本日・11月1日は
秩父事件(農民一揆)蜂起の日
蜂起に至った経緯
劇画・秩父事件 (森哲朗)1977年出版 リサーチ出版から、中心に書きました。
その他の参考図書
「秩父困民軍の人と闘い」・・・ 戸井昌造著
「秩父事件を歩く」 ・・・ 戸井昌造著
秩父事件―自由民権期の農民蜂起 (中公新書)
本記事は、過去においてUPしましたが、コピー的な記事が多いので
机中の記事となり眠ってました。
しかしこの時期になると、囲炉裏で話を聞き椋神社で遊んだりし、
多くの村人が参加され犠牲になりました、本件を想起する。
その郷土の者として”鎮魂の意味を込め”まして、掲載しました。
事件は「働けど働けどわが暮らしらくにならざる」そんな農民の声を
絞りだしたした事件でした。
時あたかも、11月1日「事件蜂起の日」です。
「困民党軍」を”暴徒”と呼んだ。
学校生徒の中で事件に参加した家の生徒がいると、
「あれは暴徒の家の子だ・・・・」と後ろ指をし、つまはじきされる
事もしばしばありました。アレヤコレヤ反省することしきりです。
とてもとても長いです。
興味ある人はお読みください。
農民が蜂起した椋神社
秋風が一揆の碑文なぞり去る (縄)
帰郷の時、椋神社の碑文を読んだときのものです。
囲炉裏端で聴いた祖母からの話。
農民一揆は明治17年11月1日と言えば、秩父事件蜂起の日です。
椋神社に農民が竹槍を持って集結した日だと、祖母より聴かされた。そしてその集団は四方に群声をあげて
高利貸しや、郡政役場へと向かって出発。
その一団が、我が家から吉田川を隔てて100mほどの井上耕地地区を通り巣掛り峠を経て、
小鹿野町の高利貸し宅に向かった姿が見えたとおしえられた。
集団は竹槍を脇に抱え、鉢巻き姿の一揆軍団が雄たけびを上げながら通過するのが見えたと・・・・。
高利貸しの取り立て、郡役所からの税金等々軍団の心情はいかばかりであったそれを語る人は居ない。
明治17年11月の一揆蜂起の日であった。
椋神社蜂起後、困民軍の行動図
椋神社に困民軍(農民一揆)蜂起が近し
重圧の租税、高利貸の取り立て
山林集会、自由民権の風(困民軍)
そもそも、農民一揆の起こったこと
秩父は峠の国の山村農業地帯、古くから養蚕―繭ー生糸―絹織物が発達した。
農民は生糸を紡ぎ生活していたた。絹の山里にも大きな変貌で、生糸が海を越え始め外国へ。
埼玉、群馬、長野もこの世界貿易が波及し輸出の波に組み込まれた。
碓氷峠のアブト式列車は長野から横浜へ生糸を大量に運ぶためのトンネル開通
で、輸送の効率を上げるためのあったと現地で案内人に聴た。
ますます生糸輸出が盛んとなり桑畑に変り養蚕が盛んになった。
1、悪どい高利貸の面々
==高利貸の、あくなき欲望の犠牲となって、農民たちは、泣く泣く
生まれ住んだ土地を追われていった。
今や秩父盆地は、太陽のない山村と化していた。借金は雪だるま式に膨らんだ。
2分切り、20%の天引き。こうして1年もたたないうちに借金はあっと
いう間に膨らみ倍になっていた。
高利貸が曰く「このご時世…、稼げるだけ稼がしてもらいまっせ。
ホンマに秩父は良いところ・・・・」と高笑いして居た。
2、東京に娘を身売り
煮て焼いて食おうと言うではないのだ…。
お花ちゃんも親孝行の娘と言うもんじゃ、借金のかたに高利貸は娘を引き取っていく。
この娘は掘り出し物だ!いい娘だ!
