パンセ(みたいなものを目指して)

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「法の上では、、、」誤進入の問題

2015年11月06日 10時24分24秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市の新庁舎見直しで問題となっているのは
体育館側に大型車が誤って侵入した時の対応の仕方
一般の人は普通考えるように大型車の侵入は禁止するような段取りをすれば
(看板など)クリアできるのではないか
そもそも誤進入自体があり得ないのではないかと考える

しかし、どんな進入禁止の策を講じても間違える場合は間違える
そういった場合の対処法は準備しておかないといけない
これは「法の上のきまり」とされている

頭から入った大きな車は頭から出られるようにしなければならない
しかも安全に向きを変えることができるようにしなければならない
この縛りは現実的には庁舎の敷地面積を大きく減少させることになっている

しかし、一般の人の考え方は冒頭の考えが浮かぶので
この仮定自体が少し現実的でなくて、監督官庁に交渉の余地があるのではないか
と考える

市は監督官庁としっかり話し合いをしているというが
その交渉力に疑問をもつ人びとは、一体どんな交渉をしているのか
と交渉現場を見たいと思うようになった

そこで監督官庁の方にその旨を伝えると
監督官庁は「道路について反し合うのは道路管理者の方々だけ」
と「法の上の答え」
でも一度は、道路管理者の責任者が許可すれば交渉現場に
意見をいうといったことをしなければ同席しても良いと
したのだが、後日では「そんなことは言っていない」

確かに道路管理者だけが話すというのは
システム上理解できないことはない
しかし、一般人はその意志としての意向はわかって欲しいと思っている

でもそれは(市民の意向は)道路管理者にしっかり伝えて下さい
当然の答えが返ってくる

で道路管理者に話しに行くと、「法的には、、、、」
その段取りは下準備として少しづつ詰めていって、、、
結局は市民の意向は「法的には、、、、できません」

でも、本当にそうなのか、単に交渉力がないだけではないか

ここからは部外者が関わることができないから
信用したり頼るしかないことになってしまう

現実の問題として、誤進入の対策がクリアできないとなると
庁舎は何も利用できない土地
(駐車場にも利用できない、あるかないかの誤進入の方向転換のためだけの土地)
だけがバカでかく存在することになる
そんな不合理なことは感情的に受け入れがたい
(でも法律で決まってますから、、、)

何かやりきれない気分が残る
誤進入の方向転換のためだけの土地がバカでかくて
何も使いみちが無いことを経験しなければならないことになる市民は
これを納得できるのだろうか
「法の上では、、、」

なにも法律を無視しろというのではなく
現実的にもっと良い方法を考えることはできないか
ということ

本当にこんなままで良いのだろうか

 

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「法的にはどうしようもない」ということ

2015年11月06日 08時27分56秒 | あれこれ考えること

「賛同しかねるが、法的にはどうしようもない。」
昨日、愛知県から営業許可が出た産廃業者タナカ興業への
市長・市議会の姿勢はこうだったらしい
(山本拓哉さんのブログから)

たとえ少しばかり大げさだったり偏っていたとしても
この「法的にはどうしようもない」と言う状況は
今まで産廃反対運動を続けてきた人のみならず
他の場面でも嫌というほど味わってきた

まずは住民投票の結果について
条例案(選択肢)はあのややこしい文言
選択肢1 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し

選択肢2 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し 

この選択肢で争われた住民投票は、こんな抽象的なピント外れの選択肢では
選択しようがないので、よりイメージしやすいかたち
つまり、選択肢1.2の各陣営は5階建て50億と3階建て30億での投票運動を行った

ところが、結果が選択肢2が勝利を収めて、運動期間中は先に上げた数字の戦いであったが
住民投票が終わった時点で話されることは
「法的には住民投票は路線の変更の有り無しを問うているだけで
  かりに、拡大解釈をしたところで東庁舎の活用等をするかしないか
 だけで、金額云々は問題となっていません」
の答弁

