「舞台は、日本のどこかの島。改革派と保守派がしのぎを削る村長選挙の真っただ中、年に一度の女性だけで行われる神事が行われようとしていた。
そこへ集った、年齢も立場もバラバラの女性7人。
ワンシチュエーションで展開される、女性7名の真摯で、時に滑稽な会話を通して、結婚、不妊、介護、パワハラ...女性たちが直面する様々な問題が浮かび上がります。
伝統継承と変化に揺れる地方都市は、やがて彼女たちの姿に重なり、日本の「今」を感じることができるでしょう。」
ワンシチュエーションで展開される、女性7名の真摯で、時に滑稽な会話を通して、結婚、不妊、介護、パワハラ...女性たちが直面する様々な問題が浮かび上がります。
伝統継承と変化に揺れる地方都市は、やがて彼女たちの姿に重なり、日本の「今」を感じることができるでしょう。」
「全裸監督」の脚本も手掛けた山田佳奈さんは、「沖縄の離島」で取材した経験からこの作品を作ったと語るが、これを真に受けることは出来ない。
この戯曲の背景を成す政治的な対立、すなわち村長選挙における「村長と区長の一騎打ち」について言えば、これは沖縄の島のことではない。
私がそう言えるのは、サラリーマン時代、ある島(沖縄ではない)の政治・経済状況について、前任者から聞いて唖然とした経験があるからである。
その前任者によれば、A島はXという政治家とYという政治家がともに地盤にしていて、XとYは選挙のたびに激しい抗争を繰り広げていた。
島民も”X派”と”Y派”に分かれて激しく対立していたが、選挙制度の変更によってYがA島から撤退するや、”Y派”であった人たちの大半が仕事を失い、借入金の返済が出来なくなったというのである。
当時「○○戦争」と呼ばれていたこの島の状況について、私もテレビなどで見聞きしていたものの、実際に赴任してみるまで、これほど「ゼロサム状況」が深刻だとは知らなかった。
この芝居の中核的なテーマも、「人間同士の争い」であるが、島に住む者、あるいは東京から取材に来た人までも、好むと好まざるとにかかわらず争いに巻き込まれてしまい、「村長派」または「反村長派」のレッテルを貼られてしまう。
「ゼロサム族」、「マウンティング族」(「村長の娘」がその典型)と付き合っているうちに、「敵」か「味方」のいずれかに分類され、いつの間にか当事者になってしまうのである。
例外なのは、外部から嫁いできた女子大生(若い子)と、祭祀を執り行う
「司さま」くらいである。
「司さま」は、この島の現状について、こう指摘する(但し、私が記憶に基づいて再現したセリフなので、おそらく不正確である。)。
「今、この島の人たちがやっとるのは、戦争じゃ。昔となーんもかわっちゃおらん。」
実は、島民の多くは、戦争がもたらす「熱狂」を歓迎しているのかもしれない。
コンラート・ローレンツも指摘するとおり、「熱狂」は「快」をもたらしてくれるからである。
「戦争」は、遠い昔の話ではなかった。
この芝居を観て、私は、デー・テー・ファーブラ という言葉を思い出したのである。