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紫烟草舎と北原白秋

2016年12月16日 | 文学  コラム・エッセイ

 紫烟草舎ー・江戸川区北小岩から里見公園に移築
【北原白秋略年譜から検証】

 

 

北原白秋がどのように紫烟草舎に関係したのであろうか?
市川真間・亀井院(身を寄せていた)、北小岩八幡神社(1年余、民家に)、

そして移築されている里見公園(現在の紫烟草舎)には、それぞに足を運んだが、
縄文人には全く分からない。


ネット検索によって調べた。


年表を基に、自分なりに整理して、その時代に作歌を当てはめながら、
脳裏を整理し、自分への納得の裏付けとした。

 

                           

           
北小岩八幡神社            境内にある白秋の歌碑

    紫烟草舎は、白秋の旧居は(小岩村小岩田にあった。
現在の江戸川区小岩町8~263)の場所である。
しかし、昭和40年の
江戸川堤防の改修工事で取り壊され、現在は、市川国府台里見公園の中に
復元保存されている。

       

   
      紫烟草                   草舎内の一部

 

・華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ

北原白秋の住んでいた家「紫烟草舎」が、国府台の里見公園に移築されている。

紫烟草舎は、花壇の左手奥、公園管理事務所の並びにあった。何の変哲もない木造平屋建てで、いまは庭に面する部屋も木の雨戸がめぐらされている。
傍には、つぎのような長男北原隆太郎による解説がある。

「(前略)大正五年晩秋、紫烟草舎畔の〈夕照〉のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父の白秋は、この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進の後、詩文『雀の生活』その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行歌集『雀の卵』で実現した。
その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である」

 

 

      【北原白秋略年譜】  

明治18:125日、福岡県柳川市に生まれる。父長郎、母しけの 長男、本名隆吉。


          福岡柳川の風景


明治37年(1904)年:中学を卒業間際に退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学。


明治38(1905)年:長篇詩「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞に一位当選。


明治42(1909)年:処女詩集「邪宗門」刊。実家破産。


大正 2(19157)年:福島俊子と結婚。「城ケ島の雨」作詩。


大正 5(1916)年:江口章子と結婚。真間の亀井院に寄寓。
    

        市川真間・亀井院

大正大正 5(1916)年:江口章子と結婚、白秋31歳
豊かな自然に囲まれた北小岩で、温かな人情に触れながら貧しくも心穏やかな生活を送りました。「紫烟草舎(しえんそうじゃ)」と自らが名付けた民家に暮らし、芸術の基盤となる優れた作品の創作活動を続け、短歌雑誌「烟草の花(たばこのはな)」を創刊しました。

 

     雀の生活  大正9年2月  新潮社 

       
白秋はしばしば雀を題材にしている。「3)雀と人間との詩的関係」には、紫烟草舎脇に建つ歌碑に刻まれた歌の詠まれた情景を記している。

       雀の卵 大正10年8月 アルス・

                 

「葛飾閑吟集」「輪廻三鈔」「雀のたまご」の合巻歌集。真間の亀井院居住中の作品「葛飾閑吟集」は、「序にかへて」「葛飾前夜」「真間に移る」などからなる。巻末自解にも、市川への思いがうかがえる。

 

人妻との恋愛にやぶれた北原白秋があたらしい生活を志して、平塚らいちょうの弟子、江口章子という女性と結婚、葛飾郡小岩村小岩田の三谷という(現在の江戸川区小岩町8の263)に新居をもったのは、大正5年7月のことである。
ある夕方、江戸川べりを歩いていた白秋が、その家から新妻の夕餉の支度をしている紫の煙をみて、”紫烟草舎”と名づけたということである

 

 

               

 豊かな自然に囲まれた北小岩で、温かな人情に触れながら貧しくも心穏やかな生活を送りました。
「紫烟草舎(しえんそうじゃ)」と自らが名付けた民家に暮らし、芸術の基盤となる優れた作品の創作活動を続け、短歌雑誌「烟草の花(たばこのはな)」を創刊しました。

大正10(1921)年:佐藤菊子と結婚。歌集「雀の卵」刊。

詩文「雀の生活」歌集『雀の卵』

 ・かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば(『雲母集』)

 ・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも(同上)

 
 ・今さらに別れするより苦しくも牢獄に二人恋ひしまされり『雀の卵』

 
・貧しさに妻を帰して朝顔の垣根結ひ居り竹と縄もて(同上)

 

 以下『雀の卵』の「葛飾閑吟集」から拾ってみる。

                      ・葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれり継橋を

                                                            

                市川真間・文学散歩道


 ・昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
 
 ・破障子ひたせる池も秋づけば目に見えて涼し稗草のかげ

 
 ・下肥の舟曳く子らがうしろでも朝間はすずし白蓮の花

 
 ・ただ一つ庭には白しすべすべと嘗めつくしける犬の飯皿


 ・今さらにいふ事は無し妻とゐて夕さりくれば燈をとぼすまで

 

 池に浸す障子、下肥の舟など私の疎開先の体験とかすかにつながる田園風景ではあるが、現在の川沿いの高層マンション群、整備された河川敷、水上スキーからは想像もつかない。紫烟草舎での白秋・章子の暮らしの中で「煙烟の花」1、2号を出す

 

大正7(1918)年:小田原に引っ越す

  鈴木三重吉(赤い鳥)に参加

          
         
         鈴木三重吉氏

大正9(1920)年 章子と別離

大正10(1921)年  佐藤菊子と結婚、子供をもうける、生活も安定する


大正13(1924)年:「からたちの花」作詩。


昭和17(1942)年:東京杉並の自宅で11月2日他界。

 

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北原白秋が世を去ってから

昭和40(1965)年

白秋の旧居は土手の上にあった。しかし、昭和40年の江戸川堤防の改修工事で取り壊され、
現在は、市川国府台里見公園の中に復元保存されている。
 碑は「いつしかに夏のあはれとなりにけり乾草小屋の桃いろの月」という。
毎年4月23日、揃いの白秋ゆかたをつけた近所の婦人連が、匏生さん作の小岩音頭をここで踊るよし。土地にはたった1年しか住まなかった白秋を慕うのも、東京の片隅に、
昔ながらの田圃を守っている土地の人たちの素朴な愛情であろう。 

『江東歳時記』(江戸川の白秋碑)

 

         
           北原白秋の歌碑      


   ・いつしかに夏のあはれとなりにけり乾草小屋の桃いろの月

 

 コメント欄は閉めています。

白秋は日夜、雀をこよなく愛した。
自分の食うや食わずに中にあってもこよなく愛した。

次回は「(北原白秋と雀)これに対して縄文人の雀の見方」です。

 

 

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