Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

インランドシー

2023年05月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「複数の日本政府関係者は19日、報道で明らかになったウクライナのゼレンスキー大統領のG7広島サミットへの対面出席について、そろって「オンライン出席の予定は変わらない」と否定する姿勢を示した。

 通訳案内士(ガイド)試験の参考書の中に、「観光日本地理」というのがある。
 その本の「瀬戸内海」に関する記述に、以下のくだりがあった。

 「戦後の調査であるが、国際観光客に、わが国の自然景の中でどこが素晴らしかったかを尋ねたところ、大部分の人が「インランドシー」であると答え、係りを驚かせたことがある。

 観光業者にとっても、「インランドシー」の人気は意外だったようだが、今回のG7広島サミットに参加した外国関係者は、どういう印象を抱いただろうか?
 さて、サミット終了後、まもなく「解散」→「防衛増税」というのが私の予想である。
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イデアなき社会

2023年05月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「2012年に市川亀治郎改め、四代目市川猿之助を襲名した。おじの二代目市川猿翁が作り上げた「スーパー歌舞伎」をさらに発展させ、「スーパー歌舞伎2『ワンピース』」などを上演した。 ・・・
 「あるバーでは『私は〝市川猿之助〟が嫌いなんだ!』などとこぼすこともあった。完璧主義で、自身の芸に厳しいことで知られてましたから、大名跡にプレッシャーがあったのではないか」(梨園関係者)

 「イエ」制度を考えるときは、梨園のならわしを例にとると分かりやすい。
 「屋号」=苗字は「イエ」(家業・家職を同じくする人間の集団)の表章であり、「襲名」は「シニフィエなき社会」を示す最も分かりやすい例である。
 これに対し、西欧(及び中国)における「シニフィエ」とは一体何であったかが問題だが、これについては、小倉先生の<汎霊論>が大きなヒントになっていると思う。
 (パウロに先行する)<汎霊論>の提唱者がプラトンであることについては、おそらく異論を見ないだろう。

 「まず、「イデア」(idea)という言葉の意味ですが、これはidein(見る)という動詞からつくられた言葉で、字義どおりには「見られるもの」、つまりはものの「姿」、「形」を意味します。・・・プラトンはイデアという言葉を、形は形でもわれわれの肉眼に見える形ではなく、いわば「魂の眼」によって洞察される純粋な形、つまり、物の真の姿、事物の原型を指すために使うのです。・・・ギリシャ語のイデアには、英語のideaがもっている「観念」という意味はまったくありません。英語でも、ギリシャ語のイデアの訳語としては、むしろformという言葉を当てるのが普通です。」(p85~87)

 ここでは、「イデア」を、道教・朱子学の「気」とパラレルに考えると分かりやすい。
 「気」(<第二の生命>の一種)を同じくする者たち(宗族、同族など)は、イデア=formが同じ、つまり「父と同じ姿」をしていると考えるのである。
(なので、前にも指摘したが、岩波文庫版「ヘーシオドス 仕事と日」の以下のくだりは、おそらく誤訳であろう。
 「しかしゼウスはこの人間の種族をも、子が生まれながらにして、こめかみに白髪を生ずるに至れば直ちに滅ぼされるであろう。父は子と、子は父と心が通わず、・・・」(p32~33)
 ここは「父は子と、子は父と姿が似ず、・・・」とでも訳すべきところだろう。)。 
 これに対し、日本の「イエ」制度は、明確にイデア=formを放棄しているわけであり、西欧や中国より甘いルールと言えるだろう。
 しかも、「父と同じ姿」を再生することによって<第一の生命>の克服を試みたのと同じ効果が、「名(苗字)」を与えることによって実現出来るのだから、手続も簡単である。
 だが、「苗字」や「名跡」は自然的あるいは生得的なものではなく、社会が付与するものなので、様々な事情によって劣化する(名跡が汚れる、名が廃れる、など)、あるいは、社会によって抹殺されることがあり得る。
 実際、今回の事件の真相いかんによっては、「名跡」が「永久欠番」となり、<第一の生命>と同じ運命を辿るおそれもあるだろう。
 今後の捜査で詳しい状況が分かって来ると思うが、市川段四郎さんと奥様に合掌。

