South Is. Alps
South Is. Alps
Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


秋刀魚の塩焼き

スーパーで、なかなかの生秋刀魚があったので、今日のメニューは和食。

秋刀魚の塩焼き、大根おろし添え
茄子とオクラの煮浸し
間引き菜のおしたし
納豆
豆腐の味噌汁

2006-09-17 22:24:17 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


DVD『折れた矢』

DVD『折れた矢』コスミック

著作権切れの映画をDVD化した一本500円の作品。
1950年に放映された『折れた矢』(Broken Allow)は、ジェームス・スチュアートふんする退役軍人トムとアパッチ族の酋長コチーズの友情を描く。また、トムとインディアンの娘ソンシアレイとの愛と結婚も。
インディアンを悪者に、正義の味方の騎兵隊と生活を守る白人という図式ではなく、白人との共存と平和を理解し、未来像を描こうとするアパッチ族と白人との間で橋渡しをし、無理解な白人たちの行動を変えさせようと行動する白人という別の視点で描いた西部劇である。この映画が、1950年に描かれたのは、非常に早かったといえよう。ベトナム戦争における白人の側の残虐性の告発と西部開拓における白人の残虐性を象徴的に合わせ描いた『ソルジャーブルー』(1970年)は、白人の命を守る正義の味方の騎兵隊が幻想であったことを抉り出したのだが、その後の『ダンス・ウィズ・ウルブス』(1990年)はそうした流れの作品である。

折れた矢[DVD]

コスミック出版

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2006-09-17 16:25:58 | 映画/TV/DVD | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『グーグル大冒険!!』

デイブ・ゴーマン、2006、『グーグル大冒険!!』、ランダムハウス講談社

ロンドン在住のコメディアン、デイブ・ゴーマンが2ヶ月にわたって繰り広げた「グーグルワック」(Googlewhack)のウェッブサイトを作った人々との出会いの旅。その始まりは、彼のウェッブサイトが「グーグルワック」だと知らせるオーストラリア人の男性からの突然のメールだった。
「グーグルワック」とは、英語のグーグルサイトhttp://www.google.comで二つの単語を検索し、同時に二つの単語がhttp://www.doctionary.comに登録されていて、さらに、検索結果がたった一つであるウェッブサイトを見つけるというゲームである。やってみるとわかるが、これがなかなかの難関。スクラブル・ゲームのグーグル・バージョンなのだ。しかも30億ページ(この数字は本書に書かれている数字で、出版が2003年だから、今はきっと倍にもなっているに違いない)の中でのユニークな組み合わせを見つけなければならないのだ。一度お為しあれ。

デイブのユニークなところは、友人の「デイブ(デイビッド)・ゴーマン」(デイブと同姓同名のフランス人で、グーグルワックの旅以前からの友人、そして、デイブにグーグルワックのゲームルールを提案した)の挑発に乗って、見つけた後そのウェッブを作った人物に会いに出かけ、その人物にさらに二つの「グーグルワック」を見つけてもらい、その「グーグルワック」と人間の連鎖を10ステップたどる。しかも、デイブの誕生日までの2ヶ月の間に成し遂げると言う賭けだったのだ。

本書の面白いところは、「グーグルワック」というゲームの面白さ、さらに、デイブと出会う人物たちの普通さ(つまりは、有名人ではないということ)と、かれらのユニークさが半端じゃないことだろう。さらに、偶然が偶然をよぶという点。まあ、スモールワールド理論の「six digrees」からすると、ありうる話なのかもしれないが。

蛇足ながら、私の関心の家系図のサイトも含まれていたし、オーストラリア人から始まって、エピローグがオーストラリアのシドニーでの出会いと言うのも、私にとって、なかなか興味深い「偶然」だったというわけだ。

著者デイブ・ゴーマンのサイトhttp://www.davegorman.com/

Wikipedia: Googlewack: http://en.wikipedia.org/wiki/Googlewhack

Wirksworth parish database: http://www.wirksworth.org.uk/

グーグル大冒険!!

