私の街は古いというか、信長、秀吉、家康の英傑行列が行われる街だから、イワレもありなん、と、古地図片手にウォーキングという企画に参加した。
2010年は今年。1610年に名古屋城築城というのだから、ちょうど400年経ったわけです。
伊勢湾から名古屋城までつながっている堀川は築城のための物資輸送のために掘られたもの。
堀川沿いに残っている古い商家の土塀は、1610年に清洲城越のときに、お城の移転とともに名古屋城下へ引越ししてきた御用商人の末裔宅とのこと。
こちらは、薪、炭など、お城に収める物資の一切を取り扱っていました。
こちらは、お城に塩を納める御用商人でした。
と、案内を耳にすると、
現在の必需品取り扱い品目との感覚の違いを思い浮かべる。
なにしろ「お城」が中心だろうから、武具は勿論、家具調度、反物、食べ物の一切の一番おいしいところを、お城へ、という流れが作られていて、
そのために人は集まり、町が大きくなっていったのだろう、と想像しながら歩いた。
家老屋敷群の一帯は、裁判所を始めとする官庁街になっている。武家屋敷は、お城の北西なのだろうか、幕末の古地図では、そのあたりの住居人は氏名がきちんと載っている。
家老屋敷群の南、外堀の南にある神社の傍らに藩校跡。
この神社は職場から近くて、毎年桜見物に一度は行くところ。屋台のお好み焼きで、お昼にするのだけれど、その一角に藩校跡が…、と思ってみると、若き侍予備軍が行き来する様子が目に浮かぶようで面白い。
かつて栄えた呉服商人を案内する立て札も、頭の中が江戸バージョンになっているので、興味深く読める。
町人が住むあたりだろうか、お寺が妙に散在している。
「お寺は警察の役目をしていた」と説明を聞いて、
城主にとって、謀反を起こされるのが一番気がかりだったろうから、よそ者チェックなど、情報を一手に集めて、不審者が入り込めないような仕組みだったのでしょう。
為政者の組織安泰のために、滞りがなかったのでしょう。
もうこの時点で、日本のお寺は宗教というより、檀家制度をしいて、もれなく戸籍を把握するための制度ですね。
江戸期の街行く人と行き交うことはありえないのだけれど、今歩いているこの道筋が、もっと狭くて、勿論舗装などされてもいないものだけれど、確かに、そのころからあったのだと思うと、感慨深い。
どこの町でも、その町の過去、歴史を背負っているものだろうけれど、江戸時代風情を想像しながらの一日でした。
2010年は今年。1610年に名古屋城築城というのだから、ちょうど400年経ったわけです。
伊勢湾から名古屋城までつながっている堀川は築城のための物資輸送のために掘られたもの。
堀川沿いに残っている古い商家の土塀は、1610年に清洲城越のときに、お城の移転とともに名古屋城下へ引越ししてきた御用商人の末裔宅とのこと。
こちらは、薪、炭など、お城に収める物資の一切を取り扱っていました。
こちらは、お城に塩を納める御用商人でした。
と、案内を耳にすると、
現在の必需品取り扱い品目との感覚の違いを思い浮かべる。
なにしろ「お城」が中心だろうから、武具は勿論、家具調度、反物、食べ物の一切の一番おいしいところを、お城へ、という流れが作られていて、
そのために人は集まり、町が大きくなっていったのだろう、と想像しながら歩いた。
家老屋敷群の一帯は、裁判所を始めとする官庁街になっている。武家屋敷は、お城の北西なのだろうか、幕末の古地図では、そのあたりの住居人は氏名がきちんと載っている。
家老屋敷群の南、外堀の南にある神社の傍らに藩校跡。
この神社は職場から近くて、毎年桜見物に一度は行くところ。屋台のお好み焼きで、お昼にするのだけれど、その一角に藩校跡が…、と思ってみると、若き侍予備軍が行き来する様子が目に浮かぶようで面白い。
かつて栄えた呉服商人を案内する立て札も、頭の中が江戸バージョンになっているので、興味深く読める。
町人が住むあたりだろうか、お寺が妙に散在している。
「お寺は警察の役目をしていた」と説明を聞いて、
城主にとって、謀反を起こされるのが一番気がかりだったろうから、よそ者チェックなど、情報を一手に集めて、不審者が入り込めないような仕組みだったのでしょう。
為政者の組織安泰のために、滞りがなかったのでしょう。
もうこの時点で、日本のお寺は宗教というより、檀家制度をしいて、もれなく戸籍を把握するための制度ですね。
江戸期の街行く人と行き交うことはありえないのだけれど、今歩いているこの道筋が、もっと狭くて、勿論舗装などされてもいないものだけれど、確かに、そのころからあったのだと思うと、感慨深い。
どこの町でも、その町の過去、歴史を背負っているものだろうけれど、江戸時代風情を想像しながらの一日でした。