゃー、ここしばらくは少子化は続くと思いますよ」という榊原氏の〆の方が現実を見ているような気がした。
お二人が退場された後、総司会者小谷真生子氏の右サイドにいた30代と思しき二人のキャスターたちも、「だって、周りにも独身女性が普通にいるから、結婚しなくてはならないって感じにならない」とうなずきあっていました。
あっ、この二人の方がまさしく当事者。
当事者世代に耳を貸さないで、猪口さんが捲くし立てても…、隔靴掻痒。
そして、思ったこともうひとつ。
大蔵官僚で世界から「ミスター円」とまで名を馳せた榊原氏が、20代、30代の若い人たちの目指しているところの目線をキャッチしておられるのだと、ふっとそこにココロがとまった。
そんな感度を持っておられることを私はひっそりとうれしく思う。60代70代の男性陣では無関心派が大勢だとおもうから。
昨今も「娘を片付ける」という言葉死語ではないのです。
これはじんわりとした、あの「米騒動」かもしれません。

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昨今の株高で・・・

2005-12-27 10:11:20 | 社会問題
覚えていらっしゃいますか。
銀行の不良債権がかさみ公的資金が投入されたと連日報道されていた頃から3、4年経ったたでしょうか。
数千億という数字には生活感などまったく無いから、桁のひとつが違っても、「へぇー、そうなのだ」と、紙面を眺めていただけでした。
その資金投入が優先株(下記注)という形の第三者割当増資(この場合は第3者は国)でなされ、昨今の株高で優先株を普通株に切り替えて売却すると、国は数兆円もの利益を得る算段になるとのこと。
投入するときはこんなことまで予想されていませんでした。銀行は経済の血流だから、倒産は出来る限り避けるべきだ、という考えだったと思います。

ところが、「瓢箪から駒」

株価が当時10万円代から60万から80万円と、5倍以上に上昇している都銀もあるわけで、あの時投入したものを国が市場で株を売却するとなると、膨大な利益を得ることになるという話。
銀行が高収益を上げているから、株価が上がり、株を持っている国が潤う。
なぜ銀行がこれほどまで高収益を上げているか。
殆ど無利子の市民の預金を運用していること、安定した手数料収入が得られる投資信託を扱うことが出来るようになったこと。株価が総じてあがっていることから、取引先の焦げ付きも減少しているのでしょうか。

先日2年ほど経過した5万円の定期預金を解約しました。解約金は5万円ぴったり。
別に数円の利息が欲しいわけではないけれど、銀行預金の様変わりを実感しました。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

そう、昨今こつこつと銀行に預金している人が桶屋さんではないことは確かです。
(注)
優先株は普通株より高配当が約束されており議決権が無い。但し、約束が守られないときは、普通株に転換して議決権が発生する。
普通株は業績が悪いと無配当になることもある代わりに、株主として議決権あり。但し某ファンドのように莫大な資金力を投入しないと発言権が力を持つまでにならないのが現実でしょうけれど。
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実はこうなんですね。

2005-12-25 08:47:50 | 私の雑感あれこれ
朝日新聞、土曜日のコラム「TVフェイス」から(ライター尾崎由美)

ご登場者は俳優 茅島成美さん
「3年B組金八先生」の国井教頭先生役を25年やっていらっしゃるという。
そのなかの彼女の言葉から
「…自分の狙い通りにはいかない。人生なるようになるのよ。私は運が良かったの」
おおらかさに達観するには、きっとしんの強さがある、とライター。
「そうね、弱くないわね。女優が女だと思ったら大間違い。見た目だけよ」

ずっと以前に、こんなコメントも耳にしたことが記憶に残っている。
女優の大原麗子さんが離婚についてのコメント。
私達は暮らしてみると男と女ではなく二人とも男(の役割)だったと。

昨日の記事を見たときに、接することがない女優さんたちだけれど、どの世界においても責任を持って仕事を続けていくということは、これなんだなと思った。

私達って、映画やドラマの世界でたっぷり楽しませてもらっているのは、女装の女優さんを見せてもらっているんですね。
えっ!論理の矛盾?

偽装が昨今の話題ですが、この偽装については検挙はありません(笑い)。

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雪空の後に

2005-12-21 21:55:05 | 私の雑感あれこれ
寒気団が遠ざかって青空の水曜日。
ビルの日陰の片時のアイスバーンに気をとられながら、自転車で街中を行く。
大通りはオフィス街なんだけれど、自転車で通り抜ける大通りから1本中に入った道筋には日差しで傾きかけた雪だるまがあっちにもこっちにも。
週日の昼間だから子供の姿は勿論見えない。
だけど、目鼻に炭を埋め込んだ本格的な雪だるまを目にすると、鼻高々の子供達の歓声が聞こえるようだ。