ランダムハウス講談社

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2006-09-17 12:14:52 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


池下「浅野屋」

いつものように、週一の池下「浅野屋」。
トマトサラダ、鴨ローストのサラダ、ローストンカツ、メンチカツ。週末は、いつもにぎわっている。

2006-09-16 20:15:19 | 夕食・外食 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『自閉症:これまでの見解に異議あり!』

村瀬学、2006、『自閉症:これまでの見解に異議あり!』、ちくま新書

本書は、自閉症の人々を特別に位置づけるのではなく、「普通の人々」と同じ地平に位置づけようという目論見で書かれている。自閉症は発達「おくれ」や「同一性の保持」や「変化への恐れ」を特徴として捉えられてきたが、著者は、「くらし」のなかでは、そうした違いを無視しうるのではないかと言う。
著者は、人間をとりまく領域を、「文明」「社会機構」「くらし」の三つに分けて捕らえようとする。すなわち、人間を取り巻く世界を知的世界をあらわす「文明」、人間関係の総体をあらわす「社会機構」と「くらし」の三つの領域である。そして、人間を差異化しようとする「文明」や「社会機構」のなかでは「自閉症の人々」の「おくれ」が目立つが、「くらし」の中では、「共に生きる人との関係の中で「おくれ」としてみなされないでくらすことがありうる」のではないか、と指摘する。そして、医療機関や教育機関の尺度で「自閉症の人々」を観すぎてはいないかと批判するのである。

わたしは、ミクロネシアの小さなさんご礁の小島で暮らした時、さまざまな意味で「ハンディキャップ」をおった現地の人々が何の区別もなく普通に暮らしているのを観た。また、昭和40年代の日本の山村漁村でも同様のことを観たことがある。当時は「自閉症」といった言葉は存在せず、「知恵遅れ」とか「精神薄弱」とか呼ばれていたわけだが、社会システムの変化と共に一定の症状を持つ人々の様態がひとつの「兆候」(ダイアグノーズ)としてみなされ、名付けがおこなわれ、カテゴリー化されて「病」化されてきた(自閉「症」と記述される)のであろう。その意味で、現代社会が生み出した「病」と言うことができよう。

自閉症:これまでの見解に異議あり!

筑摩書房

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2006-09-16 15:29:16 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


手羽先の黒酢煮

手羽先の黒酢煮(ごま油を熱した鍋に手羽先を入れて軽く表面に焦げ目をつける。ショウガ、ニンニク、花椒、赤唐辛子、紹興酒、中国たまり醤油、濃口醤油、水あめ、ロリーエを加え、水少々。落とし蓋をして、煮込む)
レタスの温製サラダ(レタスを細切りする。塩とサラダオイルを加えた湯で茹でる。茹で上がったところでざるに空けて水切りし、スダチと明太子、醤油をあえたソースでよくあえる)

