Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

デー・テー・ファーブラ

2023年06月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「舞台は、日本のどこかの島。改革派と保守派がしのぎを削る村長選挙の真っただ中、年に一度の女性だけで行われる神事が行われようとしていた。
 そこへ集った、年齢も立場もバラバラの女性7人。
 ワンシチュエーションで展開される、女性7名の真摯で、時に滑稽な会話を通して、結婚、不妊、介護、パワハラ...女性たちが直面する様々な問題が浮かび上がります。
 伝統継承と変化に揺れる地方都市は、やがて彼女たちの姿に重なり、日本の「今」を感じることができるでしょう。

 「全裸監督」の脚本も手掛けた山田佳奈さんは、「沖縄の離島」で取材した経験からこの作品を作ったと語るが、これを真に受けることは出来ない。
 この戯曲の背景を成す政治的な対立、すなわち村長選挙における「村長と区長の一騎打ち」について言えば、これは沖縄の島のことではない。
 私がそう言えるのは、サラリーマン時代、ある島(沖縄ではない)の政治・経済状況について、前任者から聞いて唖然とした経験があるからである。
 その前任者によれば、A島はXという政治家とYという政治家がともに地盤にしていて、XとYは選挙のたびに激しい抗争を繰り広げていた。
 島民も”X派”と”Y派”に分かれて激しく対立していたが、選挙制度の変更によってYがA島から撤退するや、”Y派”であった人たちの大半が仕事を失い、借入金の返済が出来なくなったというのである。
 当時「○○戦争」と呼ばれていたこの島の状況について、私もテレビなどで見聞きしていたものの、実際に赴任してみるまで、これほど「ゼロサム状況」が深刻だとは知らなかった。
 この芝居の中核的なテーマも、「人間同士の争い」であるが、島に住む者、あるいは東京から取材に来た人までも、好むと好まざるとにかかわらず争いに巻き込まれてしまい、「村長派」または「反村長派」のレッテルを貼られてしまう。
 「ゼロサム族」、「マウンティング族」(「村長の娘」がその典型)と付き合っているうちに、「敵」か「味方」のいずれかに分類され、いつの間にか当事者になってしまうのである。
 例外なのは、外部から嫁いできた女子大生(若い子)と、祭祀を執り行う
「司さま」くらいである。
 「司さま」は、この島の現状について、こう指摘する(但し、私が記憶に基づいて再現したセリフなので、おそらく不正確である。)。
 
 「今、この島の人たちがやっとるのは、戦争じゃ。昔となーんもかわっちゃおらん。

 実は、島民の多くは、戦争がもたらす「熱狂」を歓迎しているのかもしれない。
 コンラート・ローレンツも指摘するとおり、「熱狂」は「快」をもたらしてくれるからである。
 「戦争」は、遠い昔の話ではなかった。
 この芝居を観て、私は、デー・テー・ファーブラ という言葉を思い出したのである。
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根本原因(13)

2023年06月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「攻撃」の359頁以下は、コンラート・ローレンツによる結論(実際的な行動規範)となる。
1 カタルシス(代償と昇華)
 この代表として「スポーツ」(p364)が挙げられる理由はもはや説明を要しないだろう。
 やや意外だが、「国家間の競争」は、互いに「個人的に」知り合うことができ、「同じ理念」へ熱中させることで「熱狂」の一体化作用を呼び起こすため、「攻撃性」を抑制する力になるという(p366)。
 彼の見解では、おそらくロシアや北朝鮮などにはオリンピックその他のスポーツの国際競技に参加してもらうのがよいということになるだろう。
2 個人的に知り合いになる(相手を知る)こと
 これだけでも「攻撃性」を抑制するのに役立つ。
 「相手を知らない」ということは、攻撃行動の解発を極めて容易にするからである(p366)。
 確かに、山の中に住むクマが、生まれてこのかた見たこともない動物=人間に遭遇するや否や攻撃してしまうという事態は、容易に想像出来るところである。
3 熱狂の反応を賢明にそして批判的に支配していくこと
 「熱狂」は戦争などの大量殺戮を生み出すものであり、顕著に行われてきたのは「仮想敵」をでっちあげる方法である(p368~)。
 このメカニズムをよく知り、扇動されないことが必要である。
4 芸術と科学
 いずれも「党派」を超越するものであり、熱狂を解発するわなに対する防御機能を持つ(p374)。
5 笑い
 「熱狂」に似ているが、同じ事柄についての笑いは、兄弟的な共通帰属感情を作り出す(p374~)。