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シニフィエなき社会

2023年05月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「それなりの武家の家には「通字」というものがあります。その家の男子みなが名前に用いる漢字、それが通字です。たとえば織田なら「信」、武田家も「信」、家康以降の徳川は「家」、北条家は「氏」、足利将軍家は「義」、という具合です。」(p3)
 「それから、地位が上位の人が、下位の者に、自分の名前の一字(通常は、通字ではない方)を与えることもよくありました。織田信長の「長」を与えられたのが、義弟の浅井長政(それまでは賢政を名乗っていた)や家臣の丹羽長秀。徳川家康も、家臣の榊原康政に「康」の字を与えていますね。」(p4)

 「中国で「家」と呼ばれるものは、その最大の意味では、専ら男性の系統をたどって同一の先祖を有すると観念された人々全体をいう。「宗」「宗族」「同族」等ともいう。この人々には先祖から受け継いだ同じ「気」(中略)が流れていると観念する。」(p75~76)

 「また孟子は「生命とは気である」と考える道家の思想を受け継いでいます。これもまた<汎霊論>的な世界観です。
 つまり、この宇宙のすべては「霊的な物質(spiritual matter)」としての気によって成り立っているとするのです。」(p68)
 「日本における中華へのあこがれと同一化の欲望は果てしがありませんでした。だが、朝鮮のようには中華化できなかったのです。・・・
 いいかえると、父系の家族制度を構築できないなんらかの理由と、権力を完全に一元化できないなんらかの理由が、日本の非中華性=原始性にとっての重大な性格を形成しているのではないでしょうか。」(p51~52)

 小倉紀蔵先生は、「日本には<汎霊論>的な思想が根付かなかった」と指摘する。
 <汎霊論>というのは、典型的には、「気」のような一元的な霊的物質によって世界が構成されていると考える思想のことであり、パウロ以降の主流派キリスト教もこれに属する。
 伝統的な中華思想においては、「気」(小倉先生によれば<第二の生命>)の実体は男性のDNAであり、「気」を同じくするものが「家族」ということになる。
 誤解を恐れずに言えば、「気」はシニフィエであり、「家族」の一員はレフェランであるということになる。
 ところが、日本には、この思想が根付くことはなかった(らしい)。
 その代わり、「苗字」を同じくする者によって構成される「イエ」の制度が存在する。
 これは、私見では、シニフィエはそもそも想定されておらず、シニフィアンとレフェランだけが存在するという思考に基づいているように思われる。
 しかも、シニフィアンは、江戸時代には「苗字」と「通字」の2段階に分かれており、さらに、共通のDNAを保有しない主君・家来の間でも、「通字」ではない「字」を同じくすることがあったのである(「家来」という言葉が象徴的である。)。
 おおざっぱに言うと、日本には、中華圏における「気」は存在せず、その代わりに「名」が用いられた、という見方が出来ると思う。
 うーむ、日本は、「名さえあれば実がなくてもオーケー」という、ある意味ではイージーな社会、つまり「シニフィエなき社会」であることを示しているのではないだろうか?
 それはそれで凄いことではあるけれど。
 
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ブラヴォーの復活

2023年05月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「エレクトラは、母クリテムネストラとその情夫エギストによって殺された父アガメムノンの復讐を誓っている。 ・・・
 ・・・オレストはクリテムネストラの寝室へ忍び込み、やがて母の断末魔が響く。王宮に戻ったエギストもオレストの手にかかる。
復讐を成就させたエレクトラは喜びのダンスを踊り、そのまま崩れ落ちる。