2006-09-15 21:24:03 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


玄米と松の実のクッパと各種ナムル、焼肉

来客二人。お腹がいまひとつというのでお粥をつくろうかとくことになり、じゃあ、中華で行こうと思ったのだけれど、考えを変えてコリア風に。

玄米と松の実のクッパ(玄米と松の実を五倍量の水に三十分つけておく。塩少々を加えて、40分ほど弱火で加熱)
各種ナムル(ズッキーニのナムル;薄切りして塩もみ、しばらく置いておく。しんなりしたら塩分をすすいで水分をよく絞り、ごま油を敷いたフライパンで炒める。フライパンを傾けて醤油をたらし、香ばしくなったところでよくあえる。唐辛子フレークといりゴマをかけて仕上げ。キュウリのナムル:ズッキーニと同じつくり方。でも味がずいぶん違うコントラスト。大根とニンジンのナムル:大根とニンジンを千切りし塩茹でする。水にさらしてよく絞る。ごま油、醤油、唐辛子フレーク、塩少々、いりゴマをかけて、よくもむ。ほうれん草のナムル:ほうれん草を塩茹でする。水にさらして、よく水を絞り、好みの大きさに切る。ごまあぶら、醤油、唐辛子フレーク、コチジャンで味を調える。ゼンマイのナムル:ゼンマイの水煮を切りそろえる。水でよく洗う。鍋にごま油を入れてゼンマイを加え、よく炒る。醤油と日本酒をたらし、砂糖を少々。唐辛子フレークとゴマをかけて仕上げる。もやしのナムル:もやしを塩茹でする。水にさらして荒熱をとりよく水を搾り取る。ごま油、醤油、唐辛子フレークで味を調える)
焼肉(牛バラ薄切り肉にタマネギの薄切りを加え、醤油、日本酒、コチジャン、唐辛子フレークを入れてよくもみこみ、しばらく置いておく。フライパンにごま油をしき、用意の牛肉とタマネギを薄く広げて焼く)

2006-09-14 23:56:54 | 夕食・来客 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


茄子とトマト、ブラックオリーブのパスタ

パスタ二種。

茄子とトマト、ブラックオリーブのパスタ(茄子とトマトを賽の目に切っておく。種を取ったブラックオリーブを粗みじんに切っておく。ソーセージを荒く薄切りしておく。フライパンにオリーブオイル、赤唐辛子、ガーリックピューレを入れて炒める。ブラックオリーブを加える。茄子を加える。トマトを加える。パスタのゆで汁を少々、赤ワインを少々。プロバンスハーブ、コショウ、加減で塩を加える。アルデンテにゆでたパスタを加えてよくあえて共する)
キノコとホタテ貝柱のパスタ(フライパンにオリーブオイルと赤唐辛子。ぶなシメジを歩武して加え炒める。パスタのゆで汁を加えて、キノコをしんなりさせる。貝柱を四等分したものを加え、軽く火を通す。コショウ。アルデンテにゆでたパスタを加えてあえる。フレッシュバジルの葉をくわえて、共する)

2006-09-13 21:46:33 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


花椒をつかった中華風炒め物二種

花椒をつかった中華風炒め物二種(共通の材料:豚ロース肉、黄ピーマン、塩コショウ、赤唐辛子、花椒、ガーリックピューレ、紹興酒。違う材料:サラダセロリ、アスパラガス。調味料:中国たまり醤油。(1)中華なべにサラダオイルを入れて加熱、赤唐辛子、花椒、ガーリックピューレ、豚ロース肉を入れ炒める。あらかた火が通ったところで、黄ピーマンの細切りを加えて炒め、さらに、サラダセロリを一口に切ったものを加えて、塩コショウ、紹興酒で仕上げ。(2)中華なべにサラダオイルを入れて加熱、赤唐辛子、花椒、ガーリックピューレ、豚ロース肉を入れ炒める。あらかた火が通ったところで、黄ピーマンの細切り、グリーンアスパラガスの細切りを加えて炒める。紹興酒を入れてあおる。軽く塩コショウ。中国たまり醤油を加えしあげる)

2006-09-12 20:59:55 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『刀狩り:武器を封印した民衆』

藤木久志、2005、『刀狩り:武器を封印した民衆』、岩波新書

子供のころ、自宅で短刀を見たことがある。また、サーベルもおいてあった。さすがに真剣の短刀をもてあそんだことはなかったが、儀礼刀の刃のないサーバルは格好のおもちゃだった。もちろん、子供にとっては重く、振り回すまでにはいたらなかった。本書を読んでいてふと自宅にあった刀のことを思い出した。

本書の冒頭、堀田善衛の『海鳴りの底から』で、天草の乱のキリシタン農民たちが、島原藩の武器庫をおそって武器を手にするというところから物語がスタートすることが紹介される。秀吉の刀狩りによって武装を解かれた農民が素手で武器庫を襲って武器を手にするというのである。
また、宣教師たちの記録を踏まえて、日本の農民の武装状況が点検されたのち、黒澤明監督の映画「七人の侍」が紹介される。武装しない農民が用心棒の侍を雇うのである。しかし、映画の途中、武装していないはずの農民が奪った落ち武者の武器や装束が侍たちの目に止まる。

