松根油の採取跡、
資源の乏しい日本、
『負けられません勝つまでは!!!!!!』
私は見た、小学校1年生の頃。
道端(空き地等)に沢山の松の根がゴロゴロ積み上げられ、なぜ根っこなどを掘るのだろう???
それは軍国主義(政府)、最後のアガキだったのであろう。
松の根っこから、飛行機を飛ばす。
歴然と残っていた松根油の採取跡 清里にて
抜根のため窪んでいた
松を切り倒し、並べられた風倒木、葛ハイは行く。
戦争当時であったら非国民と・・・・
松の幹上に採取してきた、篠竹の筍をそっと置く
山中で年老いた男性に出会った。
赤松林・ハイキング道の草刈をしていた。
きっと≪松根油、抜根≫の生き証人であろう。
現在は、赤松防風林として、
その当時を知る由もなく、爽やかな風が松葉の葉音と共に吹き抜けていた。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
参考資料
松根油・赤とんぼ←クリック
↓ 下記の画像は、他のHPからお借りしたものです。
牛車で松の根を運ぶ風景
手前は松の根を積み上げた場所
松の根を切り刻み油を絞る前の段取り
山と積まれた松の根っこは、
どのようになったかは終戦のドサクサ、幼かったので知り得ない。
松の油で飛行機を飛ばす。
今国会で安保法案が審議中。
どう向き合うか、しっかりと見守りたい。
もう、戦争はいやだ!!
清里には、麦藁屋根の昔を偲ぶ風景と歴史を感じる場所がたくさんありそうですね。
篠竹の筍は自然の恵み、これも嬉しいでしょう。(^^)/
秩父地方でも、この油取りがあったのですね。
私は、この油のことを今回清里に行って初めて知りました。
本当に、最後のアガキですね。
赤松の大木は、自分の根っこが掘られるのをじっと耐えていたのですね。
戦争の悲惨さを、あらためて実感しました。
幼心にこんなもので飛行機が飛ぶのだろうかと
怪訝に思っていました。
それにラミーや桑の木の皮も剥いで
学校に持っていきましたね。
今、またいつか来た道をたどっているようで気が気ではありませんが、
多くの若者たちは危機感も持たず、
人ごとのようにのほほんとしているようです。
松の根で飛行機を・・・(^_^;)
私の勤務地の工業団地は戦時中の飛行場だったそうですよ
清里!!ペンションブームのころ(当時20歳前半)
何度か行きましたが、つい数年前に通過しましたら
かなり荒れていて驚きました
取り出し「飛行機の燃料にした」と父から話を聞いたことがあります。
燃料不足の日本と石油大国亜アメリカが戦っても「勝ち目がない」と
在米日本人が密かに思っていたことらしい。アメリカという国を
甘く見ていた日本だったのでしょう。
小さい頃クズ鉄を集めてこずかい稼ぎをしたことがあります。
戦後70年経ち裕福になった日本です。
住む人もなく、廃屋となっていく茅葺屋根。伝統的な日本家屋が
どんどん失われていきますね。とはいえ個人で維持していくのは
難しい。残念ながら写真や絵画で残していくしかないのでしょう。
「故郷の廃家」の歌詞を思い出します。
山ブドウの実も採取していました。酒石酸をとって通信機器の資材にするのだそうです。
子ども心によくわかりませんでした。そんな馬鹿なと思いましたが、そんなことをいうとぶん殴られ1日中立たされました。
資源、資材の無い国が戦争を始めた、そんなことは大人はみんな知っていたのでしょうね。
戦争の始まりはボルネオの石油産地パレンバンを確保する戦略からはじまりました。
清里は茅葺の屋根です。
確か秩父地方は、麦藁屋根でした。そうでした。
そんなにカヤはないので、畑の麦わらを利用したのでしょう。
篠竹の筍がたくさん有りましたので抜いてみたらかわいらしいです。
チョイト話を膨らましてみましたが、やはり松根油を知る人は、人生の骨董品で、年を重ねました。
松根油の行く末はどのようになったかまったく、分かりません。
橋の欄干、鉄くずなんでも供出の痛ましい終戦前の政策でした。
下のコメ欄を見ますと皆さんが松根油を懐かしむように書かれています。
・・・・・・・・・・が、思い出はすべて美化されるもので、終戦に突き進む姿がありありと心沈めて分かるような気がします。
ラミーや桑の木の皮も剥いで。
半鐘、お寺の鐘、橋の欄干、ありとあらゆる金属。
負けられません勝つまでは・・・日本人の精神は強力でした。
よく山歩きをしますが別荘なども廃屋となって朽ちているのを見かけます。
清里!!ペンションブームで白い建物。
今はどうなんでしょう。