 演奏会形式だが、歌手は全員暗譜しているし、たっぷりと演技している。
 やや気になるのは、演奏会形式ゆえに、オケの音が声をかき消す場面が散見されたこと。
 だが、その点を除けば、歌手の実力はさすがで、「オレスト!」と叫ぶラストは圧巻であった。
 当然のことながら、終幕後は拍手とブラヴォーの嵐となったが、日本人だとどうしても”brabo!”になってしまうのは致し方ないところ(海外の歌手や指揮者にはどう聞こえているのだろう?)。
 ところで、昨年上演された「サロメ」(同じくR.シュトラウス作)は今回の「エレクトラ」とセットの扱いだが、普通に考えると、「エレクトラ」とセットにするのであれば、「オイディプス」あたりではないかと思うが、どうなのだろうか?
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期待しない

2023年05月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「5月はプレトニョフ。ロシアのピアニスト&指揮者としての大先輩、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)の生誕150周年&没後80周年の二重アニヴァーサリーに因み、管弦楽曲ばかり3曲の特集を組んだ。興味深いのはそれぞれの作品番号と初演年。「幻想曲『岩』」作品7は1895年、アルノルト・ベックリンの同名絵画に想を得た「交響詩『死の島』」作品29は1909年、アメリカ亡命後の「交響的舞曲」作品45は1941年。19世紀末から20世紀半ばまでの長期にわたるラフマニノフの作風の変化をピアノ音楽抜きで検証する画期的、ある意味学究的でもあるプログラミングといえる。 

 「ピアノ抜きのラフマニノフ」という珍しいプログラム。
 聴いたことのない曲ばかりで、さすがのプレトニョフさんも暗譜と言うわけにはいかず、3曲とも普通に楽譜を見ながらの指揮である。
 彼がこの選曲を行ったのには、もちろん理由がある。
 ラフマニノフにとって、管弦楽曲は、彼をうつ病に陥らせた鬼門とも言うべきようなジャンルだが、管弦楽曲の作曲におけるラフマニノフの挫折と成長を時系列的にたどるという狙いがあったようだ。
 プレトニョフさんはこう語る。

 「交響曲第1番の初演はグラズノフが指揮しました。うまくいかなかったので、作曲家としてもあまりよくできていないということで落ち込んだ。すごく沈鬱な時期があり、その後にピアノ協奏曲第2番を書きました。・・・
 ・・・チャイコフスキーが評価してくれた音楽家としての立場をきちんと証明しなければならないと気負いがあったのだと思います。でも、ラフマニノフにはその頃はまだ大曲を書くような知識や能力が欠けていたのでしょう。まだ知識も経験も不足している中で、期待と気負いも非常に大きかった。ラフマニノフは短い期間に書かなければと焦って書いて、自分の思いは込めたのだけれど曲として人を納得させるようなものではなかった。ですので、批評も非常に厳しいものがあって、ラフマニノフにとってはショックだった。彼は気負ってしまったのだろうと思います。周りが期待しなければよかったんです。」(公演パンフレットより)

 プレトニョフさんは、アッサリと、「周りが期待しなければよかった」と指摘する。
 ラフマニノフは、その性格からして、周りが期待すると過剰に気負ってしまい、実力を発揮できないようなのだ。
 いわゆる「メランコリー親和型」の性格だったのだろうか?
 教訓:「芸術家に期待してはならず、仮に期待するとしても、そのことを芸術家本人に気付かれてはならない。
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主役は誰?

2023年05月16日 06時30分00秒 | Weblog
 吉田都芸術監督の肝入りで制作された「マクベス」(世界初公開)と、アシュトン版「夏の夜の夢」のダブルビル。
 上演は、絶対にこの順番でなければならない。
 というのは、「マクベス」が血みどろの悲劇(ラスト近くではマクベスの生首が登場)であるのに対し、「夏の夜の夢」は、有名な結婚行進曲が示すとおり、ハッピーエンドの喜劇だからである(それにしても、かつて、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の2本立てを、この順番で観た人には深く同情する。)。
 さて、「マクベス」の主役は、どうみてもマクベス夫人(米沢唯さん)である。
 振付のウィル・タケット氏によれば、彼女は、血を浴びて戦場から帰って来る夫・マクベスに性的な魅力を感じ、あえて身分が自分より下の彼を結婚相手に選んだのだという。
 そのマクベス夫人が、夫を唆してダンカン王を殺害させるなど、この悲劇のストーリー展開を支配しているのである。
 これに対し、アシュトン版「夏の夜の夢」の主役は、おそらくトリックスター=妖精:パック(山田悠貴さん)であり、他のキャラクターを”食って”しまっている。
 人間たちの中に迷い込んだ「動物」のような跳躍の連続を見ていると、「妖精と言うのはこのことか」と思ってしまう。