 以上に付け加えるとすれば、「強すぎる/不健全な自己愛の抑制」という観点から、「「統合」の促進」を挙げるべきだろう。
 すなわち、
① 「よい体験」が「わるい体験」よりも多い乳幼児期
② それなりに「わるい体験」も含まれる思春期・青年期
という、健全な精神の発達を促進する環境が必要だろう。
 それでも、運悪く「強すぎる/不健全な自己愛」を持つ人間(典型的にはパワハラやモラハラの加害者)が出現することは避けられない。
 そのような場合、差し当たり「逃げる」ことをお勧めする。
 私自身も、「ゼロサム族」や「マウンティング族」の気配を感じると、つま先立ちで退散することが多い。
 そう、ハイキングでクマに出会った場合を想定すればよいのである。
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根本原因(12)

2023年06月18日 06時30分00秒 | Weblog
 「熱狂」という新しい概念が出てきて少々面食らうが、私見では、これについても、「自己愛」(Narzissmus)、あるいは「拡張された自己」(erweiterten Ich)の原理によって説明することが出来ると考える。
 それによって、「熱狂」と「攻撃」との結び付きも分かりやすくなると思う。
(但し、以下はあくまで素人の推測に過ぎず、(社会)心理学的にこれが正しいことを保証するものではない。)
 ここでのヒントは、マイナス(「熱狂」=マニアと語源が同じ)が信奉するディオニュソスの性格である。

 「心をさらして、行動するディオニュソス。それは、噴出させ、跳躍させるその力のもっとも奥深いところまで読みとらせてくれる。沸き立つ血と鼓動するぶどう酒が一つの共通原理に合流するまさにその点にいたるまで。その共通原理とは、火山のような激しさで、一挙に、そのエネルギーを解き放つ能力を、それ自身の中から、しかもただそれのみから、引き出す生命の体液の「力」である。殺戮の狂気、跳躍するマイナス、泡立つ生ぶどう酒、血に酔った心臓ーーーこれらは一つの同じ行動様式なのである。」(p123)

 ディオニュソス(あるいはぶどう酒)が心の中に(en)とりついた(thus)状態(iasm)になると、「熱狂」(マニア、enthusiasm)が生じる。
  「熱狂」は、マイナスの「跳躍」(ペダン)や「神憑り」(エクペダン。原義は「~から遠くへ飛ぶ」)を、あるいは、心臓・性器内の体液(血・精液)の「噴出」(エクペダン)を引き起こす。
 この「ペダンーエクペダン」=「跳躍ー噴出」は、自我が外に向かって拡張(もはや「離脱」とでも言うべきか?)してゆく動きであり、「自己愛」の究極の形態と言うことが出来ると思われる。
 そして、多くの人は、「熱狂」(Enthsiasmus:エントゥジアスムス)が与えてくれる「忘我」(Ekstase:エクスターゼ。エクペダンと語幹は同じ)の力には、到底逆らうことが出来ないのである。
 問題は、コンラート・ローレンツが指摘し、かつマイナスの行動が示しているとおり、「熱狂」は、「自分の兄弟を打ち殺し、しかもこれこそまさにその最高のものに仕えるためにせざるをえないという確信をもって打ち殺すという危険を伴う」ということである(「攻撃」p358)。
 
 
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根本原因(11)