ここで冒頭に上げたような状況を経験せざるを得なくなっている
「法的には、、、」
しかし、住民投票の当事者である市民は、条例案の正確な解釈を
知ることができていたか
だからこそ勘違いしないように各戸の説明文を郵送したというが
問題は、こんなややこしい選択肢を決めたことであって
市民が投票活動で認識した5階建て30億とか3階建て30億は
住民投票の結果とは関係ないとされても、なかなか納得はいかない

「法的には、、」これは現実には文書(法律)による支配ということ
これは一見当たり前の立憲主義の前提のように思われるが
一歩間違うと「悪法も法なり」ということになったり
もっと危ないのは「法的な文章の解釈の専門家」が
経済的な力をもったり、人事権を持っていたりする人びとに
依頼を受けて「一般人は賛同しかねるが、法的にはどうしようもない」
と言った結果を多数決で決められる事になりうる
(あのややこしい住民投票の条例案を作ったのはその一つ)
いやそれどころか、現実にそんなことが多くなっている

「法的に、、、」を一番良く知っているのは現実的には官僚、職員ということになるが
この職員の向かっている仕事の方向性がイマイチ自分は理解できなくて
疑問に思っていたが、ウェーバーの「権力と支配」の中には
官僚のことが書かれている

形式主義的な非人格性の支配。すなわち理想的な官吏は、怒りも興奮もなく、憎しみも情熱も 
なく、したがって「愛」も「熱狂」もなく、全ての義務概念の圧力の下で、「人物のいかんを問うこと 
なく」、何びとに対しても──すなわち同じ事実的状態にあるいかなる人に対しても──形式上平等に、 
その職務をつかさどるのである。

つまり、人としての感情もないところで、法的に整合性があるかないかだけの
職務を行うということになる
それが合法的な支配の元となるが、現実的には職員・官僚も一人の人間であり
法律上で定義された要素のような存在として生き続けると想定すること自体が
少し無理がありそう
生活者として官僚・職員は人事権を持った人には弱い
また感情的にも直属の上司には弱い
結局は「法的には、、、」とあっても、その方向性は完全にニュートラルな
ものとはあり得ない
そして自分たちの進める方向を説明するときは「法的に、、、」と
正当性を訴える

確かに現在は難しい複雑な時代となっていて、専門家が存在せざるを得ない
本当に世の中には幾つもの法律があって、それがどのようにからみ合って
お互い矛盾が無いようにするには一般市民の知識量や情報量ではなんともならない

そんな時に「法的には、、、」と言われてしまうと
現実の庶民ができることはなんだろうと考えてしまう

確かに庶民が物事を決めるような活動をするのは
感情とか勢い・空気に支配される可能性もあって
一概に良しとすることはできないし、現実には庶民が手にする
情報や知識、運営スキルなどは専門家(行政・議員さん)にはかなわない
庶民ができるのは具体策ではなく、なにか変だと感じることだけ
これが現実だ

そんななにか変だと感じる事柄の説明に
「法的にはどうしようもありません」と一言で片付けられるとしたら
人はやりきれない思いになるだけ

仮に法治社会として全うして行くのなら
庶民が納得できるるように(まで)説明が必要になる
しかし、その説明が七面倒臭いとなると
聞く方も嫌気が差しそうで、、、
(庶民も根気と努力が必要だが) 

結局は庶民にできることといえば
選ぶことしかできない(市長・議員)
この選ぶ根拠が何かとすると、、、、

ここまで来ると、それぞれの人格に期待するしか
なくなってきそうだ
市長・議員の人格
選ばれた人というのは選挙で選ばれた人というのではなく
自己内省の力で持って自分をコントロールできる人のこと
しかし、これも現実的には難しいか、、、

困ったものだ
それにしても、「法的には、、、」と言う問題
それがとても文章の解釈のスキルとなって、現実の社会人の
実生活上の感覚と離れてしまっているとしたら、、

いつものことだが、なんかまとまらなくなってしまった
もう少し、考えよう?

 


 




 

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