日経新聞「春秋➡コラム」から
1960年代を回想する
向田邦子さんが新進の放送作家だったころの話である。急な仕事が入って恋人との約
束を果たせぬことになり、電報を打った。ただ要件のみ「コンヤユケヌ ク」。切ない7
文字だ。1964年のことらしい。妹の和子さんの著書「向田邦子の恋文」に明かされている。
懐かしき電報
▼ 電話のない家も多かったから、急ぎのときはみんなしばしば電報に頼っていた。
新聞業界でも、真夜中に大事件が起きると、デスクは容赦なくウナ電で記者に緊急の呼び
だしを掛けたらしい。
▼ この時代を我が身に当てはめてみたい。向田さんの記事は1964年とある。これは
10月10日、第18回オリンピック競技大会は東京で開幕しました。そして私が結婚した年
で記念する年でもあった。
仕事は昼夜分かたず忙しい勤務に明け暮れていた。東京地方に、気象等の警報が出れば
自主的に参集し、勤務に就いた(自宅で休みでも駆り出された)
結婚後2年ばかし経過し、京王線府中駅から20分ほどの府中刑務所付近の官舎にに
住んでいた。もちろん電話などあるはずが有りません。仕事が急遽忙しく、役所に泊ま
込みと言う事態が発生した。ハテさて、自宅に連絡する方法には困った。
向田邦子さんは「コンヤユケヌ ク」の電報を打った。筆者縄文人は「コンヤトマル、
カエラナイ」なる電文を打電した。今から思えば懐かしい思い出である。
電報配達人
▼ 1964年当時の電話の普及率は昭和40(1965)年度における電話加入総数は
約739万、人口100人当たり加入電話普及率は7.5%とあります。
電報が消える!!
63年度9400万通あった電報は、2022年度の利用は377万通に減っている。
そういえば紙の電話帳簿番号案内、そして便利した104も消えてゆく。
電話帳も消えて行く
散歩の句
* テクテク行くよりモシモシ電話
時代が変わりメール飛び交う (縄)
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