2023年06月17日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「古い中国のことわざに、動物はすべて人間の中にあるが、人間すべては動物の中になしというのがある。・・・人間のさまざまな反応の中には、類人猿の祖先から受けついだまぎれもない「動物的」行動様式が不可欠であること、しかもそれが単に人間特有で高度に道徳的だとみなされる行為ばかりでなく、現実的である行為にとって不可欠であることを何よりもよく示す反応がある。この反応は、いわゆる熱狂である。・・・
 サルがその社会的防御反応の際にどういう体験をするかは知らないが、かれが熱狂した人間と同じように、自分をかえりみず英雄的にその行為に自分の生命をかけるのだということはわかる。・・・もともとは個人的に知っている具体的な社会集団の仲間を守るのに役立っていた反応が、しだいに個人の集団よりももっと持続するところの超個人的な、伝統によって受けつがれた文化的価値を守るようになったのだということは、ほぼたしかだと思われる。」(p353~357)

 コンラート・ローレンツの分析は、終盤で「攻撃と集団」というテーマに移り、その中で「およそ昇華などされていない社会的防衛反応」というキーワードが出て来る(p353)。
 「社会的防衛反応」は、分かりやすく言えば「集団的攻撃行動」のことである(「防衛」を「攻撃」に置き換えた理由は後述する。)。
 これは、「種内攻撃」の本能に淵源を有しており、「熱狂」を生み出す。
 「熱狂」は、昇華されない場合、直ちに「闘争」に移行する(むしろ、「熱狂」は「闘争」の前駆状態と見るのがよいかもしれない。)。
 しかも、始末の悪いことに、熱狂を最も強く解発するのは、出来る限り多くの人間が熱狂に同調することであり(p354)、集団によって熱狂は増幅されて行く。
 これについては、ディオニュソスの祝祭におけるマイナスや、暴徒化したサッカーファンなどを思い浮かべるとよいだろう。
 誰もが知るように、熱狂が与えてくれる満足感は並外れているので、その体験の誘惑には殆ど逆らうことが出来ない(p357~358)。
 ここで重要なのは、コンラート・ローレンツが指摘するとおり、「超個人的な、文化的な価値」=集団的価値に向けられた「熱狂」を消散させる刺激状況を生み出すためにこそ、「党派」=「敵」と「味方」が作り出されるということである。
 つまり、まず「集団」が存在しており、そこから「熱狂+闘争」が帰結されるというのではなく、「熱狂+闘争」という本能的欲求を満たすために、集団的価値及び「集団」(但し、「味方」と「敵」)がでっち上げられるという構造なのである。
 このため、しばしば「集団的価値(例えば、「無垢なロシアの存続」)が危機に瀕しており、これを「防衛」する」という大義名分が出て来るのだが、「防衛」は誤魔化しであって、本質は「攻撃」である。
 こういうわけで、「なんとかイズム」には要注意なのである(p354~)。
 
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根本原因(10)

2023年06月16日 06時30分00秒 | Weblog
(前回の続き)
 「種内攻撃の歴史は、個体間の友情や愛よりも、数百万年も古い。・・・種内攻撃は相手役である愛をともなわないことがあるらしいが、逆に攻撃性のない愛は存在しないのだ。
 概念として種内攻撃とはっきり区別しなければならない行動のしくみは、大きな愛の、小さなみにくい兄弟である憎しみである。ふつうの攻撃性とちがって憎しみは、愛とちょうどおなじく個体へむかう。たぶんそれは愛の存在を前提としているのだろう。愛したことのある場合にしか、そしていくら否定したくてもやはり愛している場合にしか、ほんとうの憎しみというものはありえないだろう。」(P300~301)

