鳥のメジロを前面に出し『メジロ台団地』どんなところ!?
「団地」という言葉から…様々な思い!!
昭和40年代~昭和50年を振り返る
(冷凍食品・昭和元禄・歩行者天国・カップヌードル・デスカバージャパン)
1、当時のニュータウン「メジロ台団地」がクローズアップ
『メジロ台』と言う爽やかなイメージが、電車内駅掲示等に華々しく登場した。
私は1964年(昭和39年)東京オリンピックの年に結婚し、家族寮の関係から、府中市内に居を構え、京王線・府中駅を生活中心拠点とし、都心へ通勤していた。
そんな関係で京王沿線のことは車内広告の掲示でほとんど知る事が出来た。数年すると子供も生まれ家が狭くなり「メジロ台団地」S40年頃~売り出し中)で、どんな場所で、どんな物件であるか気にかかるは勿論であり、
その関心は人一倍でした。
メジロの鳥をメーンに爽やな広告が羨望と欲望が交差していた。ラジオ、TV、新聞、車内や駅の掲示あらゆる媒体によって脳裏に刷り刻み込まれたことは確かであった。
めじろ台駅(めじろ団地)⇦ 京王電鉄 ⇒通勤駅・府中駅
2、その当時の時代背景、世の中の動き。
東京オリンピック開催が決まると、オリンピック景気と裏打ちされて景気はうなぎのぼり、地方から東京へ人口は流入して膨れ上がった。昭和42年代はイザナギ景気などと言われて日本経済は高度な発展期を迎え活発となった。3c「カラーTV,クーラー、自動車」の三種の神器と言われながら急速に発展を遂げた。これに伴い膨れ上がった東京人口は、住宅地が無く、郊外へ郊外へと拡がった。マンション政策が推し進めた国の住宅公団、都の都営住宅と言った公共機関、民間デベロッパー(私鉄電鉄会社沿線開発)が推し進められた。ここで生まれたのが団地族、団地妻、有閑マダムなる言葉が盛んに持てはやされた。
東京オリンピックシンボルマーク 金メタル
3Cの神器 及び普及率
3、あれから50年が経過
白亜の団地・コンクリートの建物がスラム化・・・・!?
国や都の政策で推し進められてきた高層団地が50年余の月日を過ぎて、大きな曲がり角に差し掛かった。白亜の団地も高齢化、核家族で子供たちは外に出て生活する。残った人は後期高齢者のみの人で団地に活気がなくなりスラム化と言う現象がマスコミの間で囁き始めた。葛飾高砂にスラム化した見本のよう団地を定期的にそばから眺めて観察した。その団地も東京都の手でやっとその改修が行われ、スラム化した団地が修復された。
エレベータのない共同住宅4F
今問題となっているスラム化
4、「メジロ台団地」の当時の販売状況。
第1期573区画を昭和40年に発売したところ、即日完売。
第2期~第5期も同じく発売同日完了と凄まじい売れ行き。如何に住宅事情
が切迫していたかがお分かりかと思います。
5、“あのめじろから受けたイメージ団地”「メジロ台団地」はどんなところ?
街歩き歩き 5/5(日) 「水辺での鯉のぼり散策」10時集合の30分前に到着、その駅前団地を観察して歩いた。今までの経験から、駅を見ると街の姿、佇まいがオオヨソ見えてくる。
すると50年前に思っていた、イメージとは逆でした。見える住宅は1ヶ建ての住宅スラム化とは予想に反して白亜のコンクリート共同団地は見当たらなかった。付近住民の人に聞き込みをすると、ここは≪1ケ建て分譲です≫と言うことが聞かれた。
F会長からの諸注意
黄線内が、おおよその「めじろ台団地」です。
gooの航空写真から
碁盤の目のような1ヶ建ての分譲地住宅でした。
メジロ台団地内を行くフジの会面々
直進すると、黒木開戸緑地公園に突き当たります。
”黒木開戸緑地”高台からの「メジロ台団地」眺望
↑ に同じ
聞き込み、団地を通り抜けて。
昭和公園40年代に府中に住んでいるときに、
強烈に脳裏に刻み込まれた「メジロ台団地」!!共同団地ではなく1ヶ建て分譲地でした。
メジロの鳥でイメージ模写され、その通りに
メジロが鳴きゆったりと時が過ぎる高級住宅地でありました。
葛飾にS46年居を構え府中からオサラバし
夢に見たメジロ台団地を50年振りに過去を検証しました。
お知らせ、フジノ会に皆さんへ
「八王子・水辺の鯉のぼり」はスライドにて鋭意編集作中です。
チョイトお待ちください。
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