著者は秀吉の刀狩り以降、侍以外の庶民は非武装であったと言うが、果たしてそうかという疑問から出発し論をすすめる。日本史上の三つの刀狩り、すなわち、秀吉のそれ、明治維新政府の断髪廃刀令、そして、太平洋敗戦時のマッカーサーによる非武装化、これらについて、吟味をくわえ、日本の庶民が非武装であったことはなく、現在も含め数多くの武器を持ちながらも、それらを主体的に使用しないという選択をしてきたことを重要視する。秀吉をはじめ、各時代の為政者も刀狩りと言いつつも実際に庶民を非武装化したことはなく、むしろ、一定の階層に帯刀を許可したり、祭礼等の特別の機会に履刀を認めたり、鉄砲も害獣を撃つための農具としての所有を許可していた。現在でも、許可制の形をとっているが、数多くの日本刀や銃砲が民間に所有されているのである。決して非合法な武装勢力が違法に武器を所持しているばかりではないことに注目したい。

自衛権を所有することは究極の人権である。しかし、自衛のための武器を持ちつつも、究極の状況以外での使用を行わないこと、これが、重要なのである。秀吉の刀狩り以降、各種の農民一揆にあっても鉄砲や刀剣が農民により大量に所有されているにもかかわらず、これらを武器として使用せず、莚旗をたて鍬や鎌で武装したのであるという。こうした状況と武装蜂起である憲法第九条を含む憲法を押し付け憲法であるといって、改憲しようとする政権が誕生しようとする今、改めて、刀狩りをそして日本の庶民史を武装非武装に関連付けて再びひもといてもいいのではないか。
つまり、問題は武器を持つ持たないではなく、武器を使用するしないの問題であることである。自衛隊は明らかに質量とともに日本のGDPにふさわしい近代的軍隊である。これを軍隊であるか否かの議論は、まったく不毛である。さらに、これを合法化するために改憲しようとするというのも不毛である。なされなければならないのは、もうひとつの議論、武力を使用するしない、こちらのほうの議論が重要なのではないのか。

本書を読むきっかけになった『百姓から見た戦国大名』について書評していますので、あわせて読んでください。

刀狩り:武器を封印した民衆

岩波書店

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2006-09-11 23:28:20 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


池下「広島焼 じゃけん」

今日は三日目(最終日)のリトルワールド。今日も2週=5キロ。

帰りに仕事場によって緊急の仕事を処理したので、おそくなり、自宅近くの「広島焼 じゃけん」に久しぶりに行った。若いけれど、こだわりのある亭主。いちど、行って見るとよろしかろう。またされたり、満員だったりするけれど。

2006-09-11 20:05:07 | 夕食・外食 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『百姓から見た戦国大名』

黒田基樹、2006、『百姓から見た戦国大名』、ちくま新書

本書は、いわゆる戦国時代における戦国大名と百姓をめぐる社会システムについて、洗い出そうという試みである。
われわれが、陥りがちな歴史観は英雄史観である。戦国時代であれば、上杉謙信や武田信玄であり、織田信長や羽柴秀吉、徳川家康である。また、だれもが知っている、彼ら戦国大名の有名な武将たちである。かれらの活躍が歴史を作り上げたように映る。しかし、当たり前のことだが、歴史は、名前を知られる彼らだけが動かしたのでも、作り出したのでもない。名もない百姓や町人の日々の暮らしが歴史を作ってきたのである。本書は、あらためて、そうしたことを思い起こさせてくれる。
百姓たちは、自分たちの田畑や里山を守るために隣接した村と争論を繰り返し、また、武装し他村の合力をえて村を自衛してきた。領主たちはこうした争論を治め、調停することが領国の安定に通ずるとして、「目安」制度という裁判制度を整えてきた。また、飢饉や疫病にあっては領民を守るため「徳政」といった緊急の金融制度をととのえた。このような制度をととのえて百姓を守ることが、領国の確保や安定につながるとしてきたのである。
こうした百姓の活動を基盤にして、戦国大名は群雄割拠することができたのである。当時の戦争は、田畑を荒らし、敵国の領民をさらい、売り飛ばしすることでもあったので、そうしたことから領民を守ることのできる戦国大名が百姓にとっても望ましい大名であったのである。しかし、かといって百姓の大事は自らの村を守ることであって、大名を守ることではない。有力な進駐者があらわれれば、さっさと、旧主のもとを去ったのである。