高利貸しの横暴を見ても、農民は耐えるしかなかった。
この横暴をもはや黙っていられない、秩父郡役所へ訴えて請願をするが、
問答無用追い帰えされ、裁判所も高利貸の方を見方した。
3、藩閥政府、自由党幹部が秩父へ遊説
明治17年2月、大井憲太郎の遊説演説があった。
大井は関東自由党の領袖であり、指導者だった。
大井の自由民権とは、重税からの自由、圧制政治からの離脱であった。
秩父自由党は、松方デフレの中にあって、中小農民の貧困層の中に
次第に根を下ろしたのである。
4、秩父盆地に自由民権の風
「今こそ不当の暴利をむさぼる高利貸、これと結託する郡役所の悪徳官僚を
一掃せねばならないのである。
貧者と言えども、生きる権利がある。耕地こそ命も同然であるのだ、耕地を所
有することは、農民の権利である。
(大井憲太郎の演説)
―――農民たちは、おいらの主張が理の通り正しい・・・と力を得る。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年 ~1922年)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。明治15年(1882年)、自由党に参加。明治17年(1884年)、秩父困民党を指導する。
5、秩父自由党動き出す、高利貸の征伐
そのころ
東京での自由党春期大会に、秩父自由党を代表として高岸善吉が出席した。
帰郷するや、党友の坂本宗作、落合寅一と計り高利貸を征伐とする目標に奔走する。
困民党作り、大衆的な結合を強め、貧民の団結を図るべく困民党の盟約を交わす。
―――かくして、秩父自由党は大きく羽ばたく。
≪困民党の誓約5ヶ条≫
6、請願運動に、高利貸の逆襲
「もう・・・・待てねぇ~明日にも高利貸をやっつけてしまえ」
俺たちの請願運動に、高利貸の奴らが、襲撃し襲い掛かってきた。
あちこちで山林会議が時を経ずして開かれ、謀議が重ねられた。世直しの為に立ち上がろう!
激しく取り立てられる農民にとっては、もう我慢が限界。
世直し自由党よりも、明日へのお金、高利貸対策に目を向けるのであった。
7、農民と高利貸のやり取り
夏マユの予想外の安値だった。
生糸が暴落した。
農民は生きるか死ぬかのせとぎわ、何とかしてくれ!
農民 「旦那お願いだ、この通り何とかしてください」
高利貸 「帰れ!この野郎ども!何回来たとて同じこっちゃぁ。
裁判所へ行く!?そのために判事さんに月々お届け物をしているのさ」
農民 「裁判所を買収していやあがったのか!!コノクソ」
8、田代栄助総理、貧民救済のために腹決める
明治17年2月大井憲太郎(関東自由党の領省袖)が秩父に遊説、秩父盆地に
自由民権の強い風が吹き始めた。
田代栄助率いる困民軍11月1日蜂起を決定!
この自由民権の風を支えるのは、借金取り立てを受ける貧しい農民等であった。
山中に於いては事あるごとに、「山林集会」「山野集会」がもたれ覚悟の
集会条例違反の一触即発の危機が迫っていた。
高利貸に行けば追い返される、警察、郡役所では相手にされない。
「田代(困民党最高責任者)さん、貧者は一人秩父だけではない。
全国貧民救済のために是非あなたの力を貸して下さい≫
『この秩父だけで100人中80人の人が
極貧にあるのが現実です、ぜひ立ち上がって力を・・・・」
「私たちの相手は、今や一高利貸だけではなく、
農民のために手を抜いて来た群役所達も一蓮托生なのです」
『今日までやるべきことは、合法的にやってきた、しかしもはや
それは限界です。貧民救済のために、今こそ困民党は一斉蜂起すべきです。
『世直しをするんです。田代さん力を・・・・・
お貸しください、お願いします。
『秩父だけでなく、長野、山梨、群馬、新潟、神奈川・・・・
至る所に、その協力体制はうまく行っています」
説得は、夜を徹して一晩中続けられた。
「そこに居並ぶものは、覚悟はよろしいか。
田代は腹巻をきりりと占め直した。
「田代は百姓の為に、命を捨てて困民党の先頭に立つことを決意した。』
みんな覚悟はできてるな!
一斉蜂起だ!
死ぬか生きるかぎりぎりだぞ!
11月1日、蜂起と決定!
夕刻までに椋神社に集結せよ!
※秩父困民党総裁田代栄助)(1834~1885年)
江戸時代には秩父大宮郷熊木の名主も務めた大百姓の家の生まれ。親分肌で人望があり貸借トラブルの仲裁など代言人(明治時代の弁護士みたいな職業)もしていたようです。自由民権運動の波に乗り、1884年2月自由党に入党します。やがて年長者、親分肌だったことから秩父の困窮した農民の政府への請願運動のリーダーに推されます。
武力蜂起にはかなり慎重派だったらしいのですが、燃え上がった炎は抑えることができず1884年11月1日の椋神社の決起集会で暴動へと進みます。秩父での騒動は11月3日に鎮圧され田代栄助は逮捕され処刑されます。
(この項、比企野村人さんより抜粋、お借りしました)
コメ欄は閉めています。