江戸時代、歌舞伎は「現代劇」として上演され、その題材には当時実際に起きた事件(「忠臣蔵」がその筆頭)がしばしば用いられた。
ということは、江戸時代の社会構造を分析するに当たっては、演目次第ではあるが、歌舞伎を素材として用いることが有効かもしれないということである。
例えば、「魚屋宗五郎」について言えば、不義密通が死刑に値する犯罪とされるというのであれば、その社会には、当然のことながら「政治」も「法」も存在しないことが分かる。
言い換えれば、その社会にはレシプロシテ原理が蔓延っており、「占有」もおよそ理解されなかった、ということである。
さらに、誤解を恐れずに誇張して言えば、江戸時代、人間は「個人」としては存在しておらず、「イエ」の構成員としてのみ存在していた。
「イエ」の存続・永続こそが、個々の人間にとっての至上命題だったのである。
なので、お蔦は、魚屋(=「イエ」)のピンチを救うため、磯部家(=「イエ」)に200両で売られた。
つまり、「イエ」同士の échange の客体とされた。
お蔦は、「イエ」原理を脅かす”犯罪”=「不義密通」の疑いで磯部から「手討ち」(主人=「イエ」の当主による奉公人=「イエ」の準構成員の殺害。これは「犯罪」ではない!)にされてしまう。
宗五郎は、一度は磯部に対し憤りを覚えつつも、最後は磯部から「弔慰金」と(宗五郎・お蔦の父に対する)「二人扶持」という代償を受けて納得する(後者がお蔦の「父」に対する贈与なのは、彼が「イエ」の当主だからである。)。
つまり、この物語においては、最初から最後までレシプロシテ原理が貫かれ、「イエ」と「イエ」の間における échange に終始しているのである。
・・・さて、「新春浅草歌舞伎」第二部の1本目「熊谷陣屋」も、3本目の「魚屋宗五郎」に負けないくらいひどい。
「1184(寿永3)年、源平一谷合戦の折。源氏の武将熊谷次郎直実の陣屋前に桜の若木があった。桜には「一枝(いっし)を盗むものは、一指(いっし)を切り落とす」という制札が立っていた。・・・
実はこの陣屋には、敦盛の首を実検するため主君義経が待っていた。実検のために衣服を改めて主君の前に出た熊谷は、まず制札を引き抜いて義経のもとへ差し出し、首桶(くびおけ)の蓋(ふた)を取って捧げ持つ。その首を見て相模はわが眼を疑った。首は敦盛ではなく、小次郎のものだったからだ。騒然となる母二人を熊谷は押しとどめ、制札を手にして義経の言葉を待つ。
義経は意外なことに、身替り首を実検して、敦盛に間違いないと断言した。実は、敦盛の本当の父親は後白河法皇なのである。皇統に連なる身分の敦盛の命を助けよと、義経は「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札に事寄せ熊谷に命じていたのだ。主命にこたえるため、熊谷は同じ年頃の息子小次郎の首を身替りにしたのだった。」