 ちょくちょくフロイトを引用していることから分かるとおり、コンラート・ローレンツは、フロイトの著作を読んでいるのだが、上に引用した文章からすると、彼が「欲動とその運命」を読んでいることはほぼ確実である。
 「愛」と「憎しみ」が同じ起源をもつことを認めているからである。
 だが、彼の見解がフロイトのそれと大きく異なるのは、もともとあらゆる生物は「種内攻撃」、つまり「相手が同じ種であるというだけで無差別的に行う攻撃」を行う習性があり、これが後に「愛」(と「友情」)に転化したと考えている点である。
 彼がこの本の初めで取り上げた珊瑚礁の熱帯魚について言えば、通常の「種内攻撃」は、「個体」と「個体」の間で行われる(ダイビングやシュノーケリングが好きな人ならこうした光景を見たことがあるはずで、私などは、自分の指を使ってクマノミと「種内攻撃ごっこ」ををするのが好きである。)。
 但し、この場合のターゲットは、「同じ種の全ての個体」であり、特定の「個体」ではない。
 これに対し、「愛」と「友情」を覚えた後のチンパンジー、あるいはそれと殆ど同じDNAを持つヒトについて言えば、「種内攻撃」は、「集団」と「集団」の間で繰り広げられるものとなっている。
 このことは、例えば、「Chimpanzee Cannibalism(チンパンジーのカニバリズム)」を観ると分かりやすい。
 2つのチンパンジーの群れが、1つのテリトリーを巡って争うとき、典型的な「種内攻撃」が行われる。
 この場合のターゲットは、特定の「個体」ではなく、「集団」(構成員全員)である(たまたま逃げ遅れた弱い個体(多くは子供)が結果的にターゲットとなるだけである。)。
 同時に、「攻撃」の主体も、特定の「個体」ではなく、「集団」である。
 そして、獲物を食べるのも「集団」ということになる。
 他方において、同一の「集団」内の「種内攻撃」は強く禁じられる(これが「愛」と「友情」の結果の一つである。)。
 こういう風に見てくると、同じ「種内攻撃」でも、珊瑚礁の熱帯魚と、チンパンジーのような群生動物のそれとでは、構造が大きく異なっている。
 両者を比べると、一周まわって同じところに来たというのではない。
 後者では、「自己愛」が、自分の所属する「集団」に拡張されたと言うことが出来そうである。
 もっとも、惜しいことに、チンパンジーはコンラート・ローレンツの観察の対象には含まれていなかった。
 なので、彼は、愛も憎しみも「個体」に向けられるものだと言ってしまったのである。
 
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根本原因(9)

2023年06月15日 06時30分00秒 | Weblog
 強すぎる/不健全な自己愛が育たないようにするためには、乳幼児期において、「よい体験」が「わるい体験」を上回るよう配慮することが重要となる。
 だが、成人するまで「よい体験」ばかりしていると、「ノン・フラストレーション児童」になってしまい、社会に適応できなくおそれもある。
 なので、ある程度成長した児童にとっては、「わるい体験」を味わうことも必要である。
 ところで、強すぎる/不健全な自己愛と一体の関係を成す「ゼロサム思考」や「マウント思考」は、個人に特有のものではなく、集団のレベルでも発現することがある。

 「シドニー・マーギュリンは、コロラド州デンバーに住んでいる精神科医で精神分析学者であるが、かれはプレーリー・インディアン、とくにユーティ族について、じつに精密な精神分析的、社会心理学的研究を行っていた。かれが明らかにしたところによると、これらのインディアンたちは、今日の北アメリカのインディアン保護地域の通常の生活条件のもとでは、攻撃衝動をうまく消散できず、攻撃衝動をもてあまして非常に悩んでいる。マーギュリンの意見では、プレーリー・インディアン族がほとんど戦争と盗みばかりの野生生活をしていた数世紀そこらの比較的短い間に、極端な淘汰圧が働いて、極度の攻撃性が育てられたのだという。かれらがこんな短い期間のうちに遺伝する形質を変えてしまったということは、大いにあり得ることなのだ。きびしく淘汰していけば、家畜の品種も同じようにすみやかに変わる。」(p334)

