平家の落人、昭和開拓について
≪レポート≫
パソコンを使い、また日光市役所支所に
問い合わせ調べた。
鶏頂山の山岳崇拝神社と落人&昭和開拓のことについて
密接な関係があると思いながらも、現代人が追いかけると推察になる。
若干の無理があるかもしれない。
知った契機の思い込みで、半分が納得で書き綴った断片情報で
ある事をお許しください。
平家の落人
平家落人とは
日本各地において平家の落人が伝承されている。
そもそも平家の落人とは、
源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦において
平家方が連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方の難民である。
残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから
様々な伝承・伝説が言われるようになった。
平家の隠れ里
平家の落人は大抵、山の奥深くや離れ島や孤島などに存在している。
そのため、平家は人口が少ないところや山間部や谷間など人が寄り難い所に里を築く。
食器や生活用品を洗ったりする時に
川に誤って流してしまったり山中に落としてしまったりで
外部の人間に気づかれたりすることがある。
ただし、気づくのはごく少数であり、平家の落人の隠れ里に行けるのも少数である。
こういった場合、再度隠れ里に行くことができなかったり
川上から漆塗りの器が流れてきたりすることから
隠れ里自体を妖怪化して考えることがあった。
このため、平家の隠れ里が『隠れ里』として神秘的な存在にとられることも多い。
栃木県に多い隠れ里
関東地方に多い平家の隠れ里は、
栃木県那須塩原上塩原 栃木県日光市川俣 栃木県日光市湯西川等などが
隠れ里として言い伝えられています。
弁天沼から人の息遣いが詠み取れた
大昔人間の臭いがひしひしと感じられる神秘的な沼でした。
神秘的というか、息遣いを感じた沼
半鐘 沼の中の祠は丸太で通じる
湖畔には、「平家一門有縁の地」と刻まれた石碑が立っています。
源平の戦に敗れた平家の落人がこの地に住んでいたことなどが記されていました。
近くの桧枝岐村もまた平家の末裔が住んだ所と言います。
全国にも多くの平家の落人伝説が残っていますが、
ここもまたそのような土地の一つでしょう。
栃木県は、奥深い山国で特に多いようです。
しばらく登ったところは釋迦ヶ岳への道を左に分ける稜線。
木立の先からは釋迦ヶ岳の頂がそびえています。
高原山は鶏頂山、釋迦ヶ岳、中岳、西平岳、剣が峰などの頂を持ち
およそ10万年前まで活動していた古い火山です。
目の前に開ける爆裂火口は激しい火山活動を今に伝えるところです。
弁天沼への登山道には、赤茶けた石がごろごろと並び
むかしの激しい火山活動を伺い知ることが出来た。
弁天沼の鳥居 あちこちに石碑が見られた
弁天池平家一門有縁の地
水神様 鶏頂山のいわれを記した碑
。。。。。。。。。。。✱。。。。。。。。。。✱。。。。。。。。。。✱。。。。。。。。。。✱。。。。。。。。
鶏頂開拓
鶏頂開拓(けいちょうかいたく)は、
太平洋戦争の後に引揚者によって開拓された開拓地のひとつ。
栃木県日光市の高原の標高約1,200mの鶏頂山の山麓、高地にある。
当地は旧会津西街道高原新田宿で、廃村(文久3年(1863年)一時廃たれていた。
太平洋戦争終結後に満州からの引き上げ者等が入植し開拓が進められた。
近年は放棄農地も散見されるが、かつては牛の放牧やイチゴの育苗などが盛んに行われていた。
現在は大根やほうれん草やワサビなどの高原野菜が生産されている
第二次大戦後ふたたび開拓の鍬が入り、現在は高原野菜の産地となっている。
水田は、高原のため全くない。
開拓地の冬の景色
日光観光協会の画像をお借りした
鶏頂山の山麓に広がるこのエリアが "鶏頂開拓" である。
この地区は、日光市の藤原地区に属します。
そんなことから『藤原総合支所・総務課』に電話を入れてみた。
鶏頂開拓は現在18世帯80人の人口で、夏は野菜、厳冬期は2m以上の積雪の豪雪地帯です。
夏野菜は、大根を主に最近はほうれん草や花卉を栽培しています。
人口の流失について伺うと・・・、
ここは開拓のため、大型農業で1所帯当たり2~3ヘクタールの耕作面積を要しています。
そんなことで極端な人口の移動は無いとのことでした。
しかしあちこちに休耕畑が見えるのは淋しい限りです・・・と付け加えていた
子供たちは、鬼怒川小学校、藤原中学校へスクールバスで
通学しているとの事でした。
スケート場があり冬は多くの人で賑わった。
現に、葛ハイ参加者のKさんは若いときに、スキー場にもスケート場にも
来て冬のスポーツを楽しみましたと述懐していた。
現在はどちらも閉鎖している。
鶏頂山が信仰厚い山である事は良く分かりました。
鶏頂開拓のの人たちも