 30年以上前に初演された傑作の新訳公演。
 「小川絵梨子芸術監督が、その就任とともに打ち出した支柱の一つ、「演劇システムの実験と開拓」として、すべての出演者をオーディションで決定する「フルオーディション企画」。
ということだが、これは大成功と言って良い(ほぼ満席である)。
 第一部を観た段階の感想では、役者さんたちが「全員主役」という意気込みで演じているのがよく分かる。
 つまり、全員がフルに自己主張しているのである。
 実際、ストーリーは特定の「主役」=「中心」の存在なくして、いわばポリフォニー的に展開していく。
 平凡な感想だが、優れた脚本を上手い役者が演じれば、芝居は成功するという見本のようだ。
 ということで、第二部も楽しみである。
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道具概念vs.道具概念(10)

2023年05月15日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「莫大な記憶容量をもつわれわれのような複雑な有機体においては、われわれが自分の存在を見いだす一瞬の認識が、記憶にかきとどめられ、適切に分類され、過去や予期される未来と関係する他の記憶と関連づけられる。その複雑な学習捜査の結果が自伝的記憶ーーつまり、われわれは身体的にはどういう人間で、行動的には通常どういう人間で、将来どのような人間になろうとしているか、という一連の傾性的記録ーーである。
 われわれは生涯にわたって、この一連の記憶を拡大したりつくり変えたりすることができる。量的には多い場合も少ない場合もあるだろうが、必要があって、そのうちのなにがしかの個人的記録が、再構築されたイメージの中で明示的にされると、それらは「自伝的自己」になる。」(p231~232)