 いかにも生物学者らしい指摘であるが、人間に限らず、生物の性格は遺伝する。
 余談だが、昔、モガミというフランス生まれのいわゆる「暴れ馬」がいて、日本では種牡馬として活躍したのだが、その産駒は、パドックを見ればすぐに分かるというので有名だった。
 モガミを父に持つ馬は、パドックでは、常にイライラしながら速足で歩いているからである。
 さて、こういった攻撃的な性格をもつ個体が、集団のレベルで優勢になると、この集団全体が暴徒化するのは自然な流れである。
 集団で「戦争と盗みばかりの野生生活」を行っているうちに、攻撃的な性格が遺伝上の優勢な形質となり、「淘汰圧」によって攻撃的な集団が誕生するわけである。
 ちなみに、ユーティ族インディアンはノイローゼを発症する頻度が極めて高く、かつ、自動車事故を起こす傾向も不思議なくらい強かったが、マーギュリンは、その原因は「満たされない攻撃性」にあると考えた。
 私は、この推理は全く正しいと思う。
 こうした例は、日本人にとっても他人事ではない。
 一部の法学部・ロースクールのように、「勝ち負け」を競うのが大好きな人たちが集団を形成してしまうと、ユーティ族インディアンほどではないけれど、「競争と盗みばかりの大学(院)生活」の中で、攻撃的な集団が誕生してしまうかもしれないのである(没知性から窃盗・賭博へのロードマップ)。
 この種の集団を、「ゼロサム族」、「マウンティング族」などと呼ぶと分かりやすいかもしれない。
 
 

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根本原因(8)

2023年06月14日 06時30分00秒 | Weblog
 スポーツ選手が「勝ち負け」に注力するのは当然のことかもしれない。
 だが、一般社会でやたらと「勝ち負け」にこだわる、「ゼロサム思考」、「マウント思考」の人たちを見かけるのはなぜだろうか?
 一つの答えは、「乳幼児期に”よい体験”よりも”わるい、いやな体験”が多かったために、『対象』が分裂したままで統合されないから」というものである。

 (乳児には)「いろいろな体験が断片として表象化するわけですが、主として”よい体験の記憶痕跡”と”わるい、いやな体験の記憶痕跡”が別々の表象の元になる、と言われています。情緒体験として異質なものを連続的に記憶するのは難しいから、情緒的に近いものが集まって部分を作り出すわけです。・・・
 成長するに従って、健常な乳幼児はしだいに表象を統合できるようになります。どのようにして統合されるのでしょうか。周囲の状況や自分の内面に起こる気持ちを正確に理解できるようになると、つまり経験や知識が増してくると、物事の受け止め方も現実に即したものになってきます。・・・
 こうなるには、自我機能が発達することと、理解力、推理力、状況の多面的把握などの能力が発達することが条件となりますが、そうした発達があれば自ずから現実認識が進み、統合が起こらざるをえないのです。しかし統合が起こるのにはもう1つ条件があります。それは、それまでの乳幼児の体験で、よい体験の方がわるい体験より上回っていることです。内的にはよい表象世界がわるい表象世界より大きいことです。体験に即して言えば、たいていの場合は自分の願望が満たされ、気分のよい状態にあって、まれには嫌なことを我慢しなければならないことがある、という配分になっていることです。これなら「まあたまには仕方がないか、我慢するか」となるでしょう。この”仕方がない現実を受け入れること”から統合が起こるのです。」(p145~148)

 「勝ち負け」は、(フロイトの用語で言えば)「対象」(Objekt)を、「敵」(不快)か「味方」(快)かに二分・峻別してしまうために生じるのだが、こういう思考に陥ってしまうのは、対象が分裂したまま統合されないからだという見方が出来る。
 わるい体験が相対的に多いために「統合」が実現出来ていない人の場合、よい体験に固執してひたすらこれを守り続ける反面、それ以外の対象を拒絶(”原初的な拒否”)ないし攻撃してしまうというわけである。
 言い換えれば、この種の人たちは、(「味方」、「快」だけに囲まれた)「自己愛」(ナルシシズム)の世界に引きこもっており、その外の世界に向かって自我を開いていないということなのである。
 こういう風に考えてくると、「攻撃」衝動の根本原因は、強すぎる/不健全な自己愛にある、ということが出来るだろう。
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根本原因(7)