家内安全、豊作祈願、水神祈願をことあるごとに登頂して拝んだであろう。
豪雪高地で励む、鶏頂開拓農民の何時までも
頑張りを祈ります。
何時もながら、知識欲旺盛、研究熱心で素晴らしい記事ですね~
平家の落人伝説の集落はあちこちにありますが、こちらでは徳島県の「祖谷」が有名です。
社会人になりたての頃、徳島での研修で、「あの方は祖谷の出身の方で・・・お公家さん顔で品があるでしょう?」なんて教えられた想い出もあります。
渓谷が美しくよい温泉もあるので引退後はよく行っています。
長くご無沙汰していました。
その節にはご心配いただき有難うございました。
まだシャープに・・・とはいきませんが、ぼつぼつ再開しようと思っています。
平家の落人伝説は
枚挙にいとまがないようですね。
わが熊本にもありますよ。
「鶏頂開拓地」についても
初めて知りました。
ここは現在にも継続して営農が出来ているのですね。
良かったよかった・・・元気倍々
きっと眼の前が明るく蘇り、カメラを覗く意欲も倍化されるでしょう。
トンちゃんが復帰したのでまた賑やかに成ります。よろしくね。
もう高い山には行く事出来なく、もっぱら低山です。
ここ弁天沼は、
人間の臭いと言いますか、動物的勘といいますか、そこかしこに古代の人間の古きにおいがしました。
それならば・・・と言う事ではないですが、調べ検索しました。
現地でもう少し時間を掛けて、丹念に石碑を読み解きあちこちを検証したならば・・・・と思うと残念です。
徳島県の「祖谷」のかずら橋は、有名でよく写真を拝見します。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
あまり長い文章、だらだらと欠くのは人に嫌われ、あまり読みにくく感心しません。
しかしこんなところ山奥深く開拓民が・・・・・・などと思うと、ついつい深みにはまりました。
また平家の落人なる記事を読みますと、のめり込みました。
今回は昔人をを考える山歩きになりました。
安部内閣が地方創生なる政策を掲げましたが、このような僻地へ政策の手が伸びるのであろうか。
訪れた場所での、素朴な疑問や湧き出る好奇心には、いつもながら感心します。
若輩者の私では、とうてい及びません。
平家の伝説は、有名かもしれませんが、開拓の歴史は知りませんでした。
いつもながら縄文人さんには、勉強をさせていただきました。
広島県東部でも沼隈半島にはいまだに落人村が健在で
祭りや遺物が残っているようです。
源平合戦屋島の戦いで敗れた平氏は山奥に潜んで
生活した人が多いのでしょう。
我が地でも山の中に男が一人暮らした言い伝えがあります。
確か我がブログ「鎌研ぎ」で載せた気がします。
全国各地でありますが まさしく全国各地に居るはずですもんね。
わが芦屋町もそうなんですよ。。
開拓と言うのは大変なご苦労だったでしょうね。。
>日光観光協会の画像をお借りした
美しい雪景色が そのご苦労を包んでいるようです。
縄文人さんの熱心な聞き取り いつか冊子にまとめられたらどうでしょうか・・・
今年は喜寿でいらっしゃいましたよね。。
いい記念になると思います。。
私も・・・縄文人さんには敵いませんが
気になったら 聴きます。。
私の場合 ただの好奇心なんですけどね。。
おはよう御座います。
朝は何時も早いんです。NHK深夜便を聞いたら飛び起きるんです。
≫素朴な疑問や湧き出る好奇心には、いつもながら感心します。
ハイ・・、ありがとう御座います。お褒めの言葉。
好奇心を失った人は、堕落するから・・・と、教えられました。好奇心だけはいつも持とうとしています。
鶏頂開拓は、
バスを駐車した場所から、木の間に間に何か奥の方に若干の開けたようなところが見えた。それからスケート場があったとkさんから言われました。
そんなこんなパソコンの威力を使って、
調べました。
最後は藤原支所に電話を入れましたが、
あまり良く知りえては居ませんでした。古いことなので・・・・。
『10月の行事のお知らせ』
まだ貰っていませんですね!
行き先を決めるのに困っています。
heikouさんにお聞きしたら、まだなんですよ・・・!?と言っていた。
郵送で送られてくるのかな・・・。
平家の落人はあちこちに聴きますが、やはり山奥が多いですね。
従って、何代も続くとそのだけの血族結婚が、行われてあまり子孫には良い影響を与えないとお聞きしました。
≫縄文人さんの熱心な聞き取り いつか冊子にまとめられたらどうでしょうか・・・
今年は喜寿でいらっしゃいましたよね。。
ハイハイありがとう御座います。
冊子の方向で検討したのですが、
なかなか良い方向に進みません。
写真が多いので、如何に纏めるか、価格でも折り合いが・・・!?
何と言っても いかように編集したらよいかが大きな問題点です。
良きアイディヤがありましたら、又冊子にされた方がありましたらその辺の感触をおきかせください。