 ダマシオによれば、「自己」(私)は、「原自己」→「中核自己」→「自伝的自己」という三層構造を成しているという(p233)。
 このうち「原自己」(脳の複数のレベルで有機体の状態を刻々と表象している、相互に関連しあった、そして一時的に一貫性のある、一連のニューラルパターン)の仕組みは、「再帰的に自己言及されることでしか、規定できない何ものか」という、小倉先生による「私」の定義に親和的である。
 それでは、「知覚像」についてはどうだろうか?
 ダマシオは、おそらくこの考え方には懐疑的であり、小倉先生による「知覚像」の定義に対しては、二つの方向からの反論を行うものと思われる。
 一つは、小倉先生のいわゆる「知覚像」(の一部)は、結局のところ「情動」を指しているに過ぎないのではないかという点である。
 ダマシオのいう「情動」は、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、驚き、嫌悪(「一次の情動」あるいは「普遍的情動」)、当惑、嫉妬、罪悪感、優越感など(「二次の情動」あるいは「社会的情動」)、優れた気分や不快な気分、平静や緊張など(「背景的情動」)、さらに欲求や動機などを広く含んでいるところ(p72)、これらは「類似性」を特色としており、「類似性」ゆえに芸術や文学、音楽や映画は国境を越えることが出来るのである(p75)。
 この、「情動」の本来的な「類似性」に基づいて、小倉先生は、「悲しみの像」などの「知覚像」を持ち出しているのかもしれない。
 だが、そうであればわざわざ「像」という語を用いる必要はなく、個々の主体のうちに実現される類似した「知覚」を、例えば(「情動」としての)「悲しみ」とでも呼べばよいだけの話である。
 もう一つは、「情動」は、訓練や学習によって統御可能となる場合があるところ(p70~71)、小倉先生が「「知覚像は、私に知覚されなくても存在する」というときには、この「情動」の後天的・社会的側面のみを捉えて過度に一般化している恐れがあるのではないかという点である。
 確かに、「外から与えられる」タイプの「情動」もないわけではないが、実際のところ、「情動」の大部分は、意識することさえ難しい身体状態の変化とそれに対する反応であり、本来外在的なものではない。
 さて、小倉先生の主張の中で、もっと問題なのは、「多重主体性」である。
 これについて、ダマシオは、おそらく全面的に否定すると思われる。
 彼は、「一人の人間を定義する一つの心は一つの身体を必要とし、一つの人間の身体は必然的に一つの心を生み出す」と断言しているからである(p191~193)(これは彼の「ソマティック・マーカー仮説」のコロラリーでもある)。
 この、「一つの心と一つの身体」の結びつきにおいて最も重要な機能を果たしているのが、「拡張意識」であり、誤解を恐れずに言えば、これが「記憶」の本体である(p258~)。
 この「拡張意識」とともに「自伝的自己」が生じることとなるが、私見では、これこそが、養老先生が言うところの「同じにする」ことを可能ならしめるものである。
 この点、個々人が抱く「知覚」を一般化し、特定の「知覚像」を概念する際には、「同じにする」作用が働いているところ、これは、「自伝的自己」(要するに一種の「私」)の存在を前提している。 
 なぜなら、AとBという異なる2つの対象を「同じにする」ためには、対象Aとの関係に関する「記憶」と、対象Bとの関係に関する「記憶」を、「一つの」「自伝的自己」が対比して「同じ」と判定しなければならないと解されるからである。
 裏返して言うと、同一の「記憶」を複数の「自伝的自己」が共有することはないし(身体が異なるから)、「記憶」がない人間は、AとBとを「同じにする」ことが出来ないはずである。
 話が長くなったが、結局のところ、「知覚像」を概念する過程において、「一つの」「私」という存在が動員されている訳であり、そうなると、「知覚像」という「道具概念」を拵える目的(つまり、「「私」(ひいては主体全般)の解体」+「受容体への還元」)と矛盾してしまうのである。
 ・・・こういう風に考えてくると、小倉先生の説は、なかなか魅力的ではあるけれども、「身体」(ないし<第一の生命>)という壁を克服することは難しかったようである。
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道具概念vs.道具概念(9)

2023年05月14日 06時30分00秒 | Weblog
 「自己という難物を克服できればーー私の視点で言えば、それは自己の神経的基盤を理解することにほかならないがーー現象的に密接に関係しあう、しかし内容のひどく異なるつぎの三つの生物学的作用、すなわち「ある情動」、「その情動の感情」、そして「その情動の感情をもっていることを認識すること」を、理解できるようになるかもしれなかった。また同じぐらい重要なことだが、自己と言う難物を克服すれば、意識全般の神経的基盤も明らかにできるかもしれなかった。」(p17)
 「第三の、そしてたぶんもっとも意味深い事実は、意識と情動は分離「できない」ということ。・・・
 第四の事実は、少なくとも人間において意識は一枚岩ではないということ。・・・私が「中核意識」[core consciousness]と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己の感覚を授けている。中核意識の作用範囲は「いま・ここ」である。・・・
 他方、私が「拡張された意識」[extended consciousness。以下「拡張意識」と表記]と呼んでいる多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己の感覚ーーまさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格ーーを授け、また、生きてきた過去と予期された未来を十分に自覚し、また外界を強く認識しながら、その人格を個人史的な時間の一点に据えている。」(p27~28)
 「対象を処理する有機体のプロセスによって有機体自身の状態がどう影響されるかについて、脳の表象装置がイメージ的、非言語的説明を生成し、かつ、このプロセスによって原因的対象(有機体の状態に影響を及ぼす対象)のイメージが強化され、時間的、空間的に顕著になると、中核意識が生じる。」(p226)。
 「要するに、脳が、ある対象・・・のイメージを形成し、その対象のイメージが有機体の状態に「影響を及ぼす」と、別のレベルの脳構造が、対象と有機体の相互作用によって活性化したさまざまな脳領域でいま起きている事象について、素早く、非言語的な説明をする。対象と関連する結果のマッピングは、原自己と対象を表象する一次のニューラル・マップに生じ、対象と有機体の「因果的関係」に対する説明は、唯一、二次のニューラル・マップに取り込まれる。・・・<さかんに別のものを表象しているときに、みずからの変化の状態を表象しているさなかに捕まった有機体の話>ということになるかもしれない。」(p228)
 