2023年06月13日 06時30分00秒 | Weblog
 「・・・夫婦の間のいさかいがとりわけ恐ろしい様相を示すのも、そのような原因ばかりではあるまい。むしろわたしの思うには、真実の愛にはみな、潜在的な、連帯によってかくされた攻撃性が大量にひそんでいるので、このきずながいったんちぎれてしまうと、わたしたちが憎しみといっているあの恐ろしい現象が表面に出てくるのである。攻撃性を含まぬ愛はないが、また愛なき憎しみも存在しないのだ。」(p297)
 
 何と、コンラート・ローレンツも、フロイトと(結論的に)同じことを述べていた!
 私見では、両者とも「攻撃」の根源に「自我」(の拡張)ないし「自己愛」があると見ているように思われる。
 つまり、自我の拡張(自己愛の発現)がうまくいけば「愛」(自我の相互拡張)となるが、失敗すると「憎しみ」が生じ、ひいては「攻撃」に転じるというのである。
 このことは、「勝ち負け」(これが1つのキーワードである)に力を注ぐスポーツ選手の行動を見ると分かりやすい。
 例えば、【サッカー日本代表選手ブチギレ6選】敵ではなく味方にブチギレた選手たちがヤバすぎるの中の乾貴士選手にまつわるエピソード(1分34秒付近~)が興味深い。
 乾選手の「シャワー室のガラスを叩き割る」という攻撃的行動は、「攻撃」そのものを目的としたものではない。
 ここで重要なのは、「自身のプレーの不甲斐なさ」、すなわち「傷ついた自己愛」が、彼の攻撃的行動の原因となっているところである。
 「傷ついた自己愛」は、「攻撃」衝動=怒りに転じたのだが、これを発散させる手段として、たまたまガラスを叩き割る行為が選ばれたのだろう。
 このように、「攻撃」衝動は強すぎる自己愛と裏腹を成すものであり、これを「イヌイの法則」と呼ぶことが出来るかもしれない。
 深刻なのは、政治家にも「イヌイの法則」が妥当しており、この種の人物は多い。
 そして今や過剰な自己愛のために、核戦争の危険すら生じているのである。

  「このエージェントによれば、FSBの人間はプーチンと個人的に接触しているわけではないが、もしプーチンをFSBに採用する予定の人材として評価し、「状況プロファイル」を作成するとしたら、4つの重要な見解を示すだろう。
 第1に、「事実として自己愛性障害がある。おそらく幼少期のコンプレックスによるもので、それを克服する方法として発症した」
 プーチンはこれまで何度もナルシシストのレッテルを貼られたことがある。カーター政権の国家安全保障問題担当大統領顧問だった故ズビグネフ・ブレジンスキーは、プーチンを「ナルシスティックな誇大妄想」と非難し、イランのマフムード・アフマディネジャド元大統領はプーチンを「暴君的ナルシシスト」と呼んだ。ファイナンシャル・タイムズ紙はソチオリンピックを「プーチンのナルシスティックな自己賛辞」と表現した。
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根本原因(6)

2023年06月12日 06時30分00秒 | Weblog
 そういえば、普段は温厚なのに、クルマを運転すると人格が変わったように攻撃的になる人をときどき見かける。
 これは、(高速度で)「移動」をしていると、「攻撃」衝動にスイッチが入ってしまうからではないだろうか?
 近年社会問題化した「あおり運転」にしても、私などは、根本に「攻撃」衝動があるのではないかと推測するのである。