こうした村を守る百姓の動きは、戦国時代のものとして見るだけではなく、現代にも通ずるものとして見るべきであろう。言い方をかえると歴史において主体となること、これをわれわれは忘れてはいないか。つまり、われわれは、常に戦い、主体的に選択することによって歴史に関与するのだと言うことを。政治は政治だけの世界ではない。われわれの生きている世界そのものなのだ。そのことを忘れてはならないのだと思う。

本書のなかで言及された『刀狩り』についても書評しているので、読んでみてください。

百姓から見た戦国大名

筑摩書房

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2006-09-11 01:50:31 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『遊牧という文化:移動の生活戦略』

松井健、2001、『遊牧という文化:移動の生活戦略』、吉川弘文館(歴史文化ライブラリー109)

本書は、世界中で現在ではまれとはなった生業形式のひとつである「遊牧」文化について、西アジア(本書で描かれるのはアフガニスタンとパキスタン)のパシュトゥーン遊牧民とバルーシュ遊牧民の民族誌を手がかりにしながら、人間にとって家畜を中心になりわいをたてる牧畜と言う生業文化のみならず、人間にとって遊動とは何かについて描こうとしている。
遊牧民が、たとえば、かつてのモンゴル帝国のような大版図をもつことになったのも、それは、かれらが、単に家畜を連れて家畜のえさの必要から移動を続けるばかりではなく、周辺の農民や商人との経済的交流(時にはそれは、略奪や侵略でもありうる)を重ねてきたことの結果である。本書で描かれる西アジアの二つの遊牧民社会は、生活環境の違いから彼らの生業のあり方や政治的経済的なあり方が違うかに見えるが、著者は、そういった環境決定論的な立場に立たない。むしろ、人間にとって遊動とは何かという根源的な問いかけにつなげようとする。
それは、エピローグの「現代社会と遊牧民」に端的に現れていて、情報化社会における情報機器のウェアラブル化とそうしたこととはまったく関係がないとみえる遊牧民社会を重ね合わせ、情報社会批判にも及ぶ。つまり、流行現象としての情報化ではなく、情報機器のウェアラブル化が人類をふたたび遊動へと駆り立てる可能性を広げるのではないかと。

情報機器に埋もれて一平方メートルの世界に閉じこもり、情報環境でのみ世界と接触するのではなく、情報機器のウェアラブル化によって、むしろ、世界に打って出て、世界を直視せよとか。うん、面白いかも。新しい現代のノマド像だ。

遊牧という文化:移動の生活戦略

吉川弘文館

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2006-09-10 22:49:05 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


キュルノンチュエのソーセージ

今日はお休みの一日。

「キュルノンチュエ」のソーセージ各種
「ドミニク・ドゥーセ」のバゲット
各種チーズ
野菜のスティック

2006-09-10 21:22:29 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『インターネットの法と慣習:かなり奇妙な法学入門』