 アントニオ・ダマシオは「ソマティック・マーカー仮説」の提唱者として有名であるが、彼によれば、対象(養老先生風に言えば「外界の『変化』)に対する有機体の反応は、まず「情動」から始まる。
 「情動」とは、「身体状態の「変化」」に対する脳の反応であり、それは身体という”劇場”において実現される(p16、p380ほか)。
 次に、「情動」によって実現された身体状態の変化は、神経的経路(電気信号)と化学的経路(ホルモン、ペプチド)を通じて脳に伝えられ、「感情」が生じる(p50~、「デカルトの誤り」p227~の方が分かりやすい)。
 最後に、「情動」と「感情」を有する有機体(の脳)によって、「感情」の状態が認識され、「意識」が表出する。
 「意識」は、「情動」と同じように有機体の生存を目的とし、「情動」と同じように身体の表象に根ざしている(p52~53)。
 ダマシオの仮説で非常に重要なのは、「自己」と「意識」の関係及び「自己」の構造である。
 「自己」は、身体に基盤を持つ「原自己」(われわれはこれを「意識」していない)→ある対象が「原自己」を修正すると生じる、二次の非言語的説明の中にある「中核自己」(ここで「意識」が生じる)→「自伝的記憶」(われわれは身体的にはどういう人間で、行動的にはどういう人間で、将来どのような人間になろうとしているか、という一連の傾性的記録)を基盤として成立する「自伝的自己」という、三層の構造を成しており、しかも、「自伝的記憶」は、非意識的な「原自己」とも、意識的な「中核自己」とも、構造的につながっているということである(p231~233)。
 

 
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道具概念vs.道具概念(8)

2023年05月13日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「われわれは感覚でいったいなにをまずとらえているのだろうか?それは世界の違い、変化である。なにも変化しなければ、たとえばなにも音がしなければ、耳は働かない。明かりが変化すれば、目はすぐに気が付く。感覚器は「外界からの刺激を受け取る」。つまり外界の変化に依存して働く。」(p32)
 「この本の文脈で言えば、「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在つまり感覚所与を重視する。」(p46)

 「この世界には変化があり、出来事同士の関係には時間的な構造があって、それらの出来事は断じて幻ではない。出来事は全体的な秩序のもとで起きるのではなく、この世界の片隅で複雑な形で起きる。ただ一つの全体的な順序にもとづいて記述できるようなものではないのだ。」(p113)

 「「人間とは知覚像の束である」といったとき、それでは、知覚はどこに行ってしまったのだろうか。知覚像の束というけれども、そこには知覚はないのだろうか。
 そうではない。知覚はもちろんある。知覚像は、知覚つきの像なのである。たとえば他人が痛そうな顔をしているとき、その像は「痛みの像」であるが、これに接したからといって私が痛いわけではない。もちろんミラーニューロン(他者の行動を見たときも、自分がそれと同じ行動をとっているときと同じように働く神経細胞)が働いて私も「あたかも痛いように」感じることもあるだろうが、しかし実際に自分が痛いわけではない。・・・」(p67~68)