 「感情コントロールができない
 丸山(1995)は、交通事故を起こしやすい人の特徴に、一時的な興奮を抑えることができない衝動的な傾向”かっとなる特性”を挙げています。また煽り運転の研究が盛んな、イギリスの研究では、交通事故の85%が怒りの結果と分かっています。・・・
 自分が嫌い
 怒りっぽい人は、自分のことが嫌いな傾向にあります。そして、自分を嫌いな人は、攻撃性が強いことも分かっています。怒っているということは、自己嫌悪になっている可能性が非常に高いのです。
 勝ち負け思考
怒りの感情が出やすい人は、周囲との競争意識が強い傾向があります。何事も勝ち負けで考えてしまうことで危険運転など攻撃的な行動をとってしまいます。
 支配-被支配
イライラしやすい人は、上下関係での人間関係しか築けない傾向があります。過去に虐待などの強い上下関係の場所にいたことで、勝ち負け思考が強くなり、支配・被支配の関係を作ってしまいます。

 クルマの運転は「攻撃」衝動の”ガス抜き”となり得るわけだが、その最中に「怒り」を呼び起こすような出来事が生じると、”ガス抜き”の次元を越えて、本当の「攻撃」=「あおり運転」に発展してしまうということのようだ。
 ここでのキーワードは、「勝ち負け」である。
 当ブログでは、「ゼロサム思考」、「マウント思考」などという言葉で批判をしてきたが(ゼロサム思考ゼロサム思考(2)25年前(11))、「攻撃」の根源にこの種の思考があることは間違いないだろう。
 そして、「あおり運転」型の「攻撃」を行う人は、「自我」ないし「自己愛」に大きな問題を抱えていると思われる。

 「愛は、自我が<器官快感>を獲得することによって、欲動の刺激の一部を自体愛的に満足させることができることに由来する。愛は根源的にナルシシズム的なものであるが、その愛は拡張された自我の中に同化された対象にも適用されるようになる。・・・ 
 憎しみは、対象との関係においては愛よりも古い。ナルシシズム的な自我が、刺激を与え外界に対して示す原初的な拒否から、憎しみは発生する。」(p44~45) 
 
 何度読んでも味わい深い文章である。
 「自我」を拡張しようとしたところ、そこに入り込んだ「対象」が「不快」に感じられると、この種の人たちは、この「対象」に対して「原初的な拒否」、すなわち「攻撃」を行うのである。
 なので、「あおり運転」の加害者たちと、「一方的な『自我の拡張』」を拒否したホステス・キャバ嬢に逆切れしてケガをさせる人たちは、同様の精神的な問題を抱えているということが出来るのである。
 
 
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根本原因(5)

2023年06月11日 06時30分00秒 | Weblog
 Duel (決闘)をモデルとする格闘技系スポーツ(典型はプロレス)が、「攻撃」衝動の”ガス抜き”であることは大変分かりやすい。
 また、Duel =ゼロサム型の集団的スポーツが、戦争の代用品としての側面を有しており、それゆえ「攻撃」衝動の”ガス抜き”の機能を持ちうることは、例えば、エスタディオ・ナシオナルの悲劇(【実話】観客328人が圧死…サッカー史上最悪の惨事|東京五輪予選)などの例からも分かる。
 これに対し、ちょっと分かりにくいのが、「工具活動」の一つである「走る、飛ぶ、泳ぐなどの場所の移動をする行動 」が”ガス抜き”の機能を持つというところである。
 動物の例だとちょっと分かりにくいが、人間がクルマで移動する場合を考えると分かりやすいと思う。
 コンラート・ローレンツの主張を人間に拡張すれば、クルマを運転して移動することは、やや迂遠な方法であるにせよ、「攻撃」衝動の”ガス抜き”になり得るのである。
 そう言えば、アメリカ人はプロレスが大好きなだけでなく、クルマを運転するのも大好きである。
  試しに、ロサンゼルスやシカゴあたりで、週末に運転してみるとよい。
 多くの人たちが、まるでカーレースに参加しているかのようにクレイジーな運転をしている。
 アメリカでは、プロレスとドライブが、「攻撃」衝動の”ガス抜き”という、同じ機能を果たしているかもしれないのである。
 但し、私自身は、アリゾナあたりの広大な砂漠の中を、夕暮れ時にゆっくりと運転するのが好きである。
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