パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

人を信じているため?それともコストカットのため?

2015年11月08日 19時32分03秒 | 徒然なるままに

ドイツには電車に乗るための改札口がない
いきなり電車のプラットホームにつながって
目的の電車に乗ればいいことになっている
もちろん降りる場合の改札口もない 

(ミュンヘン中央駅  多分) 

切符を持っていなかったら中で買えばいい
というのが日本だが、そうはいかない
車掌が切符のチェックに廻ってきて
切符を持っていないとなると、無賃乗車ということにされて
大きな罰金を払うはめになる

もし車掌に出くわさなかったら
現実的には無賃乗車ができる

ドイツに行った時は、こんなキセル乗車のできそうな
改札口が無いシステムになっているのが不思議で仕方なかった

何故、当たり前のようにこのシステムを採用しているのか?
人間は基本的に善人の集合、規則を守ってくれるものと仮定しているのか
それとも改札口のシステム導入費よりもキセル乗車の損害のほうが
少ないと 考えて採用しているのか
それとも他の理由があるのか

でも改札口がないとすっきりしているのは間違いない

ところで、地元の飯田線の新城駅は豊橋に向かう上り電車には
一番線から乗ることができるが、下りの列車は2番に到着し
改札口にたどり着くには歩道橋を利用しなければならない
この歩道橋がすこぶる面倒で
雨の日などは狭い道が傘で塞がれてしまい
すれ違いがしにくくなっている
それでお年寄りも使いたがらなくて
手前の野田城の駅で降りて、家族の誰かに迎えに来てもらう例も
少なくないらしい

上に行くのと下に下るのと、同じだけの階段数だとしても
下のほうが楽な気がする
ドイツの駅は今思い出してみると該当する乗り場に移動するときは
下をくぐっていたような記憶が多い
雨が降っても傘をささなくても良いし
こちらのほうが便利だな!
単純にそう思ったりする


(ニュルンベルクからローテンブルク行く途中のアンスバッハ駅  多分) 

日本人がドイツに行って改札口が無いのを不思議に思うように
ドイツ人は日本に来て改札口だらけなのを不思議に思うだろう
ほんと世界はいろいろだ
 

 

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いつまでも悩まされる住民投票の選択肢

2015年11月08日 08時11分51秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

半年前に行われた新城市の庁舎建設の見直しについての住民投票
選ぶのは画像の中にある選択肢のどちらか

新城市以外の人は、この選択肢が一体何を表しているのかわかり難い
と思うに違いない
庁舎見直しというのに何故道路の話が出てくるのか
変更を伴わない、伴うってどういうことか、、、

しかし、現実には新城市民ですらこの選択肢は分かりにくかった
そして新聞社の出口調査よれば意図した見直し計画と反対の方に
丸を打ってしまった人もいたという

この分かりにくい選択肢は、住民投票時に市民を悩ましただけでなく
今になっても、もしかしたら今のほうが問題かもしれない
後を引いて問題を引き起こしている

住民投票の結果は何度も取り上げているように
画像の選択肢の左側(選択肢2と名付けられた)が勝利をおさめた
投票期間中は、この選択肢ではわからないのでよりイメージし易い
5階建て50億対3階建て30億という対立が明確化され
新聞紙上でも連日そのように取り上げられた

問題はここから
結果は左側(選択肢2)が勝利をおさめたものの
条例案の正確な文言の解釈は「路線の変更を伴う」ことだけが問われている
そして住民投票の結果は尊重はするが拘束力はない
この法令上の解釈で現実的には普通の市民が理解した方法での
見直し方法は試みられていない

道路の変更を伴う計画にした
東庁舎の活用も行うことにしている
(ところがフル活用ではなくて会議室に利用するなど)
住民投票の結果を踏まえて(きちんと守って?)見直し計画をしたが
結果的に計画の総工事費はこの数字までなってしまった
けっして住民投票の結果をないがしろにしているわけではない
これが現時点での行政(市長)の言い分

しかし、これは市民感情を理解しているのか大いに疑問
そもそも住民投票自体が、小さな地方都市に分不相応な大きさの
庁舎を建てること(その大きな費用)の反対のために
行われたことであって、肝心なのは総事業費の縮小が一番の問題となっている

しかし、条例案では「道路の変更を伴う」だけが問われていて
金額は関係ないとの姿勢を何故か頑なに続けている
それが法令上の解釈だ、とされて

この条例案(選択肢)が議会で決まるまでは複雑な紆余曲折があったが
仮に条例案を決める時点で、今起きているようなことを想像して
(つまり住民投票の結果がどちらになったとしても、解釈問題で
 今までどおりに近い計画が実行できる)
条例案を作成したのだとしたら、そして囁かれるあの人の主導で
行われたのだとしたら、いくら素人が文句を言っても法令上は
問題ないと言い切るのは、その政治手法自体に問題があるのではないか

問題の有りそうな政治手法は、この住民投票案に関することだけでなく
住民投票になってしまった庁舎建設の計画の進め方にもある
庁舎建設の計画の説明会は開いた(パブリックコメント対する返答は?)
あるべき庁舎機能のワークショップも開いた(計画の金額的な縛りはあったか)、、

かたちの上の段取りは踏んでいるように見える
しかし実態が伴っていないから結局は見直しせよ!
という市民で住民投票になってしまった

ところが、何故住民投票にまでなってしまったのか?
という総括や反省がないまま、法令上の事柄は守っていると言い切って
計画を進めているとしたら、それは本当に庶民を代表した運営をしていると
言えるのだろうか

饒舌な淀みない答弁や説明ではなく、
庶民感情を推察した(洞察した)理解やそれに伴う行動をしないとしたら、
その進め方は新城市を失望感に満ちた地方都市にしてしまわないか
大いに心配

本当にあの住民投票案はいつまでも悩みの元だ
あれに賛成し、選択肢の文言の変更に応じなかった議員さんたち
彼らは本当に責任ある立場を踏まえて真に検討したのだろうか
(議員さん一人ひとりは良い方も少なくないので、
  何故あんな判断をしてしまったかが、とても残念だ)

そして抽象的な文言の解釈でことを終えようとする政治手法は
問題はありはしないか

※毎日のように、しつこく、くどく取り上げているが
本当にこのままで良いのか
という不安を拭い去ることができないでいる

 

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