私の実家は雪国。
おばあちゃん家でたっぷり雪遊びを楽しんだ子供達を連れての帰りの汽車の中。
車窓から明るい日差しに輝く田圃の雪景色を眺めながら、息子はつぶやいたものです。
「僕が作った雪だるま大丈夫かな。お日さんで溶けないだろうか」
そして、
「がんばれよ。ボクが今度夏におばあちゃん家に来るときまで、がんばれよ」
と。
従兄弟のお姉ちゃんが、炭や人参そしてバケツの帽子まで用意してくれて、一緒に作った本格的なものだったから、格別の自信作だったのでしょうね。
まだ夏という季節の経験が少ないから、「今度は夏に来るね」と大人が取り交わした挨拶を、耳に残った挨拶を次への期待としてこの幼子は今汽車に乗っているんだ、小さな背中を眺めてそう思った。

そして雪国を知らない子供ってこんなことも。
おじいちゃん達とスキー場に連れて行ってもらったときのこと。
4歳の息子は言うのです。
「この雪やわらかすぎるから、滑れない」って。
スキー場の麓でプラスチックのスキーを履いて。
きっとテレビで見たことあるようなすべりが自分にも出来ると、スキーってそんなものだと思っていたのでしょうね。視覚から入った情報とどっこい現実は違います。まったく笑っちゃいます。
結局はおじさんやおばさんにスキーをはさむような形で抱えてもらって滑れて大喜び。
暖かい地方育ちの皆さんへ
雪国の人がみんなスキー出来るものだと、思っている人がいたとしたら、それも間違いです。私不得意です(笑い)。スキー遊びはいっぱいしたことはあるんですけれども。
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寒さをしのぐこんな姿。

2005-12-20 07:21:38 | 私の雑感あれこれ
名古屋は58年ぶりの雪だとか。
雪国育ちの私には、見慣れた光景のひとつです。
今、私のいるこの部屋は充分暖かい。
私がその雪国で受験勉強していた頃の姿、自分で思い浮かべても「まぁ」と、思います。
6畳の和室。座り机。
暖房は電気座布団に正座し、豆炭行火(あんか)を膝に載せ、鉛筆を握れるように3本の指先だけ切った手袋。そして精一杯の厚着。
照明は部屋の明かりはつけずに、卓上照明だけ。
今の若い人たちから見ると、すごいセピア色に見えるでしょうね。
それなりに「女子大生亡国論なんて、ひどいわよね」と、通学列車の中で息巻いていたのですよ。
もっと記憶力や解析力があればと、自分の力不足に不満があったけれど、その環境にはまったく不満もありませんでした。朝6時42分の始発に乗っての汽車通学の3年間でした。
ほんの数年後。
4つ年下の弟の勉強部屋は石油ストーブで暖かく、部屋中も明るくて、あぁ、こんな部屋だったら…と、ちょっと思いました。ということは、我慢の寒さだったのでしょうね。

あれから幾星霜(なかなか変換できませんでした。笑い)。

「お宅、お風呂改装なさったけれど、床暖房?」
「?」
「お風呂 寒いのいやでしょう」
「だって、お風呂って入ると暖かいじゃない」
「入る前の、床がひんやりしているといやでしょ」
「へぇー、近頃そんなのまであるのですか。いえ、床暖房ありません」

本当に幾星霜です。
会話の相手は私より一回り近くは年上だけれど、そこまで「プロジェクトX」さんが考えてくれているのですね。
実は、指先のない手袋、UVカットの生地製のものをこの夏買い求めました。屋外スケッチのために(まぁなんと!)。
いらない手袋を切って使っていた昔を思い出して、われながら苦笑です。

セピア色になってしまった時代に身に付けたことを引っ張り出して、結構役立つこともあるのだけれど。
今、自分が机に向かっているこの体制で、寒さを我慢しなくいい、そのことでうれしいし幸せです。


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昨日の日曜は特別な日になりました。

2005-12-19 22:37:27 | 私の雑感あれこれ
冷え込んだ朝、「モモ」が飼い主が顔を出すのを待つような角度で動かなくなっていました。
モモが我が家へやってきたのは平成2年の2月。もう少しで16年間生きるところだったのに、この朝で最後になりました。
どこで生まれたのか分かりません。ご近所の庭先でクンクン泣きながら一晩過ごしていたのを、犬好きなお向かいさんが見つけ、3匹は飼えないからと、迷っていらっしゃるところへ、動物大好き子供の我が家の次女(当時小3)が出くわして、そして我が家の一員に。
両耳がたれている柴犬の雑種。子犬にしてはいやに足が太い犬でした。
自分の飼い犬になった次女はそれからずっと毎日の散歩が彼女の日課に。
留学で散歩がピンチヒッターの私になってからも、随分散歩仲間さんからは、モモの飼い主のお姉ちゃんは?と尋ねられたものです。
飼い始めた頃の話ひとつ。
「私ね、モモ会社の社長なの」「みんなモモを抱っこしたがから、葉っぱのお金を持ってきたら、滑り台からモモを抱っこして滑らせてあげるの」
そう近所の公園の滑り台も格好の遊び場でした。
半年ほど前に引越ししてきた鍵っ子の次女の大切な遊び相手だった「モモ」です。
買ったばかりの犬小屋に、犬を追い出して自分が入ってみたりして、彼女も子供時代真っ盛りのころです。
子供達が巣立って、共働きの我が家にとって庭先のモモの存在は結構物分りのいい番犬でした。
あれから15年。世の中すっかり様変わりのペットブームでご近所の犬も増えたけれど、どのワンちゃんも座敷犬。
そんな中で最後まで庭先だったけれど、もう少しで16年という充分な年月をありがとう。
最後の二晩に遠吠えを聞いたという。それは患うことなく最後のときを迎えることを伝える合図だったのですか。なんといっても、あなたはご近所一番の最長老でした。