白田秀彰、2006、『インターネットの法と慣習:かなり奇妙な法学入門』、ソフトバンク新書

この夏、オーストラリアとニュージーランドを仕事で旅をしたのだが、国境を越えるのは面倒だ。ニュージーランドはビザは不要だが、オーストラリアは必要だ。また、出国手続きや入国手続き、通関、検疫などのプロセスもある。パスポートが必要になる。
日本でインターネットに接続すればオーストラリアやニュージーランドのサイトに簡単にアクセスできる。検閲があるかもしれないけれど、メールもそんなことは気にせずやりとりできる。ところが、コンピュータを持って移動して、先方でインターネットにアクセスしようとすると、ちょっと面倒だ。日本の仕事場や自宅でブロードバンドでアクセスしていたものが、うまく行けばホテルのホットスポットが利用できる。しかし、宿のランクにもよるが、まだまだ、ダイヤルアップでとても遅い。もちろん、それ相応の金を払えば、宿泊先のホテルからは自由にアクセスできる。かといって、宿以外の訪問先で自由に持ち込んだコンピュータをイントラネットに接続させてはくれないだろう。
さらに、自分のウェブページを更新しようにも、セキュリティを高くしていれば、外国からダイヤルアップでつなげるのは不可能だ。また、自分のコンピュータのセキュリティにしても、ダイアルアップの場合はまだしも、ホットスポットに接続しようとすればおそらくセキュリティソフトは必須であるし、ある程度のセキュリティに関する知識は必要だろう。つまり、自分の縄張りからインターネットにアクセスするのは相当に自由だが、ひとたび、自分の縄張りを離れると相変わらず不自由である。

前置きはともかくとして、本書はこの手の卑近な例を解決しようとしているのでは毛頭ない。むしろ、法とは何かについて、インターネットの時代にあって再考しようと言うのが本書の趣旨である。だから、本書は、法の淵源から解き起こされる。英米法と大陸法、これは、知識の外だった。ポリシー・ローンダリングと言うのも。

終章で17世紀イギリスの「コーヒー・ハウス」が例に出されて、議会民主主義の萌芽とネットワーク社会の萌芽がアナロジーとして語られる。この文脈としては、ネットワークの時代のとしての現代を重要なターニングポイントとしてとらえ、同時にネットワーク以外の政治と非ネットワークの現実政治をいかにして統合するのか、これが現代的課題との考えを提示しているかに見える。しかし、その前の章で、著者は、現代ネットワークが政治的空間か否かについて、多数派はネットワークが非政治的であると考えているとの認識を示した上で、政治的消極派の三類型が示す。
(1)その人なりの政治的立場はあるがネットワークが非政治的空間と把握していて遠慮している人たち、(2)もとより政治的志向がまるでない人たち、(3)政治的な立場としてネットワークから政治的なものを排除しようと主張している人たち、である。そして、この三番目が数は少ないものの声が大きく、かえって、新たにネットワークに参加する人々を(1)もしくは(2)の類型においやっているとする。しかも、(3)は両極の立場を包括しているとするのである。つまりは、リバータリアニズム(自由主義)とアナーキズム(無政府主義)であるというのである。
これらの議論にはたして、ネットワーク上の「コーヒー・ハウス」において、これらの人々に共通の土俵はありうるのか。さらに、ネットワーク利用者はいまだ多数とはいえず、現代の「コーヒー・ハウス」において、世論は形成できるのであろうか。ややもすると、こうした議論の行方は、ネットワークの最大の特性である越境性をそぐような境界性の強化をもたらしてしまうのではないのか。法学にはまったくの素人ではあるが、国際法の新しい展開や境界性を越えるための法学的な議論について、さらに、知りたいところである。

ただ、国際法といっても、所詮、各国の国内法を前提としているわけだし、この際、いい意味でポリシー・ローンダリングをしてくれるといいのだけれど。そんなことは、ない、な!?

Nikkei Business:談話室たけくま:http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20060904/109190/?P=1

白田の情報法研究報告:http://www.welcom.ne.jp/hideaki/hideaki/indexj.htm
Hotwired連載:白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」:http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/index.html
ロジーナ茶会:http://grigori.jp/

インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門

ソフトバンククリエイティブ

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2006-09-09 23:05:42 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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