 こういう風に、大脳生理学者、物理学者、哲学者の記述を並べてみると、ものごとが分かりやすくなると思う。
 私なりに総合すると、次のようになる。
 「知覚」≓「感覚所与」(感覚器に与えられた第一次印象)とは、「変化」(出来事)が信号化されたものである。
 「知覚」≓「感覚所与」は、「時間」(出来事同士の関係)の源泉であり、これを有するということが、<第一の生命>の意味であり、その主体というのが、「生物」の定義である。
 他方、養老先生によれば、「感覚所与」に対抗するのは「意識」であり、「意識」は、「(「変化」を捨象して)同じにする」作用を営んでいるという。
 さて、ここで養老先生の思考と小倉先生の思考とを繋げようとすれば、「意識」によって認識ないし再構成された「感覚所与」(養老先生風に言えば「脳がとらえた電気信号のパターン」)こそが、「知覚像」の正体ということになりそうである。
 ところが、そうはならない。
 小倉先生は、「知覚像」は、意識/無意識(個人のものだけでなく、集合的無意識も含む)いずれの領野にも生起することが出来ると指摘しているからである(前掲p61)。
 これは、小倉先生が「知覚像」の生成・保存の場は「脳」全般であると見ているのに対し、養老先生は「脳」の機能の一部をもって「意識」と捉えているためだろう(但し、やや注意を要するのは、小倉先生の「脳」は、「私」のそれだけでなく、「他者」のそれも含んでいるという点である。小倉先生の主張全体を整合的に解釈しようとすれば、そのようになるはずである。)
 それでは、「意識」とはいったい何なのだろうか?
 「意識」=「脳」でないことは確かである。
 なぜなら、養老先生も指摘するとおり、少なくとも人生の三分の一は「意識」がないからである。
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道具概念vs.道具概念(7)

2023年05月12日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「知覚像とは、「あたたかさの表象」「痛さの表象」「甘さの表象」「まぶしさの表象」といったものであり、それぞれ「あたたかい」「痛い」「甘い」「まぶしい」という知覚とは異なり、あらかじめ「私」という個別の主体を前提とする観念ではない。つまり知覚像は、「私」がいなくても成立しうると私は考えている。
 なお、ここで「知覚」というものは、ヒュームのいうそれと同じものとして定義しておく。つまり、印象及び観念を指している。そしてヒュームは、感覚・情念・感動も印象の中に含めたのであるが、私も同じ分類をしたいと思う。また記憶と想像を観念の中に含める点も、私はヒュームに倣いたいと思う。」(p60~61)
 「心とは、知覚像の生成と保存の場である。
 知覚像は、心に生成するのである。この点で私は大森荘蔵の考えとは異なる見解をとる。大森は心を外側に出した。悲しいという心を持った私が、月を見ると悲しく見えるのではなく、そこに(私が見上げているあの空に)「悲しい月」があるのだという。
 しかし私は、悲しいという感情が生起するのは、あくまで心(脳といっても同じである)なのだと考えている。この意味ではごく常識的な考えである。」(p73~74)

 おおざっぱに言えば、小倉先生の思考は「唯脳論」と言って良いと思われる。
 では、「脳」において生成・保存される、「私」(ひいては主体全般)がなくても成立しうる「知覚像」とは何か?

 「目に光が入る、耳に音が入る。これを哲学では感覚所与という。とりあえず感覚器に与えられた第一次印象といってもいい。
 動物は感覚所与を使って生きている。それが私の最初の結論である。・・・」(p32)
 「まず結論からいこう。動物の意識にイコール「=」はない。・・・
 a=b ならば、b = a である。
 これが動物にはわからない。わからないと私は思う。これを数学基礎論では交換の法則という。・・・
 ・・・感覚はいわば外の世界の違いを捉えるもので、それを無視すれば、「すべては交換可能だ」という結論になる。乱暴にいうなら、脳の中だけでいえば、すべてが交換可能である。なぜならすべては電気信号だからである。」(p49~55)

 養老先生の指摘を参照すれば、小倉先生のいわゆる「知覚像」とは、「脳内を伝わる、パターン化された電気信号」を指していると考えることが出来るのではないだろうか?


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