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もう一回孫引きです。

2005-12-18 08:28:31 | 私の雑感あれこれ
再度の孫引きもなんなのですが、やっぱりもう一度書きます。

「日々雑記」さんのブログにあった引用の孫引き
    *******
612 おさかなくわえた名無しさん:2005/12/6(火)00:31:11
「若いときは馬鹿やったほうが良いよ。羽目はずしたほうが良いよ」
「真面目なだけじゃ面白みの無い人間になる」
と言う人は多いのだけれど、実際話してみると
そう言う人だって「ただ単にだらしないだけ」なことが多いこと。
「俺も昔は馬鹿やったけどさ~それも勉強になったね」と本人が言うように
若い頃に羽目を外したけいけんがあるので人間的に深みがあり、気配りができて面白い話をしてくれる…のかと思いきや
テレビのお笑い番組のネタをそのままコピー再生するだけ、とかで
今の国際情勢とか全然知らないし、本もろくすっぽ読んでない。
アレを見ていると「若い頃に羽目を外した方が人間的に成長する」ってのがえらく疑わしく聞こえます。
お前、「ただ単にだらしなかっただけ」ちゃうんかと。
いい歳になった今でも自己管理すら出来てない奴が何を寝言言ってるんですかと。
「しっかりした人間は最初から最後までしっかりしている」例のほうが圧倒的に多い。
    *******

そしてもうひとつ

    *******
629 おさかなくわえた名無しさん:2005/12/6(火)23:20:07
ずるいヤツは他人の優しさにつけ込んで世の中を上手く渡っていく。
優しい人はずるいヤツのずるさに気付かないから、いつまでも優しくいられる。
両者はどちらもそれなりに幸せ。
ずるいヤツのずるさに気付いてしまい、それが許せない正義感を中途半端に持った人間は、精神的に幸せになれない。
    *******

立派な格言でも、君子の言葉でもないけれど、これらを語っていいるひとの心根がわかるような気がして、プリントアウトして手元にあります。
「行き交う人は旅人」というけれど、ブログのおかげで出あえた旅人達。うれしい出会いです。




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子供時代のこんな思い

2005-12-17 07:56:48 | あの頃(~昭和40年代)
「東京タワー」(副題)オカンとボクと、時々、オトン (著者リリー・フランキー)を読んでいます。
「ボク」がブレーキの効かない自転車で怪我をして、新しく買ってもらうところ、自転車屋でどれがいいかと聞かれて、一番デラックスなのを避けて、二番手なのを指して「これ」という。お母さんも一緒に行った友達もデラックスがいいのではと言うのだけれど、自分は「これ」。値段の安いほうがいいのだと。

私の記憶に残っている懐かしい感覚。
小学校の4年生ぐらいだったでしょうか。
それは「フラフープ」。すごいブームでした。確か2種類ありました。
しっかりしたビニールの本来のフラフープと、突然のブームでにわか作りした軽くて小ぶりなのと。
私も欲しくて買ってもらったのだけれど、軽い小ぶりのほう。勿論小ぶりの軽いフラフープで充分楽しんだし、おんなじ仲間もいたのだけれど。何度か大きいのを借りてまわしてみたときは、ちょっと緊張したものでした。
そして、もうひとつ。
中学1年で油絵の道具1式を買ったとき。
担任の先生が美術担当ということもあって、油絵を描かないかと薦められました。
その時揃えた道具一式。2200円と1900円の2種類でした。
一緒に始めた仲間5人ほど。
勿論どっちでもいいのだけれど、私が選んだのは1900円。
みんなとひとりだけ違ったけれど、そんな選択をした自分の記憶があります。
まあ、2年生になって放課後の学校で描いていると、新しく変わった美術の先生が「中学2年で油絵、ボクの時代ではありえなかった」と、おっしゃるような時代でしたけれど。

昭和30年代後半のことです。
今のように自家用車も無い、行動範囲の限られた田舎町。それでもブームが伝わってきたりして、その中で、それぞれが微妙に心を動かし一生懸命だったのですね。
きっと今の子供達も、生れてから10年ぐらいの経験で育っている感性というところでは共通項もあることでしょう。大人用メガネで見て払拭しないように気をつけないといけませんね。
それとも膨大な情報と溢れるような物に取り囲まれて、違ってきているのかな。

物語を読みながら、もうちょっと先の、自分の暮らした昭和30年代を思い返したりしています。自分の顔つきは見えませんが、登場してくる遊び仲間は、みんな子供で○○チャン、◎◎チャンと、若いんです(当たり前ですね